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葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁─

浅沼稲次郎刺殺事件

 解散総選挙を間近に控え、緊迫した政局を迎えていた昭和35年(1960)10月12日、東京の日比谷公会堂では自民党・民社党・社会党の三党首立会演説会が開催されていた。
 民社党委員長西尾末広が演説を終え降壇、続いて登壇した社会党委員長浅沼稲次郎が演説をはじめて間も無くの午後3時5分頃、わずか17歳の右翼少年山口二矢が壇上に駆け上り、短刀で浅沼を刺殺した。浅沼はパトカーで付近の日比谷病院へ緊急搬送されたが即死状態であり、逮捕された二矢も翌11月2日、勾留先の東京少年鑑別所で自ら命を絶った。
 二矢は大日本愛国党で活動していた兄朔生が昭和35年5月に右翼事件で逮捕されたことに影響されて同党に入党、以来右翼運動に挺身していた。なお二矢は事件前に同党を脱退、「全アジア反共青年連盟」に参画している。

浅沼刺殺に関するニュース報道:NHK放送史「社会党浅沼委員長刺殺事件」

葦津珍彦の二矢への関心

 戦後神社界を代表する言論人葦津珍彦は、浅沼刺殺事件に大きな衝撃をうけ、事件を敢行した二矢に関心を抱き、これ以降、浅沼刺殺事件や二矢について積極的に論じている。
 例えば、葦津はこのころ「神社新報」で「時の流れ」というコラムを連載していたが、葦津は事件発生以降、「右翼テロを語る テロへの恐怖はテロを誘ふ」、「山口二矢君の自決 新しい世代の心理を探る 」など、浅沼刺殺事件や二矢を何度も取り上げ論じている。また事件の翌年に刊行された著書『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』(神社新報社、昭和36年)には、浅沼刺殺事件と二矢をテーマとする複数の論文が収録されている。

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二矢の事件と自殺について論じる葦津のコラム「時の流れ」(「神社新報」昭和35年11月12日)

 そればかりでなく、二矢が自殺した翌月の12月15日、日比谷公会堂で二矢の父晋平の参列のもと、「烈士山口二矢君国民慰霊祭」が右翼関係者などにより開催されたが、どうも葦津はこの慰霊祭にも参列したようだ。
 あるいは事件から14年後、韓国で朴正煕大統領暗殺事件が発生した際も、葦津は「二矢による浅沼刺殺の際の日比谷公会堂を想起した」云々とコラムに記している。葦津にとって浅沼刺殺事件、そして二矢への関心は非常に強く、その後も長く印象に残っていたことが伺える。
 葦津は次のようにいう。

警視庁の取調べにさいして、山口少年が語ったところによれば、かれが浅沼刺殺を決意したのは、刺殺に用いた短刀を入手した時から約十日間、独りで考えぬいた後の結果だといわれる。この十日の間に、少年はしばしば明治神宮に参り、時には終日、神宮の神域で考えぬいた日もあったという。この間、かれの神宮参拝は、四、五日に及んでいる。もとよりかれは神宮の神主には会いもせず話もしなかった。けれどもかれが熱心に明治神宮の神明に祈ったという事実、しかして浅沼氏を刺殺し、然るのちに自らの生命を絶つとの決断を下したのが神宮の神苑だった事実だけは、明らかとなっている。神道的ジャーナリストとして、この事実だけからでも、私は山口事件に対して無関心ではおられない。

(「神苑の決意─政治とテロとの宿縁─」〔『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』所収〕)

 みずからを「神道ジャーナリスト」と名乗る葦津にとって、二矢が明治神宮を何度も訪れた上で浅沼を刺殺したというこの事件は、当然、自身の「取材対象」「担当分野」というわけだが、そればかりではなく、葦津の神道信仰に基づく信仰的・宗教的な強い関心があったことも容易に推測される。

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葦津も参列した昭和35年12月にいとなまれた烈士山口二矢君国民慰霊祭:『増補大右翼史』より

非合理なるものへの憧れ

 とはいえ、葦津は二矢の信仰や宗教観などを取り上げて論じるのではなかった。もちろん葦津はその点に全く無関心であったわけではなく、二矢が新宗教団体「生長の家」創設者谷口雅治の著書をよく読んでいたことを紹介しているし、二矢が取り調べ時に供述した「一人一殺」の言葉について「井上日召の影響があろうか」などと推測している。さらには二矢が法廷闘争を全く考えていなかったことを取り上げ、来島恒喜の影響があったのかなどと二矢の信仰・信条・思想形成などにも迫っている。
 一方で葦津は、二矢個人の精神世界にのみ注目し、何がしかの発見を目指すのではなく、「非合理なるものへの憧れ─信頼と忠誠との情理─」(『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』所収)において、広く人間心理一般のなかにある非合理的な精神を分析し、さらに日本における非合理的な精神の連鎖や継承に浅沼刺殺事件や二矢を結び付けようとする。
 すなわち葦津は、エチオピアのマラソン選手アベベが昭和35年のローマ・オリンピックのマラソン競技で優勝した際、自身の勝利を喜ぶのではなく「エチオピアが勝って嬉しい」と祖国の勝利を喜んだ事例などを紹介し、人間には「俗物合理主義者」には理解し難い非合理なるものへの憧れや情熱、欲求が存在しているとする。
 そして、このような「非合理なるものへの憧れ」は、日本においては、例えば楠木正成の「抗戦による犠牲と苦闘をもとめて、妥協による栄達と安逸とをもとめることを知らない」ような忠烈、すなわち天皇と民族の「信頼と忠誠」による結びつきとしてあらわれるという。
 俗物合理主義者はそのような精神的意義を理解できず、それを封建的で非合理なる心情として片づけるのであるが、浅沼を刺殺した二矢が合理主義者による戦後教育を受けながらも、楠木正成が湊川の戦いで発した「七生報国」の言葉を残して自らの命を絶ち、そんな二矢の慰霊祭に十代から二十代の多数の若者が参列したという事実から、「右翼ハイ・ティーン」の心理を封建的非合理と非難してもそれは見当違いであり、現代の合理主義の枠のなかでは満足しきれない人間的な欲求、「非合理なるものへの憧れ」がそこにはあるのだと葦津は指摘するのである。

