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大学生活観察日記17 坂口さん本人とお会いする/経済史の授業へのまとまらないモヤモヤ

4/27(木)
お疲れ様でした。今日はもう21:22です。遅くなってしまいました。

今日は坂口恭平さんご本人とお会いできました。先日書いた、「坂口恭平日記 東京」という坂口さんの絵の展示に、今日坂口さんご本人が熊本からいらっしゃるとのことで、授業を一コマでないで行ってきました。

坂口さんはいい匂いでした。最初の感想が匂いってのもキモいですが、展示の部屋がいい匂いでした。話してみたさでキョドってしまって(これは僕あるあるです)、「あの〜握手してください」と唐突に話かけてしまいました。そういう時は話の枕とかが思いつかず、変に意識しちゃって自然な入りとかできなくなります。坂口さんは気楽にすぐさま応じてくれました。少しお話ししたら、タバコを吸いにサラッといなくなってしまいました。緊張して自分の話しかしなかったなと帰り道に思いました。本当は色々感謝したいことがあります。ただ、坂口さんが実践されている「新政府」の、「経世済民省」を僕は勝手に実践しようとしているということを伝えられました。「経世済民省」は僕の造語です。そうなんだ〜くらいの反応でした。なんかステキなリアクションを期待してた自分もはずかしいですが、坂口さんは実践の人です。僕が口で何を言ってても仕方ないので、これからも少しずつ「経世済民」を実践していきます。タバコが美味しそうだなと思いました。躁鬱の波をああやって乗りこなしているのかなという感じもしました。

握手の時に握った手が思いがけず繊細で、一瞬意外だったのですが、でも何も不思議なことじゃないという納得感もありました。


その後大学に戻り、文学部の「関係的自律論」というのをテーマにした授業を受けました。ほとんど単位にならないのですが、この授業をやられている早川正祐先生という先生が僕はかなり好きで、授業でいつも自分の中のいろんな側面を引き出してもらえるというか、そういう面白さがあって、受けています。授業後によく先生と雑談をするのですが、僕がリバランスワークなどを通してからだについて体験してきたことをベースに授業と関連する話をすると、ちゃんと話を聞いて、面白がってくれます。僕の未熟な傲慢な語り口にも丁寧に付き合ってくださって、本当にありがたいです。


今日は朝は相変わらず起きるのが大変でした。昨日は丸一日ぼーっとして、昼寝してって感じだったのですが、その分夜寝るのが遅くなって、朝は1限の授業に20分くらい遅刻して行ってしまいました。1限の先生は、ゼミの先生なので僕が遅刻して到着したとき少し顔が険しかったです。特に今回の授業は座学ではなく、以前も記事に書いた「百科全書」という300年前の史料に実際に触れながら、班ごとで与えられたテーマをもとにリサーチするという授業だったので、先生としては遅刻してほしくなかったのでしょう。そもそも僕は前回も起きられなくて欠席していますし。不真面目な学生です。文学部の授業や、文化人類学関連の本は面白くって授業が一瞬で終わったり、すぐに本を読み終えたりするのですが、経済学部の授業は、先生に意欲があっても、それほど関心が持てるわけでもないです。入る学部を間違えたかもしれないとも思うのですが、今の僕の関心が築かれたのは経済学部に入ったからだとも思うので、過去のことをどうこう言ってもあまり意味がありません。前の学期に他学部の単位をほぼマックスまで取ってしまったので、今期は経済学部の授業を主にとらなければいけないのですが、やっぱり他学部の授業を受けたいなと思います。そういう話を周りの人にしていたら、単位に追われるのもいいけど、せっかく大学にいるんだし面白いと思うのを取ったら?と言われました。正論です。

なので、他学部の気になる授業に顔を出してみようかと思いました。ただ、ネックなのが授業を取らずに休みにしている水曜日にその授業が開講されていることと、すでに四月末なのでそれなりに授業が進んでしまっていることです。

困ったものです。その授業の先生(実はこれもまた早川先生の授業です)にメールで今からでも、試しに顔を出すだけでも行ってみていいかと聞いてみようかと思います。どうせ単位にはならないから出席とか関係ないです。


