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【前半】中村佑子×きくちゆみこ『マザリング 現代の母なる場所』刊行記念対談

2020年12月、ドキュメンタリー監督の中村佑子さんによる初の単著『マザリング 現代の母なる場所』が刊行されました。
本作は、中村さんご自身が妊娠出産を経て、「母とはなにか?」という問いのもと、様々な人に話を聞きに行き、その聞き書きと考察をまとめた一冊です。
産後鬱に陥った人、流産を経験した人、産まないと決めた人、養子を迎えた人……。さまざまな声をすくい上げ、いまを生きる人々の声から、「ケア」をめぐる普遍的思考を紡いでいきます。

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中村佑子『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)
定価:本体2,200円+税 

本書の刊行を記念して、吉祥寺の書店『百年』にて、著者の中村佑子さんと文筆家のきくちゆみこさんとの特別対談が行われました(きくちさんは本書のなかに取材対象者としても登場しています)。
その豊かな対話の一部を、前半/後半に分けてお届けします。

企画=百年  構成・執筆=編集部

「言葉にしないことも守りたい」という思い


中村
 今日はよろしくお願いいたします。ギャラリー「一日」でのきくちさんの展示を拝見して、足を踏み入れた途端に、『マザリング』の取材でうかがった、きくちさんのお部屋を思い出しました。
(*きくちゆみこ個展「内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)」は、2020年12/16~29に吉祥寺「一日」にて開催)
コロナ禍の4月から始まる日記の抜粋が展示されていて、きくちさんが生きている感触や息遣いがそのまま伝わって、こちらの記憶も誘発されるような言葉の力を感じました。直線的に積みあがっていく論理的な言葉ではない、すごく親密で自由で触覚的な言葉の力。それがすごく実はこの『マザリング 現代の母なる場所』(以下『マザリング~』)とも関わってくるので、そういう「言葉」のお話も今日はできたらいいな、と思っています。

きくち ありがとうございます。本当に展示が終わったばかりなので、自分でもまだあの空間はなんだったんだろう? というところがあって、言葉にしていただけるのが嬉しいです。

中村さんも『マザリング』の中で子どもを産んだ後の「言語喪失感」の話をされていたと思うんですけれど、私が『マザリング』の取材を受けた当時は、子どもを生んだばかりで、まさにそういう時期だったんです。

中村 きくちさんにインタビューさせて頂いた時は2018年で、まだ娘さんを産んで8ヶ月ぐらいの時でしたよね。

きくち はい。「何か書かないと」という切迫感がすごくあって、でもそれと同時に、「言葉にしないことも守りたい」という思いもあって、その狭間で揺れていた時期でした。目の前にまだ言葉をしゃべらない人がいる。その人との言葉を介さない濃密なコミュニケーションの中に浸っていたときに、佑子さんがあの家に現れて話を聞いてくださって。でも子どもがそばにいる時って、どこか回路が違うところに行くのか、うまく話せなくなってしまうんですね。取材からしばらくして書きあがった原稿を頂いた時に、私が断片的にしか話せなかったことを、佑子さんは私の家に来るまでの道のりの描写から書き起こしていて、空間を新しく作り直してくれたみたいな感覚がありました。

中村 お部屋に伺ったとき、玄関を明けた途端、暖かくて光が漏れていて、可愛いものがたくさんあって、きくちさんの文章そのものというような空間だと思いました。

きくち 私は自分のことをZINE(個人で作る少部数の印刷物)を通して書き続けてきたんですが、自分の話を自分で綴ることは救いでもあると同時に、どこか虚しくなるときもあるんです。でも『マザリング』の取材を受けたことで、「あ、すべてを一人で書かなくてもいいんだ」、ということに思い至ったんです。「一緒に書くことができるんだ」というのが、発見でもあり喜びでもあり、ある意味「発明」でもあるというか。私だけでなく、「世界」にとって必要なことなんじゃないかと感じたんです。『マザリング』は、色んな人が佑子さんを通じて一緒に書いた本、という感じがして、みんなで声を重ねていった空間が一冊になったのだな、と思っています。

タイトルは連載時から変わっていますが、佑子さんはどのように「マザリング」という言葉にたどり着いたんですか?

