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『もしドラ』と『1Q84』 (ドラッカーと村上春樹)(2011年2月)

先日(2021年10月29日)、突然でございましたが、このnoteのタイトルを「文化マーケティングコンサルタント 井上秀二」に変更いたしました。
2020年9月スタートときに打ち出したコンセプト、「マーケティング関連書籍のご紹介とお薦め」だけではつまらないな、、と思ったからです。
そして、まず「文化マーケティング資料」4本の記事を有料(各年別の個表販売)でアップいたしました。
従来の「マーケティング関連書籍のご紹介とお薦め」(一読良談)もほぼ2週間に1回タームで続けてはまいる所存ですが(無料)、その間の週(基本的に金曜日)には、現在、放置状態の私のBlogにアップした過去の記事を再編集、こちらのnoteに再掲載いたします。

今回は、2011年の2月に書いた雑文です。
*こちらのnoteに転載したBlog記事は削除して、最終的にBlog消滅を目指します。

1.ある夏の日の思いつき

2011年になったと思ったらもう2月。
昨夏の猛暑と好対照に、暴力的な寒さが続いております。
2月は僕の誕生月ですが、よくぞこんな寒い季節に、この世に生を賜ったもんだと、訳のわからんことを考える今日この頃です。

ところで、昨夏のある暑い夜、以前の記事でご紹介しましたマーケティング・コンサルタントの安原智樹さんを中心とした「YMW」のメンバー数人と、中目黒の某所にてビールで暑気払いをしました。

美味しいパスタやピザに舌鼓を打ちながら、色んなビールをチャンポンで飲んだためか、僕は得意の「思いつき」を口走ってしまったのです。

「『もしドラ』と『1Q84』の関連から、“時代”を捉えてみるつーの、面白かないですか!?」

調子に乗った僕は、E★YAZAWA風に、

「あのね、井上はね、カルチャーとマーケティングのね、専門家なのよ、You know ? わかる? だからね、そのくらいの仮説はさ、ポーンとさ、出てこないとね、Fuck'n~なわけよ」

と偉そうにのたまわったわけです。(ウソです・・・)

ま、仕事じゃないんでエンドとか決めないで、『もしドラ』と『1Q84』というテーマについて仮説を考えることを自分の「課題」として頭の片隅に入れておいたわけなんで。

2.『もしドラ』作者 岩崎夏海氏の講演

もしドラ

先日、某所で『もしドラ』著者 岩崎夏海氏の講演を聴く機会がありました。
パワポを使わず、滔々と語り続け、90分オンタイムで終えられた岩崎氏の語りは、真摯なお人柄そのものという感じで心に染みてきました。
政治史や思想、哲学に興味がなく、ビジネスだけしか頭にないような皆様は居眠りしてましたけど。

「なぜ今ドラッカーが求められるのか」
というタイトルでしたが、内容はほぼドラッカーの遍歴とそこから導き出された問題意識でした。
1929年の「世界恐慌」による経済学への疑問。
ヒトラー率いるナチスドイツの台頭。
ナチスの台頭の話はとても興味深かったですね。
なぜ、ナチスの支持率がマックスで97%となったのか?
故人となられたドラッカー夫人(90歳)は、岩崎氏に対し今でもナチスとそれを生んだドイツへの不信感を語られたそうです。
「あのナチスを生んだドイツへは帰りたくない」と。

岩崎氏によるドラッカーの問題意識と仮説を簡単にまとめてみました。

1.たかだか100年程前に、人類史上初めて誕生した「知識社会」
2.「知識社会」の拡大は、常に既得権益者との争いを生む
3.20世紀に誕生したの米国の経営層は「新知識層」
  ⇒ 権限の正当性のための「3つの使命」
    (1) 企業に固有の使命を果たす
    (2) 企業に所属する人を活かす
    (3) 社会への還元(社会に活かされている企業)

で、第二次大戦後、1950年代になると、米国の「新知識層」つまり経営者達が「既得権益者」となって社会にとって有害な存在となり始めた。
これって、人間が人間である限りの限界じゃないかと僕は考えてます。
大体、歴史に残る独裁者のほとんどは、当初は理想に燃えた若者達だったりしますよね。

ところがドラッカーは諦めなかった。
1950年代のドラッカーは、NPOの活動家達に期待し始めました。
非営利組織のマネジメントの必要性です。
ちなみに岩崎氏は、『もしドラ』は高校の野球部という非営利組織のマネジメントについて書かれましたが、それも必然性があったわけですね。あらためて僕も納得できました。
(しかも、ビジネス書として売れましたが、コアターゲットはあくまでも学生さんです。「表紙が悪い」という僕も含めたビジネス・パーソンからの苦情には、「だってお前達のための本じゃないんだよ、本来は」という反論が成立するということでしょう)

新たに台頭した「新知識層」と「既得権益者」の対立を避けること

これがドラッカーの問題意識だったということです。

3.我が国における「知識社会」の成立と成熟

岩崎氏は冷静に日本の“失われた20年”を総括する仮説を述べられました。
日本では1990年代に新しい「知識社会」が成立した。
ところが、政権交代(自民党の野党化)の後も、旧勢力(特に官僚)に頼ってしまったがために、低迷を余儀なくされることとなった・・・。

