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モヤモヤ:「不要不急」とは / コロナウィルスの敵対視、やめない?

こんにちは、最近なんか新型コロナウィルスですごいみんな騒いでますね。「不要不急の外出は避けましょう」っていう旨の要請が埼玉とか千葉とかなんかそこらへんで出されているらしいです。
また、いろいろなイベントや催し物がキャンセルされ、コロナウィルスに憤っている人たちをよく見かけます。

僕はこれら一連の社会の流れ?的なものに、ものすごいモヤモヤしています。

もちろん、感染したら命に関わるような人も大勢いるでしょうから感染の予防に努めることは大事だと思いますし、新型コロナウィルスの騒動によっていろいろ今までにない社会の動きが出てきているので、コロナウィルスを責めたくなる気持ちもわからなくもありません。

しかし、どうしてもモヤモヤがおさまらず、どうしても誰かに言いたくなってしまったので、ここに書くことにしました。駄文ですがお許しください。

「不要不急」について

いろいろなところで、「不要不急」とされることをやめましょう、みたいな動きが出ています。
しかし僕は「不要不急」とされることを安易にやめることに大きな反発感を覚えます。

果たして「必要のない物事」をそんな簡単に消し去ってしまっていいのか、ということです。一見「必要のない物事」こそ、必要なのではないかと思うのです。

この世には多くの必要のない存在があります。友達と遊びに行くのは当然「必要のない」行為だし、本を読むことだって「必要のない」ことだし、学校なんて行かなくても死なないから「必要ない」です。僕らの生活のほとんどは必要のない存在で出来上がっていると思います。さらにいえば、「お前はこの世に必要な存在なのか?」と問われた時に、「必要だ。」と断言できる人はどれだけいるでしょうか。別にお前は生きている「必要もな」ければ、存在している「必要もない」。(だから「学校なんて行かなくても死なないから、学校は必要ない」って言ったけど、別に学校に行かないと死んじゃうとしても、学校は「必要ない」)

では「必要がない」からといって、全て安易に「キャンセル」して消し去ってしまって良いのでしょうか。僕は良くないと思います。

僕やこの記事の読み手のあなたはこの世に「必要のない」存在ですが、それでも、ただ存在していていい、生きていていいのだと思います。同様に、「必要のない」どんなイベントも催し物も、この世のあらゆる「必要のない」存在も、どんなに「必要がな」かろうが、存在していいのだと思います。

むしろ、「必要のない」物事は、むしろ「必要ない」がゆえに人間の心のそこから必要とされるのではないかと思います。「必要のない」物事にこそ、「必要のない」存在である人間は、自身の存在の拠り所を見いだせるのではないかと思います。

もちろん「コロナウィルスに感染したら命に関わるような体だし、まだ死にたくない」って人や、死にはしないがなにがなんでもコロナウィルスにかかりたくない人などは、コロナウィルスにかからないような施策をとったらいいと思います。そしてその施策のうちの1つが不要不急の外出を避けることであるかもしれません。それはそれで全く良いと思います。

しかし、「不要不急」であろうとなんであろうと存在していいはずの物事が安易に消し去られてしまうこと、「不要不急」の存在である我々が拠り所としている「不要不急」の物事を、安易に消し去ってしまうことにとてもモヤモヤしてしまいます。
そしてまた、もしある物事があなたの存在の拠り所となっていなかったとしても、別の誰かにとっては自身の存在を維持するのに決して欠かせない、すなわち必要緊急なものなのかもしれません。自身の存在を賭しているので、もしかしたらコロナウィルスの感染を防止することよりも圧倒的に必要緊急かもしれません。

なにも考えずにただ安易に「不要不急」をキャンセルしてしまうような行為にはとてつもない反発を覚えてしまうのです。

コロナウィルスの敵対視について

新型コロナウィルスに限らないかもしれませんが、新型コロナウィルスを排除しようとする動きに嫌な感じを覚えます。
また新型コロナウィルスが蔓延するにつれて、いろいろなイベントがキャンセルされることで、コロナウィルスへ怒りをぶつける人を散見します。僕はこれにもモヤモヤしたものを感じます。

今まで、人々が「自然と共生」とか「多様性」とか言っていたのはなんだったのか、と思ってしまいます。まあそれらのワードはとっくのとうに空虚な言葉になっていましたが。

コロナウィルスも1つの自然ですし(一部には人工ウィルスであるという噂も流れていますが、人工物であったとしても、つくった人々を全てひっくるめて1つの自然だと思います)、人類は自然の何かを排除することでそのしっぺ返しを食らう経験をたくさんしてきたのではないでしょうか。

また、その排除の歴史を反省することで、善悪や優劣の解釈を行うことをせずに、おのおのがあるがままで良いという考え方、すなわち多様性という考え方が出てきたのではないでしょうか。

コロナウィルスを人類にとっての悪とみなし、それらを排除しようとする動きには違和感を覚えてしまいます。

では排除しないでどうコロナウィルスと向き合うのか、と問われた時に、僕は答えることができないのでとても卑怯なのですが、
しかし、僕らが人間関係において苦手な人間となんとかうまくやっていくように、ウィルスともうまいこと共生していくことはできるような気がします。苦手な人間となんとかうまくやっているうちに誰よりも仲良くなってしまうことがあるように、ウィルスとも仲良くなれるかもしれません。

なに言ってんだこいつは、と思われるかもしれませんが、苦手な人間と仲良くなる前には、一体どのように仲良くしたらいいのかなんて見えないものだと思います。


以上僕のモヤモヤでした。書いてたらちょっとすっきりしました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

追記:この記事がどうやら誤解を招きうるものだということがわかったので、誤解をできるだけ少なく留められるよう、書き足します。言いたかったこと:
各人が「不要不急」なことを控えたり、はたまたお出かけしまくったりするのは各人が自分で色々考えてやったことなら別になんでもいいんですが、
問題なのは、なにも考えずお上の言うことを鵜呑みにして「はい不要不急は控えます」と言うようなことになってしまうと、不要不急の存在をないがしろにすることで失われた存在に気づかないままになってしまうよね、それって人/場合によってはコロナウィルスに感染することよりもよっぽど辛いことなんじゃないの、ってことを言いたかったのです。
また、「仲良くなれるかもしれません」というのは、科学的に今は不可能かもしれないし、仲良くなることをイメージすらできないかもしれないけれども、しかし科学/イメージを超えたところで仲良くするチャンスはあるかもしれないと言うことを言いたかったのです。

次なんか面白いことやるように使おうと思います。 もらえたらめちゃくちゃ喜びます。 サポートの際、これやってほしい!みたいなのがあれば反映されるかもです。