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近代自然科学における感性の優位

前に書いた記事「理性と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断」では、最後に本居宣長と「もののあはれを知る」について、少し取り上げました。
理論と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断|Suisho (note.com)
そこで、知・意・情の3領域(理性・道徳性・感性)のうち、情(感性)の領域が特権化されて取り出されること、それが文学の擁護につながることを書きました。ここで、文学というのは、近代文学(特に小説)と置き換えてもよいと思います。

今回は、近現代の自然科学を取り上げてみます。

近現代の自然科学においては、観測・実験(つまりは経験や感性)が、理論を考察する理性(あるいは知性:ここでは、使用している用語がいいかげんですが、無視してこのまま続けます。)に対して、実質的に優位に立っているのではないでしょうか。

例えば、同一の現象を説明するために、複数の異なる理論が考えられるとした場合、どの理論が正しいのかを、純粋理性(思弁・知性)の能力のみでは決定できないことになります。相反する理論のなかで、(カント風にいえば)アンチノミーに陥るだけです。

同一の現象を説明するために、複数の理論が考えられるというのは、自然科学の現場では、ままあることのようです。(私は、自然科学とは縁の遠い人間なので、適切なことは言えないのですが。)

そして、それらの異なる理論の真偽を決定するのは、観測や実験(経験あるいは感性)ということになります。

つまり、自然科学においては、感性が、悟性や理性よりも優位に立っているともいえるのではないでしょうか。

私たちが、有名な物理学者として、例えばアインシュタインを思い浮かべるとして、(彼は理論家でしたが、)実際に彼が世間的に有名になったのは、一般相対性理論の検証を、エディントンが皆既日食の観測で行った結果、理論が正しいことが明らかになったときであったと思います。ここで、観測により実際の検証がなされる前は、アインシュタインは、実質的に「ただ、妄想を垂れ流しているおっさん」でしかなかったのでしょう。そして、エディントンの観測の結果、彼は結果として、物理学者といえる存在になりました。言い換えると、皆既日食の観測という行為がなければ、アインシュタインは物理学者になれなかったのではないか。ただの妄想家で終わったのではないか。

(※ここでの話は、単なるたとえ話なので、一般相対論以前のアインシュタインの業績については意図的に無視しています。)

このアインシュタインを例にしたたとえ話は、実験・観測という感性に基づく行為が、思弁をこととする理性や悟性よりも、自然科学においては、実質的に優位に立っているのではないか、という見方を支持しているように思えます。少なくとも、近代の自然科学では、思弁のみによっては、真理に到達できないことは明らかです。感性のサポートがなければ、真理に到達することはできません。(※その真理にしても、カール・ポパー風に言うと、暫定的な真理ではありますが。)

(ここから以下は、余談です)
近現代の自然科学について、感性が優位に立っているのですから、近代文学については、なおさらそうなのではないでしょうか、という気にもなってきます。文学(近代文学)については、冒頭にも書きました。

こうして見てくると、近代という時代は、感性の時代、つまりは非理性の時代なのではないかと思えてきます。そして、非理性主義は、簡単に、反知性主義に転化するのではないでしょうか。

反知性主義というと、身近な例としては、ドナルド・トランプが思い浮かぶのですが、第二次世界大戦におけるファシズム体制でも良いのかもしれません。ただし、ドナルド・トランプと過去のファシズム体制は、かなり性質が異なると思います。ここでは、単に反知性主義ということで思いうかんだものを2例ほど挙げただけです。

あるいは、私たちの日常生活自体が、反知性主義にあふれているとも言えると思います。これで、3例目ですね。

そういった反知性主義は、もともと、近代・現代という時代に、あらかじめ組み込まれているものなのではないでしょうか。ここまで見てきたように、近代・現代という時代は、感性が、理性に対して、本質的に、優位に立つような時代であるからです。

これに対して、古代ギリシア・ヨーロッパ中世は、理性が感性に対して優位にあった時代ということになるのでしょう。少なくとも、哲学においてはそうであったのだろうと思います。

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