なぜ、『もしドラ』がヒットしたのか?
作者の岩崎氏は、以下のようにご自身の仮説を述べられました。

【経済】2008年のリーマンショック ⇒ 大企業の経営層に国民は失望した。
【政治】2009年の政権交代後、民主党は自民党よりも頼りにならないことが露呈した。

政治でも経済でも国や上層部は頼りにならない。
そこで私達一人ひとりが「マネージャー」である必要性が感じられてきた。

割と説得力があると僕は思います。
ほかにも「正義」「哲学」をキーワードにした書籍が売れてますもんね、ニーチェまで(笑)。

日本がこれからどうなっていくのか?
岩崎氏は、「知識社会」での矛盾の解決において、少なくとも日本は米国よりもアドバンテージがあるのではないか?と言います。
米国では、「オバマでもダメだった、だからまた共和党」というのが主潮流のようです。
日本で“一人マネージャー”意識が強まっていくと仮定するならば、アドバンテージはあるのではないかと僕も考えます。

「やっぱ民主党はダメだったよね、次はまた自民党だよ」 と言ってるようじゃ進歩ねーよな、つーことなんですね(笑)。

4.革命運動でドーパミン大放出!

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岩崎氏によると「知識社会」とは、18~19世紀、欧州の産業革命に端を発したとのことです。

産業革命前の識字率は3%程度だったそうです。
つまり97%の人達は生まれてから死ぬまで自分の名前を書いたり読んだりすることがなかったということになります。
その識字率が急速にアップしていったことが「知識社会」の誕生でもあるんですね。
ちなみに、産業革命から資本主義が成立する前、「失業」という現象はなかったそうです。
これ、結構大事なポイントです。

中学や高校で「フランス革命」(1789年)とか習ったと思いますが、いわゆる「ブルジョア革命」「市民革命」が起きました。
王侯・貴族に対して、新たに誕生した「知識」のあるブルジョアジーによる革命ですね。
以降は、岩崎氏の講演内容ではなく、僕の論を述べてきます。

革命ってのは、人間にとって一種の“お祭り”のようなものでかなり過剰に盛り上がり過ぎる、というのは僕の持論なんですが、フランス革命も悲惨でしたよね。
ブルジョアジーが権力を奪取した後の権力闘争(「内ゲバ」)とか。
ジャコバン党でしたよね、酷かったのは。
僕が自信を持って言えることは、「革命運動」というのは、人間心理の弱点をうま~く突いた、強烈に気持ちのいい「麻薬」のようなもんなんです。

“敵”を想定する。しかも“敵”は自分たちよりも富も権力もある奴ら。
そういう“敵”を吊るしあげる快感。
自分達には「正義」がある(勝手に想定してるだけだけど・・・)。
そのカッコつきながらも「正義」「正統性」を担保されるわけですから、こりゃ気持ちいいですよ。
もちろん僕は、かなり危険なことを言ってます。
でも、特殊な事態で現出するとはいえ、こういう“甘い罠”に付け入られるのも人間の弱さであり負の側面です。
「革命」の話ではありませんが、尖閣列島問題を巡る「ナショナリズム」のプチ盛り上がりだって、“敵”を想定して糾弾する「快感」なんです。
中国でも日本でも、ごく一部の人達は見事にマスコミに煽られましたよね、戦前のように。

あと、現在続いているエジプトの反ムバラク運動ですが、確かにムバラク長期政権による弊害に怒るエジプト国民が行動を起こさざるを得なかった政治的・経済的必然性はあるとは思うんですが、参加者のほとんどに、非日常的な高揚感(=快感)があるのは否めないと考えます。
僕は別に、反ムバラク運動に水を差そうというつもりはありません。
相対主義の立場から、“上から目線”でシニカルに論じようというつもりもありません。
80年代後半の「ベルリンの壁」崩壊のとき、壁の上でツルハシを振って壁を壊していた人達を、団塊世代で学生運動にもちょいと関わられたビートたけしは、あるメディアで 「真っ先に英雄気取りで、ああいうことをする奴ら。ありゃ馬鹿どもだよ!」 というニュアンスの言い方をされてましたが、僕はそこまでは言いません。
「良い・悪い」という判断の問題ではないのです。
ただ、人にはそういう側面もあるんだよ、と言いたいだけです。

でも、もう一言、言いたいことがあります。
僕は革命とか反政府運動とか、かなり特殊な状況下で表出する人間の本質、について語ってますが、「人間の本質」 ということで考えるとですね、僕達の身近な日常の世界でも沢山問題はありますよ。
会社での「パワハラ」とか家庭内での暴力(言動のみを含む)とか。“基本形”は一緒なんです。
全共闘世代の人達だけじゃないです。
僕も昔は、今で言う「パワハラ」的な過ちを犯したことがありました。
僕の場合は、Jリーグを観に行くようになって治癒したつもりですが。
今では、「パワハラ」的な振る舞いで「自己陶酔」し、ボルテージを上げるような人を見るとイタくて仕方ないですね。。。
正しいことほど、言われる相手は傷つくもんなんです。
このことは吉野弘さんの『祝婚歌』で気づかされました。
「正しい(と自分では思ってる)」ことを言うときほど、少し控え目に語る
とても難しいことなので、僕にとって一生の課題かもしれません。
(でも、このブログはモノローグなんで大目にみてね・・・)

