美意識をアップデートする側に回るか、アップデートに引きずられる側に回るか?

多くの人は「美しさ」というものに何かしら絶対的な基準があって、揺るがないものだと思っているようですが、実際のところ「美しさの規範」というのは、それほど堅固なものではありません。

場所や時代が変わることで「美しさの規範」も大きく変わります。歴史的に見れば、いまの私たちにとって規範的な「美しさ」は、20世紀の前半から中盤にかけて、それまでの「美しさ」をアップデートする形で規範化されていった経緯がありますが、これを逆に言えば、私たちにとっての「美しさの規範」もまた、これからアップデートされていくことになる、ということです。

少し歴史を振り返ってみましょう。たとえば美術の領域では、19世紀の半ばくらいまでは、こんな絵が高く評価されていたのです。

アレクサンドル・カバネル「囚人をためすクレオパトラ」

これは、19世紀の後半、フランスのアカデミー画壇の頂点に君臨していたアレクサンドル・カバネルによる「囚人をためすクレオパトラ」です。

カバネルは画壇を代表する画家の一人として、まさに一世を風靡した画家ですが、現在の私たちから見れば、この絵は、まるでどこかのお土産屋で叩き売られているような、ボンヤリとしたつまらない絵にしか思えません。しかし当時のサロンではこういった作品が激賞されていたのです。

当時の画壇では、テーマに明確なヒエラルキーがありました。歴史物がもっとも高尚であるとされ、風景画や静物画はランクの低いものとみなされていたのです。

また、アーティストの技量についても、どれだけ現実を正確に写しとることができるか、という点が重要で、その画家ならではのタッチや個性などは重視されていなかったのですね。

テクノロジーは社会の美意識まで変える

しかし、ここに大きな変化が起きます。カメラの登場です。カメラが出てきたことで、現実を正確に写しとるという人間の能力は、さしたる意味のないものになってしまったわけです。

人間が、何十年もの歳月をかけて獲得した能力を使って、長い時間をかけてやらなければできなかった「現実を正確に写しとる」ということを、一瞬でやってくれる機械が出てきたことで、アーティストに求められる能力も、さらにはその能力によって描き出される絵画作品の「良さの基準」もまた大きく転換していくことになったわけです。

では、それがどのような方向に変わっていったか?カバネルは、アカデミーの帝王として君臨しながら自分の弟子たちを次々にサロンに招き入れる一方で、勃興しつつある印象派を拒絶し続けました。それは例えば、次のような絵ですね。

クロード・モネ「印象 日の出」


モーリス・ド・ヴラマンク「家と道」

現実を正確に写しとる、ということがアーティストの能力を評価する基準と考えるのであれば、モネやモネヤヴラマンクの作品が高く評価されることはありません。

ちょっと横道に逸れますが、カメラが美術の世界で起こした変化は、現在進行しているAIの浸透がもたらす変化を考える上で有用なヒントになると思います。現実の風景を正確に二次元のメディアに落とし込むという人間の能力がカメラによって代替され、過剰供給されるようになった結果、アーティストの評価軸が大きく変わったのと同じように、正解を出すという人間の能力がAIによって代替され、過剰供給されるようになることで、知的生産をお婚あう人たちの評価軸もまた、大きく変わることになるでしょう。

で、話を元に戻せば、古い基準、つまり「いかに正確に現実を写しとるか」という古い基準に則って描かれたカバネルの作品はもはや評価の対象にすらならず、モネやヴラマンクの作品は高く評価されています。つまり19世紀末から20世紀にかけて「良い絵画」の規範は大きく転換したということです。

「良い建築」の規範も20世紀前半にアップデートされた

同様のことが他の分野にも言えます。例えば建築では、19世紀の後半は、ネオバロック様式、ネオゴシック様式、アールヌーボーといった様式が高く評価されていました。

典型例を二つ挙げるとすれば、これらでしょうか。

パリ ノートル・ダム寺院


建物の外観がいかにも古めかしいので、これらを19世紀の建築だと言われると驚かれるかもしれませんが、これらは、いわゆるゴシックリバイバルの様式、古いゴシック様式を復活させたもので、両者ともに19世紀の後半に建てられています(ノートル・ダム寺院はもともと12世紀に建てられた教会ですが、その後破壊され、廃墟になっていたのを、19世紀のパリの都市計画の一環として修復されています)。

ところが、20世紀に入ると、いきなりこういうのが出てくるわけです。

バウハウス校舎

写真はデッサウに設立された伝説的な建築・デザイン学校のバウハウスの校舎ですが、建設は1910年代ですから、ノートル・ダムやビッグベンが建てられてから50年程度しか経っていません。たった50年で、大きく「良い建築」の規範が変わったことが伺われます。

