#083 スジの悪い努力の断捨離

第4章 スジの悪い努力の断捨離


では、今日話したことをまとめます。
いちばん大事なのは、無闇に練習しないということ。どんな漫才をするのか、自分の中で明確な方向性を持って、それに従って練習をするということ。

島田紳助「自己プロデュース力」


皆さんこんにちは。ここのところ数回にわたって「時間のポートフォリオ」という観点から「スジの悪い仕事の断捨離」が必要だというお話をしてきました。

本記事では、もう少し枠組みを広くとって「努力」について考えてみたいと思います。というのも仕事においても余暇においても「スジの悪い努力」は人生を食いつぶす大きな要因になるからです。

一般に「努力」はすべからく良いものだと考えられる傾向がありますが、果たして本当にそうなのでしょうか?

伝説の勝間・香山論争

経済評論家の勝間和代さんと心理学者の香山リカさんの論争を覚えている方も多いと思います。この論争は「努力して経済的自由を獲得しよう、私のようになれ」と鼓舞する勝間さんと「努力しなくてもいい、勝間和代を目指すな」となだめる香山さんとの議論の噛み合わなさぶりが確信犯ではないかと思えるほどに面白く、私などは「これは新種のドツキ漫才だな」と思って傍観していたのですが、さて皆さんはこの論争でどちら側の主張に共感したでしょうか?

この論争があれほどまでに盛り上がったというのは、社会全体が「努力は本当にいいことなのか?皆が努力しなくてはいけないのか?」という論点について強い関心を抱いていることをいみじくも示しています。

報われるのは「スジの良い努力」だけ

「努力は報われる」という言い方がありますが、これは嘘だとは言わないものの、言い方として不十分だと思うのですね。正確には「良い努力は報われる」のであって、「すべての努力は報われる」わけではないという点に注意が必要です。

努力には、その努力によって人生の豊かさが増す「スジの良い努力」と、その努力によって徒労感と無力感だけが残る「スジの悪い努力」があります。

勝間・香山論争がいつまでたっても噛み合わないドツキ漫才のようになってしまうのは、勝間さんが「スジの良い努力によって人生は変わる」と主張しているのに対して、香山先生は「スジの悪い努力をすると徒労感と無力感だけが残る」と反論しているからで、要するに二人は「違うもの」を見ながら意見を戦わしているわけです。

例えて言えば、名著を取り上げて「読書を通じて人間は成長できる」と言っている人と、駄作を取り上げて「読書なんて意味がない」と言っている人が、相互に両者の意見を論難しているようなもので、噛み合わないのは最初から当たり前なのです。

スジの良い努力は「方向がいい」X「方法がいい」

では「スジの良い努力」とはどういうものか。着眼点は二つあります。それは

  1. 方向がいい

  2. 方法がいい

の二つです。

「方向がいい」というのは、自分の適性やキャリアの方向と努力の内容が一致しているということです。論理的思考力や概念的思考力といったコンピテンシーを持たない人が勝間和代さんのような知的専門職を目指して努力するというのは「方向が悪い」努力の典型で、そんなことをしても無力感や徒労感が募り、かえって人生を壊してしまうことになりかねない。香山先生が論難したのはまさにこの点でした。

一方で「方法がいい」というのは、努力が効率的に自分の技量や知識の向上につながっているということです。例えばよく知られているように、一時期運動部でよくシゴキに使われた「うさぎ跳び」は、今日では身体能力を向上させるのに全く意味がないどころか、かえって膝や腰を痛めることになりかねないことが知られています。

こういった「ツラいばっかりで実は技量や能力の向上につながらない」努力は、「方法が悪い」努力の典型と言えます。ちなみに後ほど触れますが「聞き流すだけで英語が話せる」とか「一日で頭が良くなる」といった「安易さ」を売りにしたスキル系トレーニング教材のほとんども「方法が悪い」努力の典型で、そんなことをいくら繰り返しても意味がありません。

つまり、努力が報われるかどうかは「方向がいい」かつ「方法がいい」という、二つの条件を満たすかどうかにかかっていることになります。この二つの条件が満たされているのであれば「努力は報われる」ということになるというのが僕の主張ですが、これは逆に言えば、それらのうちどちらかでも欠けてしまうと、それは「スジの悪い努力」だということになり、さらに言えば多くの人の努力は、この二つのうちのどちらかを欠いた「スジの悪い努力」になっている、というのが私の主張です。

努力の方法にしても方向にしても、言われてみれば当たり前のことのように思われるかも知れませんが、これは重大な指摘だということに気づきますか?

