#065 集合的意思決定の可能性 企業は本当の意味で民主的になれるか?

明治時代の人をタイムマシンに乗せて現代に連れてくれば、見るもの聞くもの全てに驚き続けることになるでしょう。一方で、彼らが「あ、これは同じだ」と思うものはなんだろうかと考えてみると、次の三つが思い浮かびます。

  1. 国会の議事

  2. 学校の教室

  3. 企業の取締役会

他に何があるか、皆さんにもぜひ考えてみて欲しいのですが、では、この三つの場所に共通しているものが何か、と考えてみると、すぐに思いつくのが、これらは全て「情報をやり取りする場」だということです。ここ数十年、私たちの社会に大きな変化をもたらしている原動力の一つが「情報技術の革新」であるにもかかわらず、社会における典型的な「情報をやり取りする場」に百年以上、大きな変化が起きていないのはどういうことなのか?おそらく、この三つの場所には、近い将来、非常にラディカルな変化が起きることになるのではないかと思っています。

例えば2の「学校の教室」については、すでにグローバルには大きな変化が起きていますね。例えば、オンライン教育を主軸に、学校の教室ではむしろ補習をメインにするアイデアを、Khan Academyの創始者であるSalman Khan氏は提案しています。これ、めちゃくちゃ良いと思うので日本にもぜひ導入してほしい。

ということで、教育についてはすでに変化が顕在化しており、この流れは押し留められずに大きな変革につながっていくと思います。

日本でもすでに生徒数日本一の学校はN高になっていますね。これは一般的な高校に入ったものの、あまりの「なんだかな」さに生徒が愛想を尽かして次々にN高に転校してるということですよね。学校の先生が集まらないというのも昨今は恒常的な課題になっていますね。旧式のシステムには生徒も先生も集まらないという状況になっているわけで、レガシーのシステムがすでに破綻しているということですから、教育行政の関係者はさっさと次の仕組みに移行することを考えた方がいいと思います。

ということで、この記事では上記の「1:国会の議事」と「2:企業の取締役会」について考えてみたいと思います。両者は共に「選良による意思決定の場」と定義することができます。しかし、これだけ情報通信技術が発達した現在の社会において、少数の選良による意思決定というのは、未だに存続させるだけの合理的な理由があるのでしょうか?

少し違う角度から話をします。私たち日本人は19世紀後半における革命を経て、身分制度の社会を終わらせ、自由と平等な社会を、おもて向きは実現したことになっています。これは日本に限らず、階級制度を持たない先進国についても同様でしょう。

ところが、このような社会において、厳然と身分が分かれ、その身分に応じて所得や発言力に差がつけられている場所がある。それが企業ですね。企業というのは、誰もあえてそういう問いを投げかけはしませんが、非常に封建的な成り立ちを持った存在です。だからこそ「ティール組織」のような提案が定期的になされるわけですね。

米国の歴史学者のジェームズ・フープスは著書「経営理論 偽りの系譜―マネジメント思想の巨人たちの功罪」において「企業におけるマネジメントのあり方は、アメリカ建国以来の理念である自由・独立・民主と矛盾する」とはっきり主張しています。

企業のエグゼクティブは、自然環境をはじめとして従業員、顧客、地域社会、取引先、株主その他といった、大勢のステークホルダーに対して、重大な影響をもたらす意思決定を行う権限を有しています。このような意思決定は、そのもたらす影響が、時間軸で長期間に、空間軸で広範囲にわたるため、非常に多面的な視点からその施策の是非を判断することが倫理的に求められるわけですが、なぜか、案件の重大性が上がれば上がるほど、反比例するように、少人数が密室で集まって意思決定するようになっているわけです。これはどう考えてもおかしいと思うのですね。

ということで、ここで新しい「集合的な意思決定の可能性」について考えてみたい。

元になっているのはニコラ・ド・コンドルセの陪審定理です。コンドルセという人はフランス革命期を生きた人で、もう共和制が大好き、王政大嫌いっていう人です。一方で、王政を支持する人からは「無知蒙昧な民衆の意見を集めたところで、教育を受けた少数の貴族が行う意思決定に叶うわけがないだろう?」という批判がある。これを退けるためには、なんとしても民衆による多数決の方が優れているということを証明しなければならなかったわけです。

彼が考えたのは次のようなロジックです。

例えばここに、

80%の確率で正解を出せる教育を受けた貴族
60%の確率で正解を出せる教育を受けてない民衆

がいたとして、二人が個人として意思決定の優劣を争えば、言うまでもなく前者の勝ちということになります。ところが、後者を複数集めて多数決をやってみるとどうなるか。細かい計算は省きますが、結果は

