Suisho

好きなもの:哲学、数学、数学基礎論、論理学、コンピュータ、経済学、歴史、文芸批評、マン…

Suisho

好きなもの:哲学、数学、数学基礎論、論理学、コンピュータ、経済学、歴史、文芸批評、マンガ、ラノベ、アニメ、ゲーム

最近の記事

系の内部で生じる意味 系の内部で生じる意味は、系の外部から見ると、無意味である。 この世界が閉じているならば、世界の外から見て、この世界の内部のことは、無意味である。

    • 太陽が西から昇ってくる

      遠い昔、学生時代に、こんな話を友人にしたことがある。 宇宙の法則が、次の2通りのうち、どちらかだったとする。 (A)いつも、太陽が東から昇る。 (B)本日(2024年3月7日)の朝までは、太陽が東から昇る。明日(2024年3月8日)からは、太陽が西から昇る。 さて、本日現在が2024年3月7日の昼だとして、(A)と(B)の2通りの法則のどちらが正しいか、判別できるだろうか? 本日現在が、3月7日の昼だとすると、(A)と(B)の法則の結果は、観察からは区別できない。

      • 私の推論が妥当であることを、どうやって検証するのか

        以下は、私が行っている、私自身の推論が、果たして妥当に行われているか否かを、どうやって検証するか、その方法について、検討したものです。 (1)私が考えたこと 私の推論が妥当であることを、私自身が検証する場合を考える。その際、私自身が、正気であるのか、それとも、そうでないのかを、あらかじめ確定できない。仮に、私が正気でないとして、その私が行った判断が、適当であると言える保証はない。私が行った判断の結果が、私が正気であるから行ったのか、それとも、私が正気を失っているから行ったの

        • 隣にある深淵と、いくつかの断片

          下記の(1)に対する注釈としてのリンク マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫|じんぶん堂 (asahi.com) (1)商品の価値は、商品に内在していないのと同じように、言葉の意味は、言葉に内在しておらず、同様に、個人のアイデンティティは、個人に内在していない。それらは、交換、または交通の中で、生じる。 下記の(2)に対する注釈とは言えないリンク 最終審級と言説の政治 - a journal of sociology (goo.ne.jp) (2)

        系の内部で生じる意味 系の内部で生じる意味は、系の外部から見ると、無意味である。 この世界が閉じているならば、世界の外から見て、この世界の内部のことは、無意味である。

          近代自然科学における感性の優位

          前に書いた記事「理性と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断」では、最後に本居宣長と「もののあはれを知る」について、少し取り上げました。 理論と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断|Suisho (note.com) そこで、知・意・情の3領域(理性・道徳性・感性)のうち、情(感性)の領域が特権化されて取り出されること、それが文学の擁護につながることを書きました。ここで、文学というのは、近代文学(特に小説)と置き換えてもよいと思います。 今回は、近現代の自然科学を取り上げてみます

          近代自然科学における感性の優位

          理論と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断

          今回の参考文献は、以下のとおりです。 ちくま学芸文庫『柄谷行人講演集成1985-1988言葉と悲劇』所収の講演「江戸の注釈学と現在」 この講演録を読んで、そこに書いてあったことを元に、以下の話を組み立てていきます。 朱子学の理論体系(あるいは、トマス=アクィナスの神学体系)においては、それが理論体系である以上、特権的な個人というものは出てこない。必要ない。少し言い換えて、およそ理論体系というものは、特異点(単独性:singularity)においては破綻してしまう。それゆえ、

          理論と思弁の堂々めぐり、そして2つの切断

          実数と無理数、そして超越性のこと

          こういう題名だと、超越数($${e}$$とか$${\pi}$$とか)の話かと思う方もいると思うのですが、(たぶん、いやかなり:…ちょっと自信がなくなってきますが、自分でも、いつもながら良くわからないことを書いているので)違うのでご注意ください。 さて、今回も次のリンク先(PDFファイル)の冒頭部分を参照しています。 【指数関数の定義について】http://takeno.iee.niit.ac.jp/~shige/math/lecture/misc/data/exponent

          実数と無理数、そして超越性のこと

          実数が、非実在的であるように思うこと

          このごろは、指数関数$${e^x}$$について、あれこれと考えています。 私の数学の理解は、高等学校レベル(数学III:微分と積分)程度で、大学レベルの数学は、例えば、集合論の入門書を読んで、何度も挫折しているような感じで、ほとんど理解できていない状態です。けれども、数学というものも、哲学の本を読むのと同じように、挫折を繰り返しながらも、少しづつ理解が深まっていくのかもしれない、と最近は思うようになりましたので、長い目でみて、ゆっくりと進めようと思っています。 さて、指数

          実数が、非実在的であるように思うこと

          世界は、本当に、「不可解」なのだろうか

          とても有名な事件なのですが、先日、このようなWeb記事を読みました。 【華厳滝に身を投げた夏目漱石の教え子】 藤村操とは ~遺書「巌頭之感」 - 草の実堂 (kusanomido.com) これを読んでいて、とても興味をひかれた記事でしたので、少し、このことから思いついたことを書いてみます。 明治36年(1903年)に16歳で華厳の滝に投身した藤村操の残した遺書「巌頭之感(がんとうのかん)」に、次の言葉が出てきます。 ”萬有の眞相は唯だ一言にして悉(つく)す、曰く、「