なにがポイントかというと、つまり「努力」は、努力の行為や修練の内容そのものを取り出して「意味がある」とか「意味がない」とかは判断できないということを言っているわけです。その努力がスジの良いものか悪いものかは、その努力をする主体がどのような戦略をキャリアや人生に描いているかによって変わってくる、ということです。これはつまり、立ち止まって自分の人生の戦略を考えることなしに、やみくもに周囲の人がやっているような努力をしているのは大変危険だということです。

さて、この問題を考察するに当たって絶好の題材があります。元ハードル選手の為末大さんの問題提起です。

なぜ為末さんの指摘は論争を巻き起こしたのか?

ハードルの日本記録保持者(2016年3月現在)為末大さんは、才能に恵まれない人が、いくら努力したところで一流のアスリートにはなれない、と指摘しています。この指摘については炎上と言っていいほどの大きな論争が巻き起こりましたが、小学生でさえうすうす認識しているようなこんな単純な真実を改めて指摘したことで論争が巻き起こるのを見ていて、そのナイーブさに驚くととともに、「ああ、為末さんは痛いところをついてしまったんだな」と私は思いました。

為末さんのこの指摘がなぜ論争を巻き起こしたのか、不愉快に感じた人の内部でどのような心理的なメカニズムが働いたのか、考察してみましょう。

まず、激しく反論しているという時点で、痛いところを着いているということは自明です。人は、自分にとってどうでもいいと思える意見には反応せず、スルーするだけです。激しく反論してくるということはフロイト的に言えば転移が発生しているということですから、この指摘が何らかのかたちで彼らの信条=ビリーフにとって脅威に感じられたということです。

では、それはどのようなビリーフなのか。おそらく「いまやっている努力はきっといつか報われる」というビリーフです。そして、そのビリーフの背後には「こんな努力をしていいて、本当にいいのか?」という微妙な疑念もあるはずです。この疑いがあるからこそ「才能のない人が努力をしても無駄」という為末さんの指摘に対して、感情的に反応するわけです。

いいかえれば「才能のない人がいくら努力しても報われないよ」という為末さんの指摘は、とりもなおさず無駄な努力をしている人たちが、普段から心の奥底でなんとなく感じていることなのです。それをあえて無視している、心の奥底から聞こえてくる声を、聞こえないふりをしている状態だったのです。それを他者から明確に指摘されたので、ムキになって反論するわけです。

本当に、痛々しいとしか言いようがありません。

「才能」のあるなしは市場が決める

為末さんの「才能に恵まれない人がいくら努力しても報われない」について、もう少し掘り下げて考えてみましょう。為末さんは子供の時から100メートル走のオリンピックファイナリストを目指していました。高校生の時に走力の伸び悩みに直面し、かつては自分より格下だった選手に次々と追い抜かれるという現実を直視して「自分には才能がない」と判断して100メートル走を諦め、400メートルハードルに転向したところ、相対的にポジションが向上しオリンピックにも出場できた、と著書に書かれています。

ここで問題になるのが「才能がある、ないというのは、どういうことなのか?」という論点です。こうやってさらりと書かれればごく普通の文章に見えますが、これはなかなかトリッキーな論点だと思うのですよね。

この場合、ある職業や種目について「才能がある」ということを、もうすこし厳密に「ある競技や職種について、一定レベルの努力によって食えるレベルに到達できるだけの先天的な身体的・認知的要件を備えている」という言葉に置き換えてみましょう。

さて、このように「才能のあるなし」について厳密に定義してみると、「努力が報われるかどうか」については、付帯的な条件がいくつかあることに気づきます。まず「食えるかどうか」という判断は、その職業や種目の労働市場が、どれくらいの人数の存在を許容してくれるか、にかかっています。

