【俺の家の話08 コドモが育つ家】

俺の家は、アネキ、俺、オトート、3人のコドモが育った家だった。

住まいづくりの情報センターで働いていた俺は、核家族で家をつくろうとする人たちは、たいてい小さなコドモがいることを目の当たりにした。もちろん、コドモがいない夫婦や、一人暮らしだって、家を建てるかもしれないけど、タイミング的には、コドモが小学校にあがる前後が家の建て時になりそう。

俺の家は、アネキが2歳の時に建てた家で、オヤジは32歳だった。家が建つ時に俺が生まれ、その2年後に、オトートが産まれた。そして、衝撃の事実を、つい先日、オフクロから聞いた。4人目をオロシタという。オヤに反対されて。エ?ゲ!ナント。俺は、4人兄弟だったのかも。

俺が4歳の頃、確かに不自然な感じで、突然、オヤジとアネキと俺とオトートの4人が、オフクロを残して、オヤジの実家の草津温泉に、旅行に行ったことがあった。それは、思い出として、写真も残っていて、草津の白根山に登った家族4人で写ってる。今思えば、オヤジは、なんだか変だったかも。

アネキが生まる前に、流産したコドモがいたことは、小さい頃から聞かされていたけど、まさか、それとは別に、4人目ができていたなんて。オヤジもオフクロも、最近まで、その話をコドモにすることは、なかった。なんとなく、気まずかったのかも知れねえ。

最近、オフクロが何かの拍子に、ポロッと、そのことを思い出して、口にしたからわかったけど、知らないまま、死んでいたかもな。こんな感じだと、他にも、何か秘密があるかも。実は、俺だけ、父親が違うとか。そうだとしても、そんなこと、言えねえよな。

まあ、その話は、おいといて、コドモも3人が育った家の話だ。俺のうちは、基本は畳の家だったから、押し入れから布団を出して寝ていた。3人のコドモが小さい時は、同じ部屋に、5人で寝てたと思う。それが、小学校に上がるぐらいで、コドモ3人だけの部屋になる。

アネキが小学校高学年になる頃には、アネキが一部屋、俺と弟が同じ部屋。その後、しばらくしてから、3人別々の部屋になった。2段ベットもあって、3人でかわりばんこに使っていた。小さなコドモにとっては、かっこうの遊び場だったよな。遊び場と言えば、押入れも隠れんぼや秘密基地みたいな場所で、一時期は、押入れに寝ていた時期もある。

2階に、六畳の和室が二つ。1階に、八畳の洋間があって、1階の洋間は、客間だったところで、応接セットと、百科事典と美術全集なんかとある立派風な本棚もあった。もちろん、そんなに客もこないから、誰も使わない物置のような部屋だった。一時期は、草津のおばあちゃんが冬の間に泊まりにくることになって、板の間の半分くらいを畳にした。

高校生くらいまでは、アネキがその部屋を使っていて、俺は、2階の部屋だったけど、なぜか、部屋を取り替える話がまとまり、大学生の時から28歳で結婚するまで、1階の部屋が俺の部屋だった。

今はないその部屋で、俺は20代を過ごした。青春の思い出だ。なぜか、パンを運ぶ古いケースをもらってきて、それを並べてベッド代わりにしていた。
美大に行くようになった俺は、それまでの几帳面な性格が急に変わって、部屋は、散らかり放題で、脚の踏み場のないような状態だった。

アイドルのポスターが壁や天井まで貼られ、エロ本や漫画が乱雑に置かれる独身男性らしい埃っぽい薄暗い蛍光灯の部屋だった。モテねえ俺は、その部屋に彼女を連れ込むこともなく、美大の課題をベッドの上で、深夜ラジオを聴きながらこなし、押入れに現像機を持ち込み写真を焼いていた。ああ、青春。

独立心の強いアネキは、大学卒業後に、家をでて、ひとり暮らしをはじめたのに、臆病な俺は、大学を卒業して会社員になってからもこの家に居続けた。会社は、新宿だったし、仕事は忙しかったし、よく飲み歩いていたから、ほんとに深夜に、寝に帰るだけの家で、まかない付きの下宿みたいな感じだった。

なんとか28歳で結婚して、同じ国分寺市内にアパートを借りて、ようやく育った家をでていく。育ててくれた親と家に、感謝しかねえ。今年60歳になる俺の人生の約半分を過ごした家。この家で育ったことが、俺にどんな影響をあたえたのだろう。

自分が育った家は、コドモにとってはあたりまえすぎて、離れてみてはじめて、その家のことがわかってくる。どんな家で育つことがコドモにとって幸せなのかは、よくわからねえし、当然、コドモが家を選ぶこともできなえ。

親が自分たちのコドモを育てるために、家を建てる。家を選ぶ。それは、悩ましくもあり、楽しくもあり、大事なのことなんだと思う。親にとっても、コドモにとっても。

俺の家が、コドモが育つのに良い家だったのかわからねえけど、アネキ、俺、オトートの出来の悪い兄弟3人がなんとか育った家だった。

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