2限の授業は経済史だったのですが、これまで寝不足の中受けてきた経済史の授業は地獄だったのですが、昨日一日よく休んで受けた授業はそれなりに面白かったです。自分の調子次第で、授業の質は反転します。でも、やっぱり気に食わないのは、授業後に先生に質問しに行っても、先生から芯のくった返答が得られないことです。以前も質問しに行ったのですが、納得のいく答えが得られませんでした。

今日は、農村市場経済が発達してくる17か18世紀のイギリスで(世紀とか大事なのにすぐ忘れます)、これまで農村で家族経営(家族で畑仕事したり)だった人たちが、経営規模を拡大するにつれて、「職住の分離」が起きてきたという話がされました。「職住の分離」とは、旦那さんが外で仕事をやって、奥さんが家のことをやるようになった。職(働くこと)と住(生活)が分離してきたということだと理解しました。

僕にとって、働くことは生きることで、生活することそのものです。ですが、世の中的には「生きるために働く」という言葉があるように、「生きる」ことと「働く」ことが別々のことで、「働く」ことが「稼ぐ」ことと同一視されているように思います。僕は、家庭菜園をやる中で、みみずやピーマンやなすがただ生きているし同時に働いていると思うようになり、働くことと生きることを別に考える労働観・人生観は、生き物として人間が生きていることを捉え違えていると思っていて、今回の授業で扱われた「職住の分離」がなぜ起きたのかはそういう観点からとても気になり、先生に質問しました。

先生は僕が前にもめんどくさい質問をしつこく尋ねていたのを覚えているのか、「家族経営が拡大したらどうなるか、想像してご覧」と僕に考えさせました。たしかに家族でやる仕事が増えたら、人を雇うこともあるだろうし会社っぽくなるから、家計と経営が分離するかもしれないと思うと同時に、分離する必然性もないように感じました。家族と雇った人でみんなでやればいい。うちのひいおじいちゃんは鋳物工場をやっていましたが、そういう感じで経営していた印象です。

その後先生が色々返答してくれたのですが、今なにを先生が言っていたのか思い出せません。とにかく、僕の「なぜ?」という質問に「そうだからそう」という返答がされていた感じがしました。ただ、最後の方に先生が、「家族の論理と経営の論理が分かれて行ったのかもしれないね」と言ったのにはなるほど?と思いました。ちょうど授業で習った、近代家族の性質と何か符号する感じがしたのです。ちょっとまだ説明できるほどわかってないので、読まれてる方にとっては???って感じかも知れません。すみません。

「なるほど?」と思ったとはいえ、やはりその返答も、「そうだからそう」という域を出ない気もします。家族の論理と経営の論理に分かれて行ったのはどうして?というのが気になるからです。

僕の問いだてがよくないのかもしれません。でも、やっぱりどうして生きることがそういう二分になっていくのか気になります。自分は今、二分された社会に属していますが、そのような社会はどういうことに起源があるのか、起源とまで言わずとも、どういう心の蠢きの中で生じてきたことなのか、とても気になります。その二分はどこか主体性を喪失する感じとも感覚が似ている気がするのです。先生に聞いても仕方ないのかもしれません。しかし、歴史学者が史実だけ追って、そうだからそうとか言ってても仕方ないだろうと思います。史実はそれを認識する人間によって構成されるわけだから、過去を振り返る営みの中で、自らの認識の枠組みが相対化されねば、過去を振り返るのもインテリの趣味になってしまいます。


いやまあ、先生も何か僕には理解できない大事な研究をされているのかもしれません。きっとされているのでしょう。あんまり人のことを悪く言うもんじゃないですね。心の蠢きなんか、多分歴史の資料を遡ってもなかなか客観的には語れないでしょうし。僕が自分でそこを探っていくほかないのかもしれません。そうなった時に、僕が見つけたことはどのようにして確からしさを獲得するのか。僕(主観)を超えて他者の立場(客観)でも腑に落ちることができるのか。そういうことも前学期から気になっています。


ふう。もう22時を過ぎてしまいました。22:11です。今日は夕飯が早かったので腹が減りました。めちゃねむでもあります。

今日坂口さんがタバコを旨そうに吸っていたので、僕も今晩は一服したくなりました。

そろそろ寝る準備をしようと思います。

また明日も1限です。大変だ。

それでは、おやすみなさい。

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