例えばシェフの才能があるかないかを判断するためには「それなりに努力すればシェフとして食っていけるか」ということを判断しなくてはいけないわけですが、この判断には、市場がどれくらいの数のシェフの存在を許容してくれるかという問題を抜きにして判断することはできません。

仮に市場が10万人のシェフの存在を許容してくれるのであれば、別にトップ100位に入る必要はありません。5万位でも十分にシェフとして食っていけるわけですから、それで十分に「才能がある」と判断して構わないし、であれば「努力すればシェフになれる」と考えて構わないということです。

これは他のどんな職業においても同じことで、作曲家なら作曲家の、クリエイターならクリエイターの、それぞれについて労働市場が許容する人数があって、努力によってその許容人数に入れるくらいのランキングを獲得できれば、それは「才能がある」と言っていいわけで、だから「正しく努力すれば報われる」といっていいわけです。

「才能」は属性ではなくランキング

さて、このように考えていくと、為末さんの置かれていた状況は極めて特殊だったということに気づきます。というのは、100メートル走でも400メートルハードルでも、オリンピックの決勝に出られるのは世界でも数人しかいないわけで、先ほど説明した枠組みで説明すれば、労働市場が許容する人数が他の職業や種目に比べて桁違いに小さいのです。

なぜこういうことが起こるかというと、陸上競技は選手のパフォーマンスを評価する評価指標が非常に少ないからです。陸上競技のほとんどはタイムという一つの評価指標しか持っていませんから序列=ランキングが明確に出ます。パフォーマンスを評価するインデックスの多さはそのまま多様性の許容につながります。

例えば、日本のプロ野球で一軍に登録されているのは三百名程度ですが、これほどの人数の存在が許容されるのは「走・攻・守」など、評価指標が複数あるからです。言い方を変えれば、何らかのインデックスを見つけて鍛えれば、日本で200位くらいまでなら野球選手として食っていくことができるわけですが、陸上競技で200位では全く問題外でしょう。

為末さんの「才能がない人が、どれだけ努力したところで無駄」という意見について、多くの人が違和感を覚えたのは、前提として考えている職業・種目の労働市場の大きさが全く違うからという側面もあったと思います。為末さんがイメージしていたのは、世界でも数人しか許容しない極めて厳しい陸上競技という労働市場でしたが、多くの人が労力を注いでいる労働市場は通常は万単位の労働力を許容しますし、映画監督や音楽家という職業でも千単位にはなるでしょう。そして繰り返せば、「才能のある、なし」は、市場が許容する労働人口の中に入り込めるだけのランキングが取れるかどうか、なのですから、両者の意見や感覚が大きく異なるのも無理からぬことです。

己が分を知りて、及ばざる時は速やかに止むを、智といふべし。許さざらんは、人の誤りなり。分を知らずして強ひて励むは、己が誤りなり。

兼好法師「徒然草」

一万時間の法則のお粗末さ

「努力は報われる」と無邪気に主張する人たちがよく持ち出してくる根拠の一つに「一万時間の法則」というものがあります。「一万時間の法則」とは、米国の著述家であるマルコム・グラドウェルが、著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱した法則で、平たく言えば、大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしているというものです。

この指摘自体は当たり前すぎて、「はあ、だから?」と反応するしかないのですが、重要な点は、グラッドウェルが「一万時間よりも短い時間で世界レベルに達した人はいないし、一万時間をトレーニングに費やして世界レベルになれなかった人もいない」と主張している点です。

これはつまり「何かの世界で一流になりたければ、一万時間のトレーニングをしてみなさい。そうすれば、あなたは必ず一流になれます」という、もし本当であれば相当にトンデモナイことを法則として提案しているわけです。

ところが、これだけ大胆な法則を提案しているにもかかわらず、同書の中に示されている法則の論拠は、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに一万時間熱中した)、そしてビートルズ(デビュー前にステージで一万時間演奏した)についてはこの法則が観測されたというだけでしかなく、非常に脆弱と言わざるをえません。

