【俺の家の話04 核家族の家】

俺の家は、家族5人の家だった。オヤジ、オフクロ、そして、アネキ、俺、オトートの3人兄弟の典型的な核家族。

地方から職を求めて東京にやってきた田舎者が、東京の郊外住宅地に建てた核家族の家だ。オヤジは、群馬県草津町出身で、軍人だった父親の出兵先の会津で次男坊として生まれた。男4人女ひとりの5人兄弟。オフクロは、埼玉県児玉町の出で、造り酒屋で町長の家で生まれた。男2人女4人の6人兄弟。どちらも大家族だ。産めよ増やせよの富国強兵の時代だった。

俺がコドモの頃には、毎年正月には、オヤジとオフクロの実家に帰省して、親戚一同が集まった。コドモにとっては、お年玉の集金旅行だった。同世代の従兄弟もたくさんいて、どの世帯にも、2人から3人のコドモがいたから、30人近くの従兄弟がいることになる。

俺は、3人兄弟の真ん中で、ふたつ違いの姉と弟がいた。一言で言えば、気の強いアネキと、泣き虫でオタクなオトート。真ん中の俺は、いたっておとなしい恥ずかしがり屋だった。あまり手のかからないコドモだったのか、個性的な2人に挟まれ存在感がなく、オヤジからもオフクロからもあまり相手にされず、ずっと、橋の下で、拾われてきたのだと思っていた。切ないね。

コドモ心に、家族に馴染めず、もちろん親戚にも馴染めない俺は、人見知りで、ともだちも少なく、勉強もできなかったけど、身体を動かすことは、大好きだった。
通っていた幼稚園が家から歩くと30分くらいのところにあって、あんな距離をよく毎日歩いていたものだ。身体が丈夫で、辛抱強いのは、あれがあったからだと思ってる。

小中高は、たまたま隣に、校長先生が住んでいたという理由だけで、国立にある私立の学校に12年間、通うことになる。俺ができが悪かったのか、オトートは、入れてもらえなかった。すまん。

この校長先生が、マラソン校長と呼ばれていて、本まで書いたユニークな人で、小学校の時は、なぜか、朝から学校で、いっしょに走っていたりした。短距離は、それほど速くなかったけど、長距離は、クラスで1番速かったせいか、イジメられることもなく、小学校時代を無事にやり過ごした。

小学校2年生から、オヤジの後輩がやっていた道場で、剣道を習うことになり、毎週、自転車で通っていた。その流れで、中学は、剣道部を選んだ。高校からは、競技スキー部に入り、大学でもスキー中心の生活をおくることになる。デザインよりも、スキーの方が大事だった。ダメな学生だった。ごめん。

勉強が苦手で、趣味もなく、部活がすべての俺に比べ、アネキは、コドモの頃からマンガを描いていて、美大に行って、卒業後は、グラフィックデザイナーになった。俺が大学進学で美大を選んだのは、たぶんアネキの影響もあったのだと思う。だけど、ほんとは、勉強が嫌いで、スキーがしたいという不純な動機だった。 

オトートは、オタクで、高校は、なぜか野球部。大学は、水産学部で、デザインとは、まったく関係ない道に進んだ。オヤジは、気が強いアネキと、オタクのオトートを愛していて、定年後に書いたエッセイに、2人は、たびたび登場するのに、俺は、これっぽっちも出てこない忘れられた存在だ。ぐすん。

そんな感じだったから、俺は、オヤジのことを、ずっと好きになれなかった。死ぬまで、心を通わせるようなことはなかった。近くて、遠い存在だった。オフクロのことも、中学生くらいから、おばさんと呼ぶようになり、距離をとっていたけど、42歳で、つくし文具店を継いでからは、よく話すようになった。

親と子。そして、兄弟の関係は、難しい。家族って、なんだろうと考える。契約による夫婦と、そこで、たまたま生まれたコドモ。血がつながっていて、暮らしをともにする家族。親は、仕事をして、コドモは、遊び、学ぶ。お金のことは、親まかせ。親の考え方ひとつで家族のあり方が変わる閉鎖された家。

俺が育った家族は、大きな問題はなく、それなりの核家族だったんだろうと思う。むしろ、世間的には、幸せな家族だったのかも知れねえ。それでも、核家族って、なんだか危うい。家族だけの閉じた空間と時間。一歩間違えば、大変なことになりそうだ。

理想的な家族なんてねぇと思うけど、コドモが育つ環境として、どんな家族が良いのか考える。昔みたいな三世代の大家族とは違う、もっと多様な人がいる拡大家族は、できねぇのだろうか。

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