この規範の変化にもテクノロジーが関わっています。鉄筋コンクリートの登場です。それまでヨーロッパの建築物は石やレンガを積んで作っていました。自分で積み木を組んでみるとすぐにわかりますが、この工法だと開口部を横長にできません。したがって、19世紀以前のヨーロッパの建物はすべて窓が縦長になっています。西洋風の建物を作りたいと思えばコツは非常に単純で、窓を全部縦長にするとなんとなく洋館っぽくなります。

ところが鉄筋コンクリートが出てきて、開口部を横長に取れるようになった。こうなると、それまでの建築設計やデザインの定式も大きく変わることになります。技術的な制約をクリアしながら、いかに美しく作るかということをずっと考えてきたわけですが、技術的な制約がなくなったわけですね。

そしてさらに、20世紀の半ばになってくると、こういったものも出てくる。

ポンピドーセンター

パリを訪れたことのある人はわかると思いますが、ポンピドーセンターは、ノートル・ダム寺院から歩いて5分程度のところにあります。ノートル・ダムから歩いていくと、ずっと古典的なパリの街並みが続く中、いきなりこれが着陸した宇宙船のように現れるわけです。

ポンピドーセンターは、国際コンペによって建築デザインが募集され、その中からレンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースによる同案が選ばれ、建設されたわけですが、この案を選ぶかどうかにあたっては審査員をはじめ、社会全体でも侃侃諤諤の議論があったそうで、建設当初は「なぜ美しいパリに工場のような建物を建てるのか」と批判が殺到したそうです。

ちなみにエッフェル塔も、あの鉄骨が無骨で美しくない、パリにふさわしくないということで批判されましたが、今やエッフェル塔もポンピドーセンターも「伝統と革新」「エレガンスとアバンギャルド」というパリのキャラクターを象徴する建物になっていますね。

衣服の「美しさ」もアップデートされた

最後に衣服についても見てみたいと思います。

19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスの上流階級の女性の服装は次のようなモノでした。

当時の女性のファッションは、針金を入れたコルセットを多用する窮屈で息苦しいものでした。とくに上流階級の女性は、紳士の愛玩物として、性的なイメージを強調した矯正具のような洋服を着るのが、たしなみだと考えられていました。

この状況に強烈な楔を打ち込んだのが、ガブリエル・”ココ”・シャネルでした。彼女は、男性服に用いられていたジャージ素材を用いて、リラックスして着られのにエレガントな、新しい女性服のあり方を提案したのです。

いかにも着心地が良さそうですね。彼女は次のような言葉を残しています。

Luxury means comfortable.
If it is not comfortable.
Then it is not luxury.

窮屈なコルセットから上流階級の女性を解放したのがシャネルだったとすれば、それを受け継いだのはイヴ・サンローランでしょうかね。1966年のコレクションでイヴ・サンローランが提案した「スモーキング」は物議を醸しました。

サンローランは、男性服だったタキシードを女性に用いることで、女性の新しいフォーマルウェアのあり方を提案したわけです。50年以上前のコレクションですが、いま見てもカッコいいというのはすごいことだと思います。

1920年代のコルセットファッションから、たった50年でここまできたわけで、保守的な人からしたら受け入れがたい提案に思われたでしょうね。

ポイントは「美のアップデート」は常に物議を醸すということです。これを嫌がっていたら「美意識をアップデートする側」に回ることは難しいでしょうね。

「美の規範」はアップデートする側になれるか

ここまで見てきたように、その社会における「美の規範」は常に、その社会における「美しさのあり方」に対するクリティカルな感性を持っている人々によって、批判的にオルタナティブな提案がなされることでアップデートされてきた、という経緯があります。

そして多くの場合、そのような提案を行う革命家たちは、商業的にも大きな成功を収めています。つまり、私が最近、いろんなところで言っている「クリティカル・マインドセット」は、「美しさ」を提供するビジネスにおいてもまた重要だということです。

ここで重要なのは、社会には

  • 美の規範のアップデートを引っ張る側

  • 美の規範のアップデートに引きずられる側

の二つのプレイヤーがいる、ということです。

このうちのどちらにまわるかで、その後の流れは大きく変わってしまうわけですが、ここで非常に重要なポイントになってくるのが「マーケティング」の扱いです。

マーケティングの危険性

マーケティングというのは、一般的には、その市場における顧客の嗜好を精密に把握し、その嗜好を満足させるような商品やサービスを提供することを目指すわけですが、これを全開にやってしまうと、必ず

  • 美の規範のアップデートに引きずられる側

になってしまいます。

つまり、こと「美の規範のアップデート」という問題について考えてみると、マーケティングというのは非常に危険だということなのです。

この点について、デザイナーの原研哉氏は次のような指摘をしています。

センスの悪い国で精密なマーケティングをやればセンスの悪い商品が作られ、その国ではよく売れる。
センスのいい国でマーケティングを行えば、センスのいい商品が作られ、その国ではよく売れる。
商品の流通がグローバルにならなければこれで問題はないが、センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。
しかしこの逆は起こらない。
ここに大局を見るてがかりがあると僕は思う。
その企業が対象としている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない。

原研哉「デザインのデザイン」

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