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犬いぬ日記

11月3日は犬の誕生日で、今年で15歳になった。
日付が変わった零時過ぎにお祝いをして、アルバムで犬のこれまでを振り返って、一息ついて温かい布団に入ると虚しくて涙が出てきた。
茶番である。今年も来年も再来年もずっとその先も犬は15歳になんかならない。犬は死んだので、未来永劫14歳と9ヶ月のままだ。

犬が死んで49日以上が過ぎ、後釜に据えるように子猫を飼い始めた。迎え入れた元野良の黒猫を構いながら、努めて犬のことを考えないようにしていた。人間とは勝手なもので、あれほど忘れたくなかった犬を忘れられたら良いなとすら思っていた。子猫は無邪気でかわいくて、十分「犬のかわり」になる気がした。
この子をかわいがっているうちに、犬が「昔飼っていたペット」になって欲しかった。犬がいないまま進んでいく毎日にいつも打ちのめされていて、絶望とまではいかないけれど、呼吸している自分にささやかな失望を覚えている。もっと楽に息がしたかった。頭の中にも喉の奥にも犬がいて苦しい。気がつけば犬のアルバムを見ているし、「ただいまレモン」と呼びかけてしまう。その都度犬がいないことを再確認して、塞がりかけた傷が開く。もう嫌だった。いっそすっかり忘れてしまうか、あるいは、願わくば、犬に帰ってきてほしかった。

子猫と暮らして約1ヶ月が経過した。相変わらず子猫は無邪気でかわいく、十分犬のかわりになる気がするが、気がするだけで犬のかわりにはならない。子猫は子猫のままで、今後成長したとして行く末は「愛らしく大切な成猫」であると現時点では予測している。そして犬は帰ってこないままだ。犬はいなくなったまま、私を占拠し続けている。

 さて11月3日を迎えた夜中、泣きながら眠ると鼻を鳴らす音が聞こえて、顔をべろべろ舐められた。驚いて見ると枕元に犬がいた。丸い目が暗闇の中で光っていて、私を見て笑っていた。どうやって2階に来たんだろう、こんなに元気なのは久しぶりだ、もっとよく見たい、眼鏡がないとだめだ、明かりもつけないと。飛び起きて眼鏡を探しているうちに冷静になって、夢だと気がついた。それでも未練がましく明かりをつけると枕元にあるのは白い壁だけで、犬の姿はどこにもなかった。当たり前のことなのに心臓は異常に脈打っていて、すこし笑ってしまった。ちゃんと引きずっている自分が確認できて、救われた気がした。

 本当に都合が良い、みっともない人間だなと思う。犬を思い泣きながら眠る晩、悲しみながら安心している。苦しいことが証明のような気がして、犬のために深く傷ついている時だけは素直に自分が好きだ。狂人なので犬を通してでしか人間を愛せないのかもしれない。これでは犬が好きなのか犬を通した自分が好きなのかわからない。犬に一言謝りたいが、犬がいない。どうにかして帰ってこいよと毎日呼びかけている。私にその時が来たら迎えに来てくれとも頼んでいる。

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