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犬が死んだ日

2021年8月30日、午後2時に犬が死んだ。よく晴れた夏日だった。からりとした陽気で外は暑く、名古屋は37度もあった。
犬は私に頭を撫でられながら死んだ。丁度ワクチンを打つために出かけようとしたところで、私はなんとなく犬を撫でていた。犬はハ、ハ、と大きく2回息をして、クゥ、と小さく鳴き、動かなくなった。私は犬を撫で続けながら、「ああ犬が死んだ」と考えた。同時に「こんなに舌出してたら息できなくて死んじゃいそうだな」と考えた。犬の腹はもう上下していなかった。クーラーが効いていたから、夏だというのに犬はあっという間に冷たくなった。私は犬のそばで座り込んでいた。思い出したように涙が出てきた。
犬を挟んだ向こう側で、祖母が神様に祈っていた。祈りが終わって、隣で祖父がアーメンと呟いた。廊下に大きな段ボール箱が用意してあった。
泣きながら体は勝手に動いて、電車に乗って予定通りワクチンを打ちに行った。電車の中で景色をぼんやり見ていた。やっぱり涙が出てきた。泣きながらメモを開いて、この文章を書き出した。


犬の話がしたい。
今年で15歳になるウエルッシュ・コーギー・ペンブロークの話だ。名前は「レモン」という。当時小学生だった私が、梶井基次郎に傾倒していたため命名した。

犬がやってきた頃のことはよく覚えている。その日、私は祖父母と一緒に公園でそりすべりをしていた。坂をそりで滑り落りて、下の落ち葉の中に突っ込む。狂ったように登って滑ってを繰り返していた最中、ふと祖母に呼び止められた。
「犬、飼いたい?」
あんまり急な質問だったから、一瞬何を聞かれたのかわからなかった。私が首を傾げて突っ立っていると、祖父と弟も「なんだなんだ」とやって来た。祖母は自分の携帯を指さして、「ママさんから電話」と言った。

「あんたもう誕生日でしょう。それでね、近くのペットショップにすごくかわいい犬がいるんだって。ママがその子のことすごく気に入って、あんたの誕生日プレゼントにしたいらしいの」

当時母には父の他にパトロンのような人がいた。父の経済力はお世辞にも良いとは言えず、母方の実家の世話になり暮らしていた。私たち家族は貧乏だった。本来犬を飼うような余裕なんて一切ない。しかしその母のパトロンが、十数万する犬を買ってくれるというのだ。
私は大して考えることもせず、「飼いたい!」と答えた。「犬が欲しいか」と問われた私は、犬種が何なのかすらも知らずに「欲しい」と結論づけた。祖母が折り返しで母に連絡すると、即座に犬の購入が決まった。犬は後日家にやって来るのだという。
夜になって家に帰ってきた母に写真を見せてもらうと、ガラケーの画面に見たことがない種類の子犬が写っていた。極端に足が短くて、大きな耳をしていた。まるい黒目をこちらに向けて、犬はきょとんとしていた。
「コーギーって種類」
祖父母は「キツネみたいな犬だ」と評した。私もキツネみたいな犬だと思った。ただ、キツネよりも随分間の抜けた顔をしている。人畜無害、という言葉がこれほど似合う犬もいなかった。犬はぬいぐるみと言われれば納得してしまうような、愛くるしい見た目をしていた。
「この子売れ残りなんだって。だから安くなってた」
これほどかわいい犬が何故売れ残るのか。

犬が家にやって来るその日、私は全速力で走って帰宅した。犬は夕方に、母とパトロンがペットショップから連れてくることになっていた。
リビングでそわそわしながら待っていると、ブォン! とエンジンの音が聞こえた。パトロンのレクサスだ! とすぐにわかった。玄関まで見に行くと、間もなく母が帰ってきた。ミスドの箱に似た穴が空いたダンボールを抱えていて、中からはがさがさ音がしていた。穴からちらりとのぞくと、ぶるぶる震えている毛玉みたいな生き物がいた。それが犬だった。

私は犬を愛した。犬はいつだって可愛かった。
犬は散歩が好きだった。短い足でどこまでも歩く。朝昼晩と取り合うように家族で散歩をして、取り合うようにごはんをあげた。子犬時代からよく歩きよく食べた犬は、成長するとコーギーとは思えぬほどデカくなった。平均すると15キロ、太っていた頃は17キロもあった。
デカいので相応に力もあった。散歩中に鳩を発見して急に駆け出し、リードを持っていた子ども時代の私をすっ転ばせて大泣きさせたことがある。犬は慌てて戻ってきて、詫びるように私を舐めた。以来犬に引きずられたことはない。

