#087 オプションフリー社会と呪い

「あなたはどこにいるのか?」という問い

人生にはさまざまなオプションがあって、私たちは都度、選択を迫られてその正誤是非に一喜一憂しているわけですが、そのオプションの枝葉を幹まで辿れば、基本的な選択肢は三つしかないと思います。その三つとは「どこに住むか」「何をするか」「誰といるか」という選択です。

旧約聖書創世記において、神は、禁じられた実を食べたことが発覚することを恐れて隠れているアダムとエバに対して「どこにいるのか?」と質問します。これは旧約・新約を通じて、聖書の中で神が人間に発する最初の質問です。

神は別にアダムとエバの居場所を知りたくてこの質問を発している訳ではありません。神は全智全能ですからアダムとエバがどこにいるかは元から知っています。その上で「あなたはどこにいるのか?」と問うているのです。

とても重い質問ですね。つまり、この質問を通じて、神は全人類に問いかけているわけです。あなたはどういうわけで、いまいるその場所に行き着いたのか?どうして、そういうことになっているのか?と。

人生が全て主体的な自由意志によって進んでいるのであれば、この問いはさして重要ではありません。その問いに対して「私はここにいる、なぜなら」という明確な回答がなされるだけです。しかし、そんな回答ができる人間はこの世界に一人もいません。なぜなら人生は必然と偶然のあいだを漂うようにして進んでいくからです。

「どこにいるか」「誰といるか」「何をするか」の全てについて、主体的に全てを自分で選択してきたと断言できる人はいないでしょうし、逆に全てを行き当たりばったりの偶然に任せてきたと断言できる人もいないでしょう。

人生は能動的な自由意志と受動的な不可抗力との相剋の連続で生成されていく物語のようなものですが、気をつけないとあっという間に流されるままになって思いもしなかった場所に流れついてしまう。森鴎外という人は終生、この問題を小説という題材を用いながら問い続けたわけですね。だからこそ「あなたはいまどこにいるのか?なぜそんなことになっているのか?」という問いが重要なのです。

このように考えてみると、実は「どこにいるか」「誰といるか」「何をするか」の三つについて、いま現在の私とは異なる私でありえた可能性に気づくと思います。ちょっとしたきっかけ、何らかの偶然によって「いま、ここ」にいる私があるのだとすれば、それ以外の私もありえたはずだ、と。

人生を大きく転換する人を見ていると、総じてこの種の気づきがきっかけになっているように思います。銀行員として働いてきたのに、ある日思い立ってベーカリーを始めた知人がいます。今では遠方からわざわざ朝食用のトーストを買いに来る人がいるほど、その筋では知られた店になりましたが、銀行員からベーカリーというのは生半な転換ではありません。 

「ニューノーマル」ではなく「ノーノーマル」

新型コロナウィルスの影響で働き方のスタンダードが随分と変わりましたね。最近は「ニューノーマル」という言葉がよく言われますけど、僕はこの言葉が嫌いで「ノーノーマルと言い換えませんか?」といつも提案しています。

ニューノーマルというのは、文字通りで「新しい普通」「新しい規範」という意味ですが、これは危険だと思うのですね。日本人は「普通」から外れるのを極端に恐れるので、こういう言葉が流通してしまうと必ず「では、その新しい普通とはどんな普通なのか?自分は、あるいは自社はそこから逸脱していないか?」という懸念を生み出すことになります。

その種の「呪い」はもう止めませんか?ということです。だからノーノーマルでいい。もう「普通」も「規範」もないということです。以前、こう指摘したら「それはアブノーマルではないんですか?」と聞かれたことがあるのですが、アブノーマルというのは中心に置いたノーマルの反射としてはじめて意味を持つわけで、ノーマルが解体されたらアブノーマルも原理的に存在できません。だからこれも違うだろうと思いますね。

話を元に戻しましょう。新型コロナウィルスで働き方・生き方にノーマルがなくなってきた、という話でしたね。生きるにあたって私たちはいろんな人生の選択をしなければならないわけですが、そのオプションがどんどん増えている、というのが今の時代です。

先日、東京の大手町に本社を持つ大手通信会社の人事部長さんとの打ち合わせがあったのですが、私が「大手町まで伺いましょうか?」と申し上げたところ、先方が「私、いま福岡の糸島に住んでいるのでオンラインでお願いします」と言われたんですね。

聞いてみれば、2021年から糸島に移住されて、東京の本社には一月に一回程度の頻度でしか出社していないそうなんです。外資系の企業でもスタートアップ企業でもない、歴史ある日本の大企業ですらそういうことになってきてるわけです。「働き方」どころか「生き方」そのものについて「普通=ノーマル」が成立しない社会がやってきているのです。

もう一つ指摘すれば、この三つのオプションが「組み合わせ自由」になってきていますね。以前は「何をするか」を決めると「どこに住むか」「誰といるか」も自動的に決まってしまいました。東京の品川に本社のある会社に勤めると、会社に一時間以内に通える距離圏内に住んで、会社の人と一緒に仕事をして生きていく、そういう人生しか選べなかったわけですね。一つの選択をすると、残りのオプションも自動的に決まってしまったわけです。

あらためて考えてみるとすごいことですよね。多くの場合、会社というのは「ただなんとなく」で決めてしまうわけですが、そうやって入った会社が、その人の「どこに住むか」という人生における重要決定事項を決めてしまうんですから。フーコーの言葉を用いて言えば、これは強力な生権力です。

ところが、今はそうではなくなりつつあります。本節冒頭にお話ししたように、東京大手町の会社に管理職として勤めながら、日本のどこに暮らしても構わない、という会社が出てきているわけです。

自分がボトルネックになる時代

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