十人の多数決の場合:83%
二十人の多数決の場合:86%
百人の多数決の場合:98%

となり、つまりは「たくさんの人が参加すればするほど、正しい答えが出せるようになる」という、共和制の本義に適った結論が得られるわけです。

この「コンドルセの陪審定理」は机の上だけの理屈に聞こえるかもしれませんが、実際にこれを実用上の仕組みとして導入した天才がいます。ジョン・フォン・ノイマンです。

ノイマンは当時、コンピューターの開発に携わっていましたが、当時の技術水準は未熟で、回路がエラーを起こすことがよくありました。「X」という情報を伝えねばならないのに、誤って「notX」と伝えてしまう。あるいは「notX」という情報を伝えねばならないのに、誤って「X」と伝えてしまう。当然、コンピューターは誤作動を起こしてしまいます。

この問題に対してノイマンはどのように対処したか?凡庸な頭脳の我々はすぐに「電気回路の性能を上げなきゃ」と考えてしまうところですが、ノイマンは「電気回路はいまの性能のままでいいから、複数の電気回路を使う」と言い出します。つまり「電気回路に多数決させる」ことを考えたわけです。

一本しか使っていなかった電気回路を三本使う。三本のうちどれかがエラーを起こしたら三本のあいだで多数決をとる。こうすることで誤作動の確率は劇的に下げることができます。

例えば一本の電気回路がエラーを起こす可能性が1%だとすれば、二本が同時にエラーを起こす可能性は「1%×1%=0.01%」になる。

回路のエラー率を百分の一に下げるのは途方もない工夫と努力が必要なわけですが、これを「三つの回路を使う」という、極めてシンプルな方法で解決したわけです。当然ながら、このエラー率は、回路の数を増やせば増やすほど低下することになります。つまり「多いほど良い=More is Better」で、まさに回路の民主主義です。

さて、この「コンドルセの陪審定理」を人間社会に応用するためには何が必要になるか?定理が成立するための主な条件を2つ挙げます。

一つ目の条件は、まず大前提として、皆が同じ問いに正解を出そうとしていること、つまり目的を共有していることが重要です。ときに間違いを起こすとはいえ、それぞれの個人は常に共通の問題に正解を出そうとしている。これが一つ目の条件になります。

二つ目の条件は、各個人は他者の意見に追従したり、空気に流されたりしないこと、つまり「独立性」が求められます。コンドルセの陪審定理は、各個人の正答率が他者の影響を受けることなく積み上がることで統計でいう大数の法則が働いて初めて成り立ちます。だから、組織の中によくいる「声の大きい人」に、周囲が影響されてしまっては多数決の意味が完全に失われてしまうのです。各人はそれぞれが別個に自分で意思決定を行う。だから「独立性」が求められるわけです。

コンドルセの陪審定理の他にも、社会科学にはいくつか「多数決の判断は優れている」ことを示す定理がありますが、そのいずれにおいても、ここに挙げた「目的の共有」と「独立性」の条件が決定的に重要とされていることは留意しておいて良いと思います。

とはいえ、この二つの条件は非常に難しい問題を孕んでいると思います。

あなたはもしかしたら「目的の共有なんて簡単じゃないか?」と思うかもしれませんが、ここでいう「共有」は、単に情報として共有すればいいというものではありません。心底、その目的が実現したらいいなと思わなければいけないわけで、単に「共有」を超えた、深いレベルでの「共感」がなければならないのです。なぜかというと、真の目的とは異なる目的を実現したいと考えて投票すれば、その投票は正答率を下げることになるからです。

これは組織ではよく起きることですよね。「建前としての目的」は掲げているものの、そこに参加している人は皆、個人としての「本音としての目的」に沿って投票してしまう、といったケースです。

あるいは「独立性」という問題も難しい。独立性を実現するためには、投票への参加者に「完全な情報」を与える必要があります。情報をを持っていない人、あるいはその情報を元に考える能力のない人は独立性を満たせません。そういう人は他者の判断に追従したり、空気に流されたりする傾向があるからです。

私たち一人一人にはそれぞれ異なった認知能力がある。つまり人間の認知能力には多様性があるということです。この多様な認知能力を意思決定の品質に反映させるためには「目的の共有」と「独立性」が鍵になるということですが、これが実社会において見事に機能した例を一つ共有しておきましょう。

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