『マザリング』に込められた意図


中村
 連載時は、「私たちはここにいる~現代の母なる場所」というタイトルだったんですね。連載の依頼を最初に頂いたのは、本当に娘を産んだ直後だったので、ちょうど自分が今まで使ってきた言葉をうまく使えない失語症的な状態にあったんです。言葉で自分の状態を規定できなくて、存在が希薄になってしまうような感じがして、「私はここにいる!」ということを直接的なタイトルで言いたかった。そして私だけじゃなくて、自分の部屋と社会の間で、言葉を失うような体験をしている人が他にもたくさんいるんじゃないかな? と思ったんですね。何人かのお母さんたちを取材しながら、私自身も「私たちはここにいる」ということを確かめていくような形で連載がはじまりました。

でも連載が進むにつれて、育児にとどまらず、もっと射程の広い状態のことを自分は考えているのかも、ということがわかってきたんですね。取材対象者も広がってきて、養子を迎えた方や、母だけではなくお父さんや、子どもを産まないと決めている女性や、ドイツでアーティスト活動をして学生たちをケアしているイケムラレイコさんとか、お話を伺うなかで、傷ついている人や弱い存在に触れ合うときに生まれる感情とはなんだろうか、ということがテーマになってきたんです。

その感情を、連載の中では仮に「母性」とか「母なるもの」とか呼んでたんですが、「母」という言葉を使っていいのだろうか、という問いがずっとあったんです。というのも「母性」や「母」というのは、「母性的であらねばならない」と女性たちを抑圧してきた歴史もありますし、手垢にまみれた、勘違いもされやすい言葉だから。代わりとなる言葉をずっと探していたときに、村上潔さんという女性学の研究者の方が、私の連載を読んで、「マザリング」という概念を関連させて授業で取り上げていらっしゃることを知って。その授業のレジュメを拝見して、電撃に打たれるようにバシッと嵌ったんです。

「マザリング」という概念は、「the act of caring for and protecting children or other people」、つまり「子どもやその他の人々をケアし守る行為」という意味。一方で「母性」というのは、「the state of being a mother」なので「母である状態」という意味で、それだと性別が深く関わってくるし、全然意味が違うんですよね。

きくち なるほど、全然違いますね。

中村 もうひとつ、「マザリング」についてはイギリスで研究が盛んで、「Revolutionary Mothering」という本があるのですが、「マザリング」は、資本主義とか新自由主義に対抗する概念として扱われているそうなんですね。そのことを聞いたときに、新しく書籍化する場合には「マザリング」というタイトルにしようと決めたんです。

きくち はい、読んでみると、おっしゃることがよくわかります。

中村 そもそもなぜ『マザリング』できくちさんに取材に伺ったかと言うと、私はきくちさんのZINEがすごく好きで。その時々できくちさんが何を感じたか、自分の感情そのものに向き合ってそのまま言葉にしているから、こういう親密な言葉を使う方が、お子さんを生んでどんな言葉を見出してくれるんだろう、と興味が湧いたんです。産後の女性たちは、子どもがいると、自分の存在が子どもに向かって流れ出しているような、子どもの方に向かって半分皮が剥けてつながっているような感じがあるから、言葉を探す作業が難しいんですね。でも、もし話し言葉が出てこなくても、私を反射板にして、リフレクションで何かが始まるようなことがあるかもしれない、そうなったらいい……と思っていたのを覚えています。まずはその言葉を生み出す「場」を作りたい、って思ったんですね。

きくちゆみこさんZINE

きくちゆみこさんのZINE『内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)』

隠された言葉を映し出す鏡


きくち
 「言葉にしたいけど自分では言いたくないこと」ってあると思うんです。あの取材のときは、自分が痛みを感じてここにいる、つらい記憶をもってここにいる、そのことを一緒に寄り添って映し出してくれる、自分ではない誰かをたしかに必要としていました。たとえば子どもが泣いているときに、「痛かったんだね」、「つらかったね」と代わりに言ってくれるような存在というか。

