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海を吸い込む

前世は海に関係していたと思う。父が言うには瀬戸内海に多い名字らしい。かつてご先祖様は、海を眺めて暮らしていたのだろうか?わたしは海にどうしようもなく惹かれる。そのことを話したら恋人が「君は貝が嫌いだから、前世は貝だったんじゃないの?共食いになっちゃうから食べられないんだよ」と笑った。貝かよ(汗)と思ったけれど、その説には妙な説得力があった。海の底の砂の上で、水面をぷかぷかと見つめている貝。しずかな貝。そう言われるとたしかに、魂のどこかに、そんな記憶があるような気もする。

元・貝なので、ときどき無性に海へ行きたくなる。海が呼んでる、と思う。そう思うと居ても立ってもいられなくなる。何もない郊外の町で育ったけれど、江ノ島まではすぐだった。神奈川県民だから、海といえば江ノ島だ。小さい頃は海水浴に行った。遠足で水族館に行った。お母さんと花火大会を見に行った。男の子とデートした。江ノ島ってそういう海だ。

鬱で仕事を減らしているから平日にも休みがある。今日海に行くことは決めていたけどなぜか起きたら頭痛がひどくて、家を出たのは結局午後だった。EVEキメる。電車に乗る。平日の昼だから空いている。頭が痛いので眠る。そこまでして海に行く必要があるのか?もはや自分でもわからない。でも今日も寝て過ごすだけだと生きてる意味を見失いそうだから頑張る。

小田急江ノ島線をずっと下っていく。

片瀬江ノ島駅に着いた時にはもう日が傾いていた。むしろサンセットのいい時間だ。早足で海に向かう。なんども来ているから迷わない。海岸は思ったよりも混んでいた。海は密じゃないもんな。砂浜へ続く階段に座る。

海だ。

海はやっぱり美しかった。水平線が淡いオレンジのグラデーション。東の空はミルクを溶かしたようなペールブルー。わたしはこういう青が好きだ。西日はまだ少し高いところにあった。わたしは思い切り息を吸い込む。海を吸い込む。海で呼吸することは、海を吸い込むことなんだと思う。たぶん海の粒子がそのへんの空気にも混ざっているはずだ。だからこうして時々海のそばで呼吸する。そうやって肺に海をためておく。

1時間くらい、ぼーっと海を見ていた。波って思ったより立体だったんだなあ、と思った。海なんて人生の中で何度も見ているはずなのに、何度見てもこんなふうだったかな、って思う。自然はいつも記憶を凌駕する。人間なんてちっぽけな存在なんだと思う。それが安心する。波打ち際の、海と地が混ざり合う場所を渚と呼ぶ。生命はそこで生まれたと言われている。渚は二人の夢を混ぜ合わせる。

海にはいろんなひとがいた。ちびっことそのママ、スミノフ飲んでるヤンキーとギャル、犬を散歩させているおじさん、童顔なのに煙草吸ってる彼氏と地雷系ファッションの彼女、サーファーのお兄さん、何かの配信でもしているのか?ずっと動画を撮っているお兄さん、やけに距離の近いアラサーカップル、ひとりでぼーっとしてる半分無職の女(わたし)。ごった煮のようなそれらすべてが、だけど波音の中で、ひとつの空間に溶け合っていた。これが海だと思った。海は大きい。海はすべてを包みこむ。すごいな、海は。

日が沈んだので立ち上がった。ちょうど水平線に雲がかかっていて綺麗に日が沈むところは見られなかった。まあ、人生そんなもんだ。

せっかくなので海岸沿いをぷらぷらと歩く。いつかこのへんのマンションに住みたいなあ、と思う。いくらなんだろ。高そうだよなあ。でも新宿まで遠いしな。一時間はかかるよなあ。海風大変そうだしな。生活と東京を切り離す勇気がないと住めないな。でも憧れるよね、海沿いの生活。

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