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いわゆる「ケンブリッジ資本論争」について

(1)はじめに
以下の議論の前に、次の本を読んでいることを記しておく。
柄谷行人「力と交換様式」(岩波書店、2022年)

(2)いわゆる「ケンブリッジ資本論争」について
インターネットで、「資本論争」を検索すると、以下の書評が出てきた。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshet1963/46/46/46_46_136/_pdf/

この書評によると、ケンブリッジ資本論争は、イギリス側の完全勝利であった。

にもかかわらず、新古典派的な生産関数は、使われ続けた。あたかも、そのような論争など、なかったかのように。

これは、そもそも経済学が、産業資本主義における資本という物神を信仰する宗教、というより邪教であるに過ぎないことが、原因である。

宗教における信仰を、それが理論的な根拠を持たないと論駁しても、信仰を揺るがせることはできない。

このため、資本論争を経ても、何ら、信仰は揺るがなかった。

ちょうど、中世イスラムにおけるアリストテレス主義の徹底、つまりアヴェロエス主義が、迫害され、退けられただけで、何らイスラム信仰を揺るがせなかったのと、同じである。

資本論争におけるイギリス側の論理は、資本物神への信仰に、いわばアヴェロエス主義をぶつけただけに過ぎなかった。何らの影響もなかったのである。

そして、今では、資本論争には、新古典派が勝利したとの解説を、ときおり目にする。

例えば、ピケティの「21世紀の資本」にも、資本論争で新古典派が勝利したと書いてある。この部分は、ピケティのこの本の理論的な核心であると思う。なぜなら、新古典派的な生産関数が理論的に成立しなければ、ピケティの立論は、成り立たない。

(※補足説明:ピケティの立論は、個別資本の分析から、社会的総資本への考察に移行できることが前提となっている。すなわち、新古典派的な生産関数が含んでいる要素としての総資本が、個別資本から構成可能である、ということを前提している。)

しかし、資本論争の実際の結論では、新古典派的な生産関数は、矛盾を抱えていると指摘されているのである。つまりピケティの本は、理論的に成立していない。単に破綻している。

けれども、こういった事実は、全く気が付かれないし、資本論争のことも、完全に忘れられている。それは、とりもなおさず、アダム・スミス以来の、経済学という「学問」と自称するものが、実のところ、資本物神に仕える単なる信仰に過ぎないことをよく示している。

また、ネオ・リカーディアン(スラッファ、パシネッティ)も、結局のところ、いわば「中世イスラムにおけるアヴェロエス主義」に過ぎないことがわかる。それは、経済学という宗教の信仰を超えられない。

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