          世界は、本当に、「不可解」なのだろうか

          数学を無矛盾にしてしまうこと(適当)

          ちょっと、思いついて、その思い付きを無にしてしまうことが、なんだかできないので。それで書きます。とても、つまらない話ですが。 ウィキペディアの項目: ゲーデルの不完全性定理 - Wikipedia からの引用: 「不完全性定理が示した不完全性とは、数学用語の意味での「特定の形式体系Pにおいて決定不能な命題の存在」であり、一般的な意味での「不完全性」とは無関係である。不完全性定理を踏まえても、数学の形式体系の公理は真であり無矛盾であるし、数学の完全性も成立し続けている。」

          数学を無矛盾にしてしまうこと(適当)

          一般連続体仮説の独立性証明、ベルの不等式の破れ、及び真偽の確定できない「命題」、存在の確定できない「実在」について

          今日は、よく分かっていないことを書きます。(いつもそうですが)。 参考にしたのは、Wikipediaの次の項目です。 クルト・ゲーデル - Wikipedia それから、日経サイエンスの2019年2月号を読んでいます。 最終決着「ベルの不等式」の破れの実験 - 日経サイエンス (nikkei-science.com) 「ZF公理系に選択公理を加えたもの(ZFC)と、(一般)連続体仮説は独立している。すなわち、ZFCから(一般連続体仮説が成立していることの)証明も、その否定

          一般連続体仮説の独立性証明、ベルの不等式の破れ、及び真偽の確定できない「命題」、存在の確定できない「実在」について

          セル・オートマトンモデルと物理的宇宙の記述について(AIに聞いてみた)

          今回の参考文献は、以下のとおりです。 ・ウィリアム・パウンドストーン「ライフゲイムの宇宙」日本評論社 ・上野修「デカルト、ホッブズ、スピノザ 哲学する十七世紀」講談社学術文庫 いわゆる生成AI(人工知能・大規模言語モデル)に以下のように質問をしてみた。 【こちらから入力した質問】 ライフゲームのようなセル・オートマトンモデルによって、この物理的宇宙が記述できる可能性について、検討してください。 【Bing AIの回答】 こんにちは、これはBingです。 ライフゲームの

          セル・オートマトンモデルと物理的宇宙の記述について(AIに聞いてみた)

          いわゆる「ケンブリッジ資本論争」について

          (1)はじめに 以下の議論の前に、次の本を読んでいることを記しておく。 柄谷行人「力と交換様式」(岩波書店、2022年) (2)いわゆる「ケンブリッジ資本論争」について インターネットで、「資本論争」を検索すると、以下の書評が出てきた。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/46/46/46_46_136/_pdf/ この書評によると、ケンブリッジ資本論争は、イギリス側の完全勝利であった。 にもかかわらず、新古典

          いわゆる「ケンブリッジ資本論争」について

          「力と交換様式」を読んで

          詳しいことは、別の機会に書けるといいのですが、まとめると、こんな感じなんだと思う。 (1)資本と国家の霊的な力は、人間の意思とその力、およそ人間にできることを超えている。人間には、資本と国家を、揚棄することはできない。 (2)資本と国家は、その霊的な力をふるって、人間と人間との関係、および人間と自然との関係を、歪め、破壊しつづける。 (3)この破壊に対し、人間のなしうる抵抗は、すべて敗れる。 (4)資本と国家を消滅させるものは、もしあるとして、人間の外からくる。人間の意図と

          「力と交換様式」を読んで

          「公理系からの演繹」と「事象における因果性」の相違について(草稿以前)

          (はじめに、おことわり) 以下に提示するのは、まったく整理されていない草稿以前の混乱した文章です。(※ほかの記事でも似たようなものですが、これは、よりひどいと思います。)ただ、これから、この混乱した文章を吟味して、より、考えを整理していきたいと考えていますので、まずは、混乱したものを、ここに掲載してみようと思います。 (以下、混乱した文章のはじまり)  公理系から諸命題を演繹(推論)するといった場合、この演繹には、分析的演繹と総合的演繹があると考えられる。  また、我々が自

          「公理系からの演繹」と「事象における因果性」の相違について(草稿以前)

          公理系と演繹された命題群と有限性

          (1)もともと、形式性に留意して、その内容を度外視するという姿勢は、そもそも、その内容に対して、特に希望が持てない、あるいは期待するものがないとことから来ている。  期待できるとして、形式にしか期待するところはなく、形式において、その内在的整合性がとられていれば、それでよいとする考えは、形式が先行すれば、その内容は、のちほどに付加される、あるいは、形式のみで、内容に欠落があっても、それは問題とならない、または、形式以外に内容などあるのか、という考え方から来ている。  つまり形

          公理系と演繹された命題群と有限性