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エントランスと僕 2

眠れないので少しだけ、今日の頭の中のことを書く。

自分にもエントランスの血が混ざっていて、その血が騒いでいるのをたまに感じることがある。それは僕にとっても嬉しいことで、けれど時に虚しく悲しくなることもある。たまにその血のお陰で間違った判断をしてしまうことがあるからだ。
間違ったとは僕にとっての後悔であって、でもエントランスの血としては正しい判断なのかもしれない。それが悲しくて泣きそうになる。

僕はどうしても、エントランスの目標や夢のためなら恋人も友人も思い出も場所も捨て去り、一生懸命や全力や本気を賭け、常に向上、上昇しなければならないというのが、ダメだった。

踠いて手に入れた夢や目標が、友人や恋人や青春以上の価値になるとどうしても僕は思い切ることができない、僕はそれが怖くて怖くてそれ以上前に進めない。
馬鹿にしてるわけではなくて、俺は怖くて前に進めない怖がりでビビリでチキンなのかもしれない。
だから、ああいう暗闇の中を全力で走れるやつらを羨ましく妬ましく思う。夢はデカく持てとは言うものだが、自分の夢が叶っても他人は喜んでも自分は喜べないかもしれない、そう思うとその言葉の真意を知った気がした。

これがエントランスの誓約と制約であって、呪いであり祝福なのだろうと、泣きながら前に進むしかないのだなと言い聞かせるのがつらかった。けど、そうするしか他に方法を知らなくて、それ以外の方法を選ぶと楽しむことができなくて、やはりこれは呪いなのだと思い切るしかなかった。

この十字架を背負い生きていくのは辛く悲しいことも多く、その先に楽しみがあると信じるほか僕に前へ進む力は最初から残されてなかった。けれど出会わなければよかったとは思わない、いずれ出会い、出会うべくして出会っていたと思う。茨の道とは知らなかったが。

彼らに出会って良かったと本当に思う。自殺志願者ではないけれど、もし彼らに出会わなければ僕は死んでいたかもしれない。いじめとかそういうんじゃなくて、退屈で楽しみも面白いこともなくクソみたいなこの世界に絶望して自ら命を経ったかもしれない、たまにそう思う。僕は本当にその判断をしてしまいそうで怖い、良かった。

だから、世の中に絶望するまではまだ歩いていけるのかな、とそのくらいで生きている。エントランスの血を抜くことはできないが、その生き方はやめた。夢や目標はやめた、無理だった。すごく怖くなった、持ったとしても多分荷が重くて夢に潰されて死んでしまう。(と言っても、実は持っている。そうじゃないと楽しむことができないから。けど、このスタンスでは身がもたないから、夢も目標も持ってないことにしている。)
僕に関わる人を幸せにできれば、僕の手の届く人を幸せにできればそれが一番なのかもしれない。そして、それがバタフライエフェクトのように誰かの為になってくれれば僕は世界で一番幸せなのかもしれない、と考えた。

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