見出し画像

選手を引退しスタッフへ転向した理由

こんにちは。山野修治です。
この記事にアクセスしていただきありがとうございます!

今回は5歳からずっとラグビーを続けてきた僕が選手引退を決意しスタッフという道を選択した経緯についてお話ししたいと思います。

前回、第一回として『2021年新たなチャレンジ』という記事を書かせていただきました。
想像していたよりも多くの皆さまからスキやコメント、サポートをいただけてすごく嬉しいという気持ちと同時に、文章の読み書きが得意ではない僕の文章がこんなにも多くの人に伝わるんだという新たな発見をすることができました。
この場を借りて前回のnoteをお読みいただいた皆さまに改めて感謝したいと思います。

初めましての方々もいらっしゃるかと思いますので、簡単にプロフィールをご紹介させていただきます。

・東京都新宿区出身、府中市在住
・96年生まれの24歳
・東芝ブレイブルーパス 広報ファン担当

早稲田大学ラグビー蹴球部のグラウンドから始まる

幼稚園年長の秋からラグビーをはじめ楕円球のボールが当たり前の環境で育ちました。
東京都杉並区にある早稲田大学ラグビー蹴球部のグラウンドで毎週日曜日に活動する特定非営利活動法人WASEDA CLUB(通称:ワセダクラブ)。毎日新聞に書かれた『早稲田大学が地域スポーツ活動を新たに開始する』というスクール生募集の記事を見てラグビースクールに通わせようとなった両親の影響で上井草のグラウンドへ通いはじめたことがラグビーとの出会いでした。

当時のことはあまり覚えていませんが、学校の同級生にラグビーを知っている友だちがごく僅かしかいないことに気づき疑問に感じていたことを今でも覚えています。友だちにラグビーをやってることを話すと「ラグビーって痛そう😮」と言われ特別な興味を持たれることもなく、自由時間は鬼ごっこやサッカーをして楽しむことが日常だったからです。

正直、僕自身もラグビーに対して真剣に向き合い始めたのは中学3年生になってから。それまでラグビーは痛くて怖く体力的にきついスポーツで、どうして続けないといけないんだろうとばかり思っていました。
そう思いながらも続けてこれたのは、練習後にチームメイトと何気ない会話をしたり自分自身を限界まで追い込む時間がとても楽しく充実していたからです。何よりも普段の生活で大きな声で仲間に指示を出したり全力で相手とぶつかり合うことはないので、そんな非日常を体験できる唯一の時間が好きだったからだと思います。

早稲田大学の系属校に小学校から通っていた僕は、受験勉強というものを一切考えることなく本当に恵まれた環境のなか学生生活を送りました。生活の中心には常にラグビーというスポーツがあり、中高でもラグビー部に所属し放課後よる18時まで練習をする毎日を過ごしました。

小さい頃から上井草グラウンドでラグビーをしていたこともあり、身近な存在だった早稲田大学ラグビー蹴球部(以下「ワセダ」)に自然と憧れを抱くようになり、アカクロのジャージを着て日本一のタイトルを獲りたい(「荒ぶる」を歌いたい)という想いから、大学進学と同時にラグビー部の入部試験を受けることになります。

15年間大好きなラグビーを続けてきましたが、一方で怪我することが多く、大学でもたくさんの怪我に悩まされました。鎖骨骨折3回、重度の脳震盪4回、肉離れ、鼻骨粉砕骨折など…💦
はじめての脳震盪では、2~3日分の記憶が無くなる、意識がない状態で1時間以上学校の食堂を徘徊する、自分がどこで何をしているか理解できず泣き喚く…というようなことも経験してきました。怪我するたびに両親に心配をかけてしまい、ラグビーを辞めるという決断に迫られることも何度かありました。

スタッフ転向を決意

大きな怪我を繰り返しながらも好きなラグビーを続けてきた僕に『スタッフ』という選択肢が現れたのが大学2年生はじめに行われた山下大悟さんとの個人面談でした。突然「主務や副務のサポート、練習道具などの管理を任せられるスタッフが必要で修治にやってほしい」と提案され衝撃を受けたのを今でも覚えています。2~3日考える時間をもらいましたが、ワセダでラグビーをしたいという思いが強かったため何の迷いもなく「選手を続けたい」と返事をして選手を続けます。

1年後。ウエイトトレーニングを終え上井草グラウンドの敷地から出ようとしたとき、山下大悟さんに呼び止められ1年前と同じく「学生スタッフにならないか」とお話を受けました。

一度選手を続けると決めプロップ(PR)として少しずつ自信をつけ手応えを感じていた時期もありました。しかし、大学2年の9月に鼻骨を粉砕骨折し2時間以上にも及ぶ全身麻酔の手術を受けたことがきっかけで、タックルやスクラムを組むときに「また鼻骨が粉々になったらどうしよう」という不安が優ってしまい全力でラグビーを楽しむことができなくなっていた頃。
怪我を完治させ復帰に向けてトレーニングをしていたときに受けた選手引退/スタッフ転向という提案だったので、何となく覚悟しながら大悟さんの話を聞いていました。

ワセダに入部した当初、4年生の先輩から「チームのために自分に何ができるか考えて4年間過ごせよ」とアドバイスをいただいたことがずっと記憶に残っていました。このチームのために自分にできることは何か、自分にしかできないことは何かということを真剣に考えたときに、僕自身がこのまま選手を続けるよりも必要とされている立場・役職があるということに気づかされ、15年間ずっと続けてきたラグビー選手を辞めるという決断をしました。

最後に

あのとき選手を辞めスタッフの道を選んだことは後悔していません。
むしろ、いまこうして東芝ブレイブルーパスという素晴らしいチームにマネージャーとして加入させていただき、広報ファン担当としてファンの皆さまやたくさんの人に出会える環境にいられることができて本当に恵まれているなと日々感じています。

思っていたより長文になり最後は駆け足となりましたが、以下のようなことも今後具体的に書いていけたらなと思います。

・選手を辞めたときの感情
・スタッフとしてワセダで過ごした2年間

WASEDA RUGBY FAN SITEを運営している鳥越さんという方が、僕が引退したタイミングで一つの記事を書いてくださいました。当時のことを思い出すことができるお気に入りの記事なのでよろしければ読んでみてください!

最後までお読みいただきありがとうございました😊
次回のnote更新も楽しみにしていただけたら嬉しいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?