【俺の家の話06 人が出入りする家】

俺の家は、核家族にしては、家族以外の人が出入りする家だった。

家の片隅で商売をしてたから、当然そこには、毎日のように人が来た。でも、それだけじゃなかった。なんと、一時期、下宿をしていた。普通の一軒家なのに。2階の6畳ふた部屋に、大学生が下宿していたのだ。マジで?

記憶では、一橋の男子学生が2人の時と、津田塾の女子学生が2人の時があった。俺が何歳だったかは覚えてねえけど、小学校にあがる前だった。

よほど住宅ローンの返済が苦しかったのか、それとも、地方から貧乏学生の住宅不足だったのかは、知らねえけど、そもそも、どうやって、この学生たちが俺の家に住むことになったのか、謎だ。

オヤジが自ずから、一橋や津田塾に出向いたのか、下宿を斡旋する不動産仲介業者の売り込みがあったのか、今となってはわからない。

それにしても、オフクロは、3人の子育てと、お店もやりながら、さらに、下宿の2人のまかない食まで、つくっていたことになる。どうやってたの?
桐生から出てきた一橋の学生は、実家がニット会社で、テニス部で、その後、大手の商事会社に勤め、今でも、年賀状のやりとりがある。

下宿以外でも、親戚の学生が住んでいたこともあるし、草津のおばあちゃんを、冬の間だけ住んでもらっていたこともある。最近聞いた話では、田舎の貧乏な家の中学生が住み込みで子守として働いていたこともあるらしん。おしんみたいだ。

オヤジの仕事場の同僚や後輩が、やたらと、遊びに来て、飲み食いしていった記憶や、従兄弟たちが良く遊びに来ていた思い出が残ってる。

どれも、俺が成人するまでのことだから、1961年から1980年くらいまでのこと。地方から東京に家を建てた核家族のあたりまえの風景だったのだろうか。それとも、俺の家が特殊だったのか。

小さなコドモがいる家は、近所のともだちが、お互いの家を行ったり来たりしていた。今日は、誰々ちゃんの家に行こうと、急に話がまとまったりした。

もちろん、行きにくい家もあったし、おかあさんがやたらと優しいとか、おやつを出してくれるとか、コワイとかいろいろあったけど、価値観の幅や経済的な格差は、そんなに、なかったような気がする。

ほとんどの家が専業主婦で、共働きの家のコドモは、鍵っ子なんて、呼ばれてたっけ。今では、昼間に、こども以外の人がいる核家族の家の方が少なそう。時代は、大きく変わった。

時代が変わる中で、核家族の家は、なぜか、どんどん閉じる方に向かった。近所の付き合いも減り、家の中の様子がわからない家が増えた。

そんなに治安が悪くなったわけではないのに、防犯意識だけが、どんどん高まり、四六時中、家に鍵をかけるようになり、塀を築き、バリアをはっていく。閉じた家になっていく。

家は、核家族だけの団欒の場。そのうち、家族も家の中で分裂して、個室にこもるようになり、食事の時間もズレてきて、家族が分裂していく。単なる同居人になっていく。

密室での家庭内暴力が問題になり、不登校があたりまえになり、引きこもりが社会現象となり長期化して、家がブラックボックス化していく。あ、ブラックハウスなのか。

なんとも、ネガティブな話になってしまった。一方で、というか、同時並行的に、家の機能は、外部化され、商業化され、サービス化され、消費は、家族単位から個人単位となり、核家族は、分断されていく。

ああ、家族以外の人が出入りするような開かれた家は、どこに行ったのだろうか。

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