【俺の家の話01 店のある実家】

俺が20年間のサラリーマン生活に終止符をうって、実家に戻ってきたのは、42歳の時だった。早すぎるリタイア。遅すぎる独立。すべてが中途半端だった。

もし、この時、罪を犯していたら、新聞には確実に、(無職)と出ていただろう。30年以上の住宅ローンを抱え、これからお金のかかる高校生と中学生の2人の娘がいた。貯金はゼロだったのに、無謀にも職を失った。そうするしかなかった。

石橋を叩いても渡らない臆病な性格が災いして、20年間もしがないサラリーマンを続け、オヤジ譲りの血の気の多さがあだとなり、無計画な独立という名の無職だった。いい歳して、絶望のフチに立っていた。

会社を辞めたあとのことは、ノープランだった。自分が育った地域で、仕事がしたいと考え、物置になっていた実家のちいさな店のあとを活用することにしたが、なんの計算もなかった。なりゆきだった。

そもそも、東京の郊外住宅地で、オヤジとオフクロがつくった家の片隅にある店。いったいこの場所で、どんな商いをしようとしてたのか。考えてみると不思議だ。

西北の角地にある3坪ほどの開かれた土間。茶の間からガラス戸越しに、見える空間。家の中でありながら、外とつながっている場所。普通のサラリーマン家庭の家では、ありえない光景だ。

オヤジとオフクロにちゃんと話を聞いたことはねえけど、地方公務員だったオヤジが郊外住宅地に家を建てる時「どうせなら、家で商売しようぜ」なんて、普通、考えるだろうか。

オヤジは、群馬県の草津町出身で、軍人の厳しい父親に育てられた。なぜか母親が源泉閣という旅館もやっていた。

優秀で跡取りでカッコいい、のちに町長にまでなる長男と違い、やんちゃでお調子ものの次男のオヤジは、戦後に、東京に職を求めてでてきて、なんとか東京都の公務員に潜り込んだ。

オヤジの仕事は、築地市場の管理だった。その仕事が面白い仕事だったのか、やりたい仕事だっのか、よくわからねえけど、結局は、三人の出来の悪いコドモを大学まで行かせるためなのか、定年まで、働いてくれた。ありがてえ。

一方、オフクロは、埼玉県の児玉町の出身で、家は、町長にまでなった父親がはじめた造り酒屋で、大家族で育った。家は店でもあり、家の裏では、酒をつくっていて、いろんな人が出入りする家だった。

こんな2人が出会ったのは、草津のスキー場。オフクロが泊まった源泉閣で、夜マージャンをするのに、メンツが足りないので駆り出されたのがオヤジだったというしょうもない出会い方だった。

まあ、そんな2人だから、東京郊外の核家族の家というのが退屈に感じたんだろう。なんでもいいから家で、なにか店をやろうと、話がまとまり、無計画に無謀に、この店というスペースができたと想像できる。

俺は、自分がこんな特殊な家に育ったことに、なんの違和感も感じてなかったけど、こんな家に育ったことで、この家から大きな影響を受けていたんだと、ようやく気づいてきた。遅いけど。

地方公務員のオヤジと、郊外住宅地の家でちいさな店を営むオフクロ。この2人の独特の感性によって育てられた俺。

まさか、42歳にして、無職となり、実家に戻って、オフクロの店のあとを活用して、何かをはじめることになるなんて、まったく想像していなかったヤバイ人生だ。

世間的には、オフクロが営んでいた文具店のあとを継いで二代目になると言えば聞こえはいいかもしれねえけど、実態はまったく違っていた。

そもそも、駅から20分も離れた郊外住宅地のちいさな店で、42歳の男が、2人の娘を大学に行かせるだけ稼げる商売ができる見込みは、まったくなかった。

当然のように、俺はこの店をやりながら、他の仕事を探して、あちこちに出向いて、出稼ぎの根無草的な頼まれ仕事で、食い繋いでいくことになる。

それにしても、オヤジとオフクロは、俺が会社を辞めて、この場所を使いたいと言った時に、なんの反対もなかった。どうせ物置になってるし、自由にすればという感じだった。助かった。

思いつきでできた家にある店。どうやら、最初は、父親が働く築地市場から食料品を仕入れて、売ろうとしていたらしい。その後、いろいろあって、近くに中学校ができたことで、文具店になっていった。

オフクロが文具店にあきてからは、クリーニングの取り次ぎをしていたこともあるし、選挙事務所として、使われていたこともある。

郊外住宅地にある普通の家にある普通じゃない店という開かれた場所。この場所があったことで、いろんなつながりが生まれ、俺もなんとか生き延びることができている。

実家にもどり、はじめて店番をした時、ああ、やっと戻ってきた。という感じがした。まるで、20年間の刑務所ぐらしからシャバに戻ってきたような感じだった。(どんな感じか知らねえけど)

20年間のサラリーマン生活は、自分ではない別の自分だった。実家にもどって、ようやく自分の感覚を取り戻すことができた。少しずつリハビリのように、自分に戻っていった。

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