一言でいえば、考察が乱暴なんです。ちなみにこういった「乱暴さ」は、「才能より努力だ」と主張する多くの本に共通していて、例えばデイビッド・シェンクによる『天才を考察する』(早川書房)では、「生まれついての天才」の代表格であるウォルフガング・モーツァルトが、実際は幼少期から集中的なトレーニング=努力を積み重ねていたという事実を論拠として挙げているのですが、これは論理のすり替えで全く命題の証明になっていません。

「才能より努力」を証明したければ、「モーツァルトがものすごく努力していた」という事実はどうでもよく、逆に「モーツァルトと同じような努力をして世界的な音楽家になれなかった人は歴史上一人もいない」ということを証明しなければなりませんが、過去に遡及して「ない」ことを証明するのは極めて難しく、この命題は証明不可能です。

知的専門職には「一万時間の法則」は適用できない

もうすこし丁寧にこの問題を考えてみましょう。バイオリニストの集団で、一万時間の法則が観察されたのは理解できます。それはバイオリンの演奏が非常にフィジカルな側面の強い行為だからです。

楽器演奏というのは、やったことがある人はわかると思いますが、初心者に型を教えて、その型にどんどん自分を合わせていくということをします。これはバイオリンでもピアノでもトランペットでも同じです。このように「決まった型をフィジカルに習得していく」というような種類の競技や職業であれば、一万時間の法則は成立する可能性があります。

ところが、私たちのほとんどは、フィジカルな要素がほとんどない職業についているわけで、そのような職業において、単に一万時間を修練のために投入しても、それで花開くかどうかは「センスのあるなし、才能のあるなし」によるでしょう。

と、ここまでは僕の直感なのですが、実際のところどうなんだろうと思って調べてみたら、やはりありました。プリンストン大学のマクナマラ准教授他のグループは「自覚的訓練」に関する88件の研究についてメタ分析を行い、「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」という、普通に考えれば誰にでも思いつく結論を、一応は科学的に論証しました[1]。

同論文は、各分野について「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」を紹介しています。 

  • テレビゲーム:26%

  • 楽器:21%

  • スポーツ:18%

  • 教育:4%

  • 専門職:1%以下

思った通り、楽器に関しては、練習が上達に与える影響度は、相対的に他の職業や種目に比較して高い。テレビゲームの数値が高いのも、多くの人にとっては感覚的に納得できると思います。

テレビゲームはそもそも「間口は広く、奥行きを深く」するのが大事で、わかりやすく言えば「誰でも時間をかければ上達する」ように設計されています。難しすぎて、時間をかけてやり込んでも全然上達しない、あるいは簡単すぎてサクサクとクリアできてしまうというゲームは、ゲームバランスの悪い「クソゲー」とされ、市場で評価されません。市場で評価されるゲームは、適度な負荷と難易度があり、挑戦する楽しさと一定量の時間でそれを超克する楽しさの両方をバランスさせているのです。

さて、ここで注目したいのが専門職の1%以下という数字です。これは端的に言えば、ある知的専門職において個人が成功するかしないかは「努力の多寡」はほとんど関係なく、それ以外の要素で決まってしまうということです。

本論文は端的に「自覚的訓練が重要でないとは言えないが、これまでに議論されてきたほどには重要ではない」と控えめに結んでいますが、1%以下という数字を見れば、もう結論は出ているようなものです。

この数字を見ればグラッドウェル氏の主張する「一万時間の法則」が、いかに人をミスリードするタチの悪い主張かということがよくわかります。「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうではないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しいでしょう。

種目を変えないと勝てない

先述したとおり、専門職のパフォーマンスの良否は、練習量=努力によっては説明できません。では何がパフォーマンスを左右するのか。同論文は科学論文らしく謙虚に「まだわからないのでさらに研究が必要」とまとめていますが、普通に専門職=ホワイトカラーとして仕事をしてきた人であれば、おおよその見当はつきます。

僕が以前勤めていたコンサルティング会社では70年代以来、世界中の知的専門職におけるハイパフォーマーの研究をしていました。その研究の結果から明らかになった「ハイパフォーマーを生み出すレシピ」は

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