犬は人間によく懐いた。人見知りをしないので、番犬としてはまるで役に立たなかった。犬は誰も彼もに愛想を振りまき、隙あらば食料を奪おうとしていた。家が近所の小学生の溜まり場になっても嫌な顔はせず、むしろ進んで中心にやってきた。ベイブレードをやっていると覗き込みに来るわ、ゲームをやっているとコントローラーにタックルして来るわ、危ないったらないのに妨害行為に余念がなかった。犬は嫉妬深く、人間が自分以外のものを構っていることが気に入らないらしかった。とりわけクッションやぬいぐるみを敵対視しており、「よしよし」と言いながらそれらを撫でるとワンワン吠えた。

私と犬は相性が良かった。犬の好きなところは山ほどある。その中でもいっとう好きなところは、静かに寄り添ってくれるところだった。犬を飼い始めた頃既に両親の仲は悪く、父も母もほとんど家にいなかった。祖父も仕事で家にはいない。弟はまだ小さかったし、では祖母はというと、宗教に傾倒しており、いつもイエス様の話をしてくるのでうんざりしていた。家族の中で犬だけは、いつも黙って私のそばにいた。私も黙って犬を撫でた。
数年後父が借金を作り、それが決定打になって両親が離婚した。祖父は塞ぎ込み、祖母はいつも貧乏を嘆くようになった。弟は離婚が何かもよくわかっていなかった。
ある日母がいきなり仕事を辞めてきて、2階から怒鳴り声とともに物が降ってくるようになった。あまり家にいたくなくて、公民館で時間を潰していた。辛かった。
その時も犬だけは変わらず私のそばにいた。
ヒステリーを起こした母に閉じ込められた時、何故か犬まで一緒になって閉じ込められていた。狭い洗面所の中、洗濯機の前で膝を抱えた私の隣に犬は座っていた。私が泣き始めると、犬は困ったように手を舐めた。
あの頃は犬がいてくれて本当に良かった。犬が人間の感情に聡いというのは本当らしかった。私が泣いていると、犬はいつのまにかそばにいた。

私は犬に救われていた。
たぶん私だけじゃなくて、あの頃は家族みんなが辛くて、みんなが犬に救われていた。犬は家庭の事情我関せずという顔をして食い意地を張り続け、確実に家計を逼迫させていた。それでも悲しみには敏感で、いつも誰かの足元にぴったりくっついていた。

犬は荒れた母に叩かれることや蹴飛ばされることがあった。私は母が憎かった。いきなり仕事を辞めたこと、物を投げること、怒鳴ること、犬に当たること、離婚したこと。全部が嫌だった。しかし犬はめげずに、母の足元にもくっついていた。本当は誰より母自身が傷ついていたこと、犬だけはわかっているようだった。決して芸達者なわけではないけれど、そういう点では本当に賢い犬だった。
やがて母は立ち直り仕事を見つけ、物を投げたり怒鳴ったり、犬に当たったりしなくなった。すこしずつ家に日常が帰ってきた。家は再び近所の小学生の溜まり場となり、犬はその中心に居座っていた。
時が経ち、母は再婚して家を出て行った。私は以前のように母を憎く思わなかった。私はほんのすこし、大人になった。家は私と祖父母と弟、そして犬の4人と1匹ぐらしになった。
定年して久しい祖父はギターを弾き、祖母はいつも鼻歌を歌っている。弟はすっかりゲーマーで、私の悪友だった。犬は変わらず食い意地を張り続け、いつも誰かの足元にぴったりくっついていた。

晩年の犬は誰の足元にもくっついていなかった。犬はいつも玄関にいた。私が泣いていてもそばに来てくれることはなかった。仕方がないから、私は自分でそばに行った。
おまえのために泣いているんだと恨みがましい視線を向けたところで、犬は私に気づかなかった。犬は目が見えていなかったし、立ち上がることもできなかった。あんなに好きだった散歩にも行けなかった。いつも横になって、苦しそうに息をしていた。
ごはんもあまり食べなかった。
食べろと私が押し付けてようやく、のろのろと口を動かした。栓が馬鹿になったみたいに、幾度となく失禁した。

犬の目は白く濁り、部分によっては緑色にすら見えて、粘膜の部分が赤く腫れていた。肝臓が悪く、どれだけ目薬をさしても治す力がもうなかった。足は萎え、すっかり痩せたのに腹だけが異様に膨らんでいた。
ぬいぐるみのようだった見た目が嘘みたいだった。今にも死にそうな犬、子どもが見たら泣きそうな犬、晩年の犬はそんな姿だった。言い方は悪いけれど、ゾンビみたいだった。それでも私にとっては唯一無二の犬で、この世で何よりもかわいいことに変わりはなかった。犬が大好きだった。


