【俺の家の話07 農地にできた家】

俺の家は、農地が宅地化されて、できた家だ。

歴史のことは、よくわからねえけど、江戸時代の8代将軍徳川吉宗の時代の経済政策としての新田開発で開拓された土地だったらしい。

1772年に日本橋に立て札がでて、新田開発の希望者には、土地を払い下げるということになった。武蔵野あたりもその対象地だった。

その昔の農民のモチベーションは、想像できねえが、国分寺あたりには、今のあきる野市やら東大和市、国立市あたりから人が来て、土地を開拓したという。

今でも、本多さんとか、内藤さんとか、中村さんとか、森田さんとか、栗原さんとか、その昔に、この地を開拓した子孫がたくさん住んでいる。
新田開発といっても、畑がほとんどで、1653年に完成した江戸市中に水を供給した玉川上水の分水を利用していた。

俺の家の土地は、中藤新田で、近くには、平兵衞新田やら、内藤新田、戸倉新田などがあった。

1889年に、もともとあった国分寺村と、恋ヶ窪村、そして、いくつかの新田が統合してできたのが、大きな国分寺村で、同じ年に、中央線の国分寺駅が開業している。

大正時代には、都心の別荘地として、開発された時期もある。1923年の関東大震災以降、都心から離れたところに土地を求める動きが加速する。
堤康次郎の箱根土地による国立駅南側の学園都市開発は、有名だけど、それ以外にも小さな宅地開発が増えていく。

そして、1940年に、国分寺町、1964年に、国分寺市となる。1940年の人口が約1万人、1960年で約4万人。その後、すげえ勢いで、人口が増えて、1970年には、約8万人。2020年の現在は、約12万人。80年で10倍以上になっている。

戦後に、地方から東京に職を、求めて集まってきたサラリーマンマンたちが、江戸時代に開拓した農民の土地を、どんどん宅地化していったことになる。

不思議なのは、東京都の都市計画的には、国分寺あたりは、グリーンベルト地帯として、無秩序な都市化を防ごうという動きもあったのに、国分寺としては、発展を望み都市化を推進したこと。

都市というよりも、都心から遠い郊外住宅地のベットタウンとして、無秩序に、農地を宅地化していった歴史。ほんとに、こんなこと、望んでいたんですかね。

なんだか書いてて、ムカついてきた。計画性のないまちづくり。経済発展優先のまちづくり。寝に帰る人が、やたらと増えていったまち。俺の家も、その流れに乗っただけのアホだった。

いやあ。これから先、このいい加減なまちづくりが、どうにかなるんですかね。拡大した東京。通勤地獄の東京。人口減少の東京。翻弄される郊外住宅地。

郊外住宅地には、危機感がない。特に困ってないというけど、俺にとっては、危機感でしかない。都心に依存した郊外住宅地に未来はあるのか。

自分が育った場所なのに、この違和感は、なんなんだろう。こんな場所に住むのは、今すぐあきらめて、もっと暮らしやすい場所に、引越した方がいいのではと、俺の中の誰かが叫び続けてる。

ああ。こんな住宅地に、戻って来なければ良かった。もっと、都心に近いところか、あるいは、もっと山に近いところか、海に近いところか。はたまた地方か。あるいは、海外か。

俺が17年前に、戻ってきてしまったまち。この60年で、人口が10倍になって、そのぶん農地や雑木林や空き地がなくなって、住宅ばかりになったつまらないところ。

働くところも、商店も、申し訳程度にしかない、都市なんて恥ずかしくて言えないまち。うわあ。どうしたら、いいんだろう。希望は、どこにあるのだろう。

いまでも国分寺市の10%くらいは、農地。数年前から「こくベジ」という地産地消の取り組みもはじまった。さかのぼれば、1990年くらいから、「農のある暮らし」を目指して、戦後に移り住んだ人たちによる活動もあった。いや、続いていると思いたい。

江戸時代に開拓して移り住んできた農家と、戦後に移り住んできたサラリーマン。まるで、西部劇のような状況。開拓した先住民と、あとから来た移民の闘いを、乗り越えた先にある未来。

最近、東京の都市農業の担い手には、そのまま家業を継ぐのではなく、一度、サラリーマンを経験してから農家になる人が多い。そうした人たちの活躍もあり、都市農業が面白くなっているのを感じている。

サラリーマンから見たら、農業はすべて同じように見えてしまうかもしれないけど、東京の農家は、したたかに、その時代、その担い手によって、生産するものを変えて、生き残ってきた。

野菜は、多品種少量で、江戸野菜から西洋野菜まで。果樹や植木、鉢物、花。養蜂、今は少なくなったけど、畜産もある。ビニールハウスや耕作機械の活用。直売所や収穫体験、6次産業化、ブランド化など、独自の試行錯誤を重ねている。

農地の多面的な機能を活かした取り組みとしては、市民農園、農業公園や、学校給食、農業体験、福祉との連携、防災の役割などもある。

しょうもない郊外住宅地の唯一の希望があるとしたら、それは、農地なのではないのか。農地を宅地化して引越してきた移民の東京2世や3世が言うのも変な話だけど、ようやくそのことに気づいた。もう、遅いかもしれないけど。

なんとかならないかなあ。なんとかしたいなあ。そう考えてるだけだと何も変わらねえ。

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