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水面

水面に映る自分をじーっと見てたら、3〜4歳くらいの自分が一瞬映たような錯覚に陥った。多分髪型が似てたからだと思う。その瞳が何かに没頭する楽しさと何かを求めてさすらう寂しさで滲んでいた。


俺の半生は幼少期に遡れば遡るほどゲーマーだった。記憶はないけど、親族の話によれば1歳のときからファミコンにかじりついていたとかなんとか…。
おそらくは中学生時代の途中まではヘビーなゲーマーとして過ごしていた。中学時代になると人間関係も、良くも悪くも大人っぽくなる。当時は大体5つの層(グループ)、ヤンキー層、準ヤンキー層、陽キャ層、陰キャ層、中間層に分かれていたような気がする。

俺はどの層にも馴染めず、学校から与えられたカリキュラムや行事はそつなくこなし、けどそれを心からは肯定していない、「ひねくれ型夢想家」だったのかもしれない。先生や同窓たちはにとっては「真面目で大人しいんだけど闇がありそう」「害はないけどなんかソワソワする」ヤツだったかもしれない。
要するにあまり「集団」というものの楽しさを知らなかった。

それよりも家で一人でゲームをしたり、友達と遊んでゲームをしても、自分は一切コントローラーを握らず友達の<解き方>をひたすら人間観察する、そんな屈折した娯楽が好きだった。

高校に入ってからCROWN(バンド)を結成して初めて集団の温かさに触れ、大学では軽音サークルに入っては挫折し、2年次に別のサークルESSに加入し「大学デビュー」的な人生経験も得て、社会人になってからはまた最初に仕事に挫折し、3.11の震災が起きて災害ボランティアに突然変異に出会い、市民活動にどっぷりハマりまた集団の温かさを知る。

振り返れば10代の後半で初めて集団温かさやぬくもりを知るというのは、遅かったのか速かったのか。今水面に映っている少年に、もっと幼少の彼にもその温かさを教えてあげられればと感じていた。


その水面に何か一石を投じてみたい気持ちになった。

「我々の投じた小石は小さな波紋しか起こせぬかもしれんがそれは確実に大きな波となろう。」

躯旅団団長ウィーグラフ

と、創作上の某義勇兵も語っていた。

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