電車に乗っている間もワクチン接種の間も、泣きながら取り憑かれたように文章を書いていた。あまりにも異様な空気だからか、駅員さんにじろじろ見られた。その間に母から心配のLINEが来た。自殺すると思われているようだった。帰りは3回電車を乗り間違えた。
家に帰ると、犬はドライアイスと一緒に段ボール箱の中におさまっていた。明日焼き場に連れていくらしい。祖母が花を手向けた。犬は安らかな顔をしていた。苦しくなさそうな表情を見るのは久しぶりだった。私はまた泣いて、ああでもまず手を洗わなきゃとどこか冷静で、洗面所に向かった。
鏡を見るとぼろぼろの私がいた。ぐちゃぐちゃの化粧を拭き取りクレンジングで落とすと、まぶたにしみて痛かった。ふいに犬はまだ生きている気がして見に行くと、当然死んでいた。自室に戻ってさらに泣いた。何をしていても勝手に涙が出てくるので、しばらく眠ることにした。夢は見なかった。

夕食の時間に起こされて、ワクチンの副反応に備えて飯を食った。メニューは中華飯と肉じゃが、味噌汁で、何を口に入れても味がよくわからなかった。箸で肉じゃがのじゃがいもを割った時、茶色と白のコントラストが現れた。ぼろぼろ泣きながら口を動かした。出された量の半分も食べられなかった。これ以上食べたら吐くな、となんとなくわかった。
弟がリビングにやってきて、飯を食いながら下手くそに私を気遣った。普段は絶対に見ないドキュメンタリー番組をつけて、けれどよりによって内容がカルト教団モノで、向かいの席で弟はコメントに四苦八苦していた。良いやつだな、と思った。
知らせを受けて母が帰ってきた。玄関のドアを開けて第一声、「ああレモン」と言った。いろんな意味が含まれた声に聞こえた。母は泣いていた。

翌日朝10時、犬の入ったダンボールに花を入れた。あれだけ泣いたからもう大丈夫だと思っていたのだけれど、犬を前にするとまた涙が出てきた。花を茎からちぎって、犬の周りに敷き詰めた。犬は色とりどりの花の中で横たわっていた。玄関のドアから夏の光が注ぎ、犬を柔らかく照らしていた。棺に入れられた犬はきれいだった。ダンボールに入ってこの家にやってきた犬は、ダンボールに入ってこの家を出ていった。弟と一緒に棺を抱えて、車の中に入れた。それから家族全員で焼き場に向かった。
車は祖父が運転した。私は助手席に乗り込んで、焼き場に着くまでの間ずっと黙り込んで泣いていた。犬と歩いた散歩道、よく連れていったトリミングの店、そういったものが視界に入るとぼろぼろ涙が出た。ハンカチが水を吸わなくなって、マスクがぐしゃぐしゃになった。
焼き場に着いて、棺を車から下ろした。重さをはかる台に乗せると、14.2キロあった。晩年の犬は12キロほどの体重だったので、残りは花と、一緒にいれた犬のおやつ、犬のおもちゃによるものだった。
受付の人に言われて書類を書いた。2006年11月3日生まれ、毛色は茶、メスのコーギー。名前はレモン、飼い主は私。死んだのは2021年8月30日。すべて埋めて支払いも終えると、必要な手続きは終わった。あとはさよならだけだった。最後にダンボールの棺をひと撫でして、「よろしくお願いします」と頭を下げた。受付さんは深々頭を下げて、「お預かりします」と言ってくれた。一瞬止まっていた涙がまた出てきた。

昼食はおいしいものにしようということになって、近くの店に向かった。高台の駐車場に車を停めて降りると、風が気持ちよかった。その瞬間、犬が死んだこと、二度と蘇らないこと、私は生きていること、これからも生きていかねばならないことを叩きつけられた気がした。今までは抑えられていたのに、嗚咽が漏れた。店に入ってもおさまらず、何も食べられなかった。

家に帰ると、玄関はがらんとしていた。暑いといつも玄関のタイルに落ちていた犬はもういなかった。洗面所にも台所にも廊下にもリビングにもいなかった。犬はこの世にいなかった。タオルを持って自室に向かい、ベッドに倒れ込んだ。泣いているうちに眠っていた。
夢は見なかった。

起きると頭がぐらぐらした。熱を測ると38度5分あって、どうやら副反応が出たらしかった。相変わらず食欲はなかったけれど、パンとプリンを無理やり食べた。うまくもまずくもなかった。泣きながら、薬を飲むため、大袈裟に言えば生きるために咀嚼し、飲み込んだ。決意表明みたいなものだった。

犬の名はレモンといって丸善の棚の上からやって来ました

今までありがとう
ずっと大好きです。

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