中村 そうですね。きくちさんが最初におっしゃった「言葉にしないことを守りたい」という感覚、私にもすごくあって、人が弱い立場を訴えるときは怒らなきゃいけないのはよくわかるんですけれど、一方で、言葉にならない、人と共有できないグレーな部分を守らないと、戦うこともできない気がするんですね。母親を孤独にさせないとか、保育園をいっぱい作ろうとか、人と連帯できるような理念ではなく、もっと親密な、内に隠れた傷というのは言葉にもならないし、あえてしないことでその人が維持している部分があったりする。それで結局、どのインタビューでも、子どものことを聞いているつもりでいても、その人の一番の「弱さ」みたいなものの話になっていくんです。

本書を書くにあたって、金井淑子さんという研究者から多くを学ばせていただきましたけれど、彼女の書かれた「ヴァルネラビリティ」という概念は、日本では「脆弱性」、「傷つきやすさ」、また「傷つけやすさ=可傷性」とも訳されます。結局、脆弱でない存在などないし、生まれたときから死ぬまでそうなのに、現代では、「個」が立っていて、ひとりでまっとうできるという幻想がすごく大きいですよね。でもそうじゃなくて、「もともと人間は依存しあう存在なんだ」と規定して社会を構築したいというか……。傷つきやすさだけでなく「傷つけやすさ」もある、というのがすごく大事だと思う。その両義性はケアの本質にも通じる気がしているんです。一見ケアって、ケアするほうが与えて、ケアされるほうがやってもらう、という関係のように見えるんですが、実は深いケアに関わっていくとむしろ逆で、ケアする意味を与えられたり、逆にケアされている部分もある……という、すごく両義的なものだと思うんですよね。

きくち 佑子さんは「世界をヴェールで覆ってしまいたい」と書いていましたが、現代の生活の完璧に表現されすぎているところを「あわい」のようなもので包みたい、という感覚は、自分の中にもやっぱりあって。さっきおっしゃっていた「自分も傷つけられてしまうし、自分も傷つけてしまう」というのはすごくよく分かります。『マザリング』を読んでいると、何者をも取りこぼさないようにしようという意思をすごく感じるんです、ものすごく。それって難しいことだから、この本があることが私は奇跡だと思ってるんですけど(笑)。この本自体がまさに「脆弱性」を個々の内側に認めたうえで書かれたのではないかな、と思いました。

中村 私は普段ドキュメンタリーを作っているときも、自分が取材に行くということの暴力性を常に考えているんですね。カメラは常に視覚的で、視覚というのは一方的です。カメラを使うときは、できるだけ相手の手に触れるみたいに触覚的にカメラを使えないものかと思っているんです。寒そうならカーディガンをかけてあげたいし、息苦しければ窓を開けたいし……。この本の取材のときも、そのくらい「人」として話を聞きたいと思っていました。

後半はこちら↓


*この対談は2020年12月29日に古書店「百年」で行われた配信イベントを文章化したものです。

**「シアターコモンズ21」にて、中村佑子さんの最新AR映像作品「サスペンデッド」が公開中です。テーマは「病の親を持つ子ども」が感じる生の感覚。『マザリング』やこの対談とも響き合う内容です。ぜひご覧ください。
中村佑子「サスペンデッド」
展示期間:2021年2月12日~28日(リモート参加も可能)
https://theatercommons.tokyo/program/yuko_nakamura/

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中村佑子(なかむら・ゆうこ)
1977年東京都生まれ。映像作家。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。哲学書房にて編集者を経たのち、2005年よりテレビマンユニオンに参加。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』(2012年)、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(2015年)がある。主なテレビ演出作に、「幻の東京計画 ~首都にありえた3つの夢~」(NHK BSプレミアム、2014年)、「地球タクシー レイキャビク編」(NHK BS1、2018年)など。『マザリング 現代の母なる場所』が初の著書となる。
きくちゆみこ
大学卒業後渡米、カレッジで映画、大学院で英米文学を専攻。現在は翻訳業を営むかたわら、文筆活動や言葉を使った展示も行う。2010年から、”嘘つきたちのための”小さな文芸誌 『(unintended.) L I A R S』を発行。 その他の自主制作ZINEに、『愛を、まぬがれることはどうやらできないみたいだ』『内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)』などがある。
http://yumikokikuchi.com




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