#086 旅に出よう

私はよく、リベラルアーツとは「目の前の常識を相対化するための思考と感性の総合技術である」といった話をしています。そして、ライフネット生命の創業者で、現在はAPU立命館の学長をされている出口治明さんは、そのような「相対化する視点」を持つためには「人と話す」「旅に出る」「本を読む」の三つが重要だ、という話をよくされています。

この三つのうち、実は「人と話す」と「本を読む」のと異なり「旅に出る」という営みだけが持っている特徴があるのですがなんだかわかりますか?

それは「一次情報に触れる」ということです。一次情報というのは、人の手を経由していない、ナマの情報ということです。どんなにユニークな思考力、着眼点を持とうと思って勉強しても、インプットされる情報が全て二次情報であれば、なかなか人と異なる着想を持つことはできません。ところが、インプットされる情報がすでに人と異なるものであれば、ユニークな着想を持つことも相対的に容易になります。

日立製作所の広報の仕事で、漫画家・作家の山崎マリさんとお話をさせていただく機会があったのですが、その際に感じたのが、長らく海外で過ごされた人に特有の「日本の常識を相対化する視点」の豊富さです。山崎さんは十代でイタリアに渡り、以後はイタリアに軸足を置きながら日本をまたにかけて生活をされておられます。人生そのものが旅に彩られているようなもので、芭蕉の言葉ではありませんが、まさに「旅をすみかとする」ライフスタイルなのです。

これは以前、早稲田大学の入山章栄先生とお話をさせていただいた際、先生は「創造性は人生における累積の移動距離に相関する」と仰られていました。その言葉を、山崎マリさんとお話をさせていただいた際に改めて思い出しました。

これまでにも述べた通り、「リベラルアーツ」とは自分を縛る固定観念や無意識的な規範から自由になるための思考様式を指しています。これは密接に、自分が今いる場所、時間においての常識を相対化できるかという論点と関わっています。

累積の移動距離が長いということは「いま、ここ」という場所以外の場所をたくさん知っているということです。だからこそ「いま、ここ」でしか通用しない常識や規範から自由になれるのです。

ここで「移動」と「知性」の関係について考えるにあたり、思い浮かぶのがモーツァルトです。「天才」の代名詞としてよく名の上がる作曲家ですが、モーツァルトの創造性を単に「天才だったから」で整理してしまっては後世に生きる私たちにとっての学びはありません。

実際には、モーツァルトの創造性は「生まれ持っての才能」と「生まれた後の環境」によって育まれたと考えるべきです。確率論で考えれば、モーツァルトと同様の才能を持って生まれた人物はかつて数え切れないほどにいたはずですが、彼ほど恵まれた環境にあった人物は一人もいなかった。それがモーツァルトという人物を孤高の存在にしているというべきで、つまりは「環境の産物だ」と考えた方が良いということです。ではどのような環境要因がモーツァルトの才能を伸ばしたのか。

モーツァルトの生涯を俯瞰してあらためて感じられるのが、その「旅」の多さです。モーツァルトは36歳で没していますが、旅の期間を合計してみるとその累計は十年強となります。つまり、人生のほぼ三分の一は旅の途上にあったということです。これはモーツァルトの創造性に決定的な影響を与えたと、私は思っています。

というのも「旅」と「創造性」には極めて強い関係があるからです。たとえば建築家の安藤忠雄氏は、まだ建築家としてデビューする前にヨーロッパの名建築を巡るツアーを敢行して、その後の建築の糧となる感性を磨いており、その後もことあるごとに「旅に出ろ」と叱咤しています。

あるいは我が国の吉田松陰もまた、「旅」を学びの場として考え、書物による勉強は一定の年限で止めてしまい、その後はことごとく「人に会って人から学ぶ」「世界から直接学ぶ」ということを徹底した人物でした。

モーツァルト自身もこのことをよく理解していたのでしょう。モーツァルトは膨大な量の手紙を残していますが、この手紙を読み直してみると、彼が、ことあるごとに「旅に出たい」と訴えていたことがわかります。

モーツァルトに音楽を仕込んだ教育パパのレオポルドはザルツブルグの司教のご機嫌を伺うために、できる限り長いあいだザルツブルグに留まるように、と息子のモーツァルトを諭しますが、モーツァルトはこの父に対して「自分の音楽的才能は、旅に出て様々な新しい音楽に触れることによってこそ花ひらくのに、ザルツブルグに閉じ込められていたら、このまましおれてしまう」と手紙で訴えています。

考えてみれば、欧州の上流階級の子弟の教育では、しばしば最終段階の仕上げとしてグランドツアーと呼ばれる大旅行が行われました。哲学者のトマス・ホッブズも家庭教師としてグランドツアーに同行していますし、あのアダム・スミスも「一生分の年金」を報酬として有名貴族の子弟が赴く一年のグランドツアーに同行しています。

これは、言うなれば「人と話す」と「本を読む」で得た二次情報の知識を、実地に赴いて一次情報とつなぎ合わせて考えるということをやっているわけです。だからこそ、教育の最終仕上げに「旅」というステップが置かれているわけです。

そして現在の社会に目を転じれば、新型コロナウィルスの流行する直前まで、年間でおよそ2000万人弱で推移していた日本人の海外旅行者数は、2020年から22年まで300万人程度まで落ち込みました。加えて、この期間に浸透したリモートワークの習慣や、あるいは通信の技術の発達により、リアルな旅への需要は、新型コロナウィルスが収束したとしても流行前の状況には戻らないだろうというのが一般的な見方のようです。

しかし先述した通り「旅に出ない」私たちは「リベラル=自由」になることができません。そうすれば私たちは、これまで以上に狭量で、不寛容で、共感する力を持たない社会を生み出していくことになりかねません。こういう難しい局面にあるいまだからこそ、私たちは「自由になるために旅に出る」ということを考えないといけないな、と思うわけです。

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