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二矢が眠る梅窓院の山口家の墓:筆者撮影

政治とテロとの宿縁

 「非合理なるものへの憧れ」という葦津の指摘は、いわば浅沼刺殺事件を人間の心理的側面から分析したものといえる。一方で葦津は、フランス革命におけるテロや左翼革命におけるテロを分析し、テロの本質と政治と暴力の一体性、浅沼刺殺事件の分析を通じた右翼テロの論理を踏まえ、左右を問わず政治信条の根底には暴力性が潜在し、ある一定の条件においては、そうした暴力の発動が不可避であるとする。

革命家というものは、個人の生命(自分の生命、敵の生命)以上に革命目的を高く評価しているにちがいない。[略]かれらは決して「個人の生命以上に貴重なものはない」と信じているわけではない。生命以上に貴重なるもののあるのを信じているのだ。[略]

(上掲「神苑の決意─政治とテロとの宿縁─」)
われわれは、左翼でも右翼でも、一つの政治的信条というものの根底には、テロへ走る本質の潜在するのを否定しがたいと思う。文明下の政治思想は、公然とテロの正当性を主張することをさける。しかしながら、政治的信条そのものに潜在するテロリズムは、信条と信条との対決が、高度の緊張を呈する時には、忽然としてその姿を現わして来るのだ。

(同上)

 葦津は「非合理なるものへの憧れ」という人間の心理的側面から浅沼刺殺事件を分析する一方で、このように古今東西に共通する「政治とテロ」の視点から事件を分析するのである。
 無論、葦津はそうした二種類の分析を通じ、二矢による浅沼刺殺を肯定したり賛美したりしているのではない。むしろ葦津は、テロがなぜ発生するのかを考究するなかで、テロを防ぐためにはどうしたらいいのかを考えるべきだといっているのである。
 二矢はじめテロを敢行した右翼ハイ・ティーンたちは、金銭に何ほどの魅力も感じていない。そして確信的なテロリストたちは、重罰を恐れることもない。葦津は、浅沼刺殺事件後、テロ防止のために右翼の資金封鎖や重罰化をすすめよという国会の議論の盛り上がりに対し、そうしたものは全く意味がないと批判する。
 それではテロはどのように防止するべきなのであろうか。葦津は戦前の忠君愛国教育のなかで存外多くの左翼学生が生まれたことを例に、戦後の左翼的教育の反発で右翼ハイ・ティーンが生まれたかと分析を試みている。いわば葦津は、人間に備わる「非合理なるものへの憧れ」を俗物合理主義者たちが非合理・封建的と断じたところで右翼ハイ・ティーンの心に何ら響くものはなく、むしろ反発するのであって、人間の「非合理なるものへの憧れ」をしっかりと見据えた教育こそテロ防止に有効と主張しているのであろう。
 また葦津は、政治的信条と信条の対決のなかで発生するテロに対し、「テロはいけいない」といった道徳的な説諭は何らの有効性はなく、政治的信条の対立や政治的不信の解消が必要だとする。道徳的説教や刑法の改定などではなく、例えば自由討議などによって政治的信条を異にするもの同士が交流していくことの方が、テロ防止に有効であるはずだというのである。

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「浅沼稲次郎之墓」(多摩霊園) 浅沼夫妻がねむっている:筆者撮影

「神苑の決意」と神道ジャーナリスト

 浅沼刺殺事件と二矢について多大な関心を示した葦津は、事件を「非合理なるものへの憧れ」という人間の心理的側面と、「政治とテロとの宿縁」という政治力学的側面から分析し、その本質を見抜くなかで、今後テロをどのように防止すればいいのかという議論を展開していった。
 葦津はけしてテロを肯定しておらず、二矢を賛美するわけでもない。葦津は二矢が「人間浅沼の命を断つことの道徳的責任」を感じていたことを繰り返し確認している。それは葦津が二矢の道徳的責任を免責するものではないということのあらわれであろう。二矢の「神苑の決意」に強い関心を持ちながら、テロを肯定せず、むしろテロ防止について議論を高めていく。神道ジャーナリストとしての葦津の一つの真骨頂を見るものである。

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昭和35年10月にいとなまれた浅沼の社会党葬 当時の首相である池田勇人も弔辞を述べた:朝日新聞デジタル2017年10月28日より

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