5.インテリげんちゃんの台頭とその限界

で、話を戻しますが、20世紀になると今度は「インテリゲンチャ」という「知識層」が台頭します。マルクス・レーニン主義です。
社会主義、共産主義と聞くと、「労働者階級の解放」と連想するでしょうけど、この思想は現場の労働者の中から出てきた思想なんかじゃありません。
今の日本で言えば、かなり裕福なフリーター、明治時代の夏目漱石がよく使っていた「高等遊民」だったマルクスが、働きもせず図書館に通いつめて頭の中で編み出した理論です。
(しかも、マルクスは女性に孕ませた子供をエンゲルスに認知してもらったりしてます・・・)
レーニンだってかなりのインテリです。
何しろ子供の頃は“神童”と呼ばれてたそうですから。
小さい頃からコンプレックスの塊で、強いルサンチマンを原動力にのし上がってきた“鋼鉄の男”スターリンは、自分が権力を握ると、真っ先に自分の故郷のグルジアを弾圧しました。自分の暗い過去へのリベンジです。
何年か前に日本でも、自分がいじめに遭った出身学校へ行って刃傷沙汰を起こした不届き者がおりましたが、スケールは雲泥の差とはいえ、基本的な「心性」は同じようなもんです。
もちろん僕はスターリンを肯定なぞしませんが、彼のルサンチマンは自分の想像力の範囲内で理解はできます。

1917年のロシア革命は、労働者・農民の革命ではなく、インテリゲンチャという知識層による革命、というか無謀な“実験”だったんですね。
それも、産業資本主義 → 高度な金融資本主義(=帝国主義) → プロレタリア革命という、「マルクス主義」の公式通りではなく、農業中心の「後進国」で勃発した “不完全な革命” だったわけですし。。。
これが 「マルクス主義」 と 「マルクス・レーニン主義」 の違いです・・・。
おそらく 「マルクス主義」とは、一度も現実化されたことはなく、『資本論』『共産党宣言』をはじめとした書籍の中にしか存在しない理論なんです。
逆に言えば、現実化されなかったからこそ、社会主義が崩壊した現在でも、理論、テクストとしての有効性はある、と考える人もいるのかもしれません。その場合、「マルクス主義」ではなく「マルクス」となりますが。
最近、僕は読んでないんですが、柄谷行人あたりとかそうなんでしょうね。
「マルクス・レーニン主義」という、「後進国」でしか実現しなかった “20世紀の大実験” の失敗については、今さら言うまでもありませんよね。

言うまでもなく、国家権力を把握した「労働者・農民の代表」とされたインテリ達は、「テクノクラート」と呼ばれた既得権益の亡者となり、密告による粛清(死刑かシベリア流刑)をに怯え、密告合戦を繰り広げ罪なき人々を破滅させてきました (僕は中学3年の春、ソルジェニーツインの『収容所群島』という本を読んで、そういう悲惨な事実を知り、子供心に驚いたもんでした・・・)。

カンボジアで大虐殺という重罪を犯したポル・ポトだって、裕福な家庭に育ち、フランスに留学してマルクス・レーニン主義に染まった知識人です。
「社会主義」は「共産主義」という“理想社会”への過渡期であり、“理想社会”実現には何世代かの世代交代が必要だ。
旧来のブルジョア的思想で育った人達は、頭で共産主義を理解していても、心と体は旧来の思考・習慣にまみれている。
だから、学校の教師など「旧来型の知識層」からどんどん虐殺していき、“無垢”な子供達を親から引き離し、純粋な共産主義思想に洗脳する必要がある。
僕達から見れば、狂気以外の何物でもありませんが、「マルクス・レーニン主義」のもと効率的に“理想社会”を実現するという立場からすれば、いかにもインテリらしい論理的で合理的な政策だったということです。

ちなみに日本にも共産党はありますが、僕は 「日本一の“学歴社会”政党こそ共産党だよ」 とこの数十年、言い続けてきました。
なにしろ宮本氏、不破氏、志位氏という戦後の歴代トップ(書記長、議長)は、三氏とも東京大学(東京帝国大学)のご出身です。
おそらく三氏とも官僚や上場企業のトップになられてもおかしくはない超優秀な方々でしょう。

僕が知ってる範囲で、労働者からの叩き上げで幹部になられたのは、「国鉄労働組合」出身の金子満広氏ぐらいでしょうか?
僕は高校生の頃、金子氏のポスターのお顔を見て直感的に 「この人、労働者出身だな~」って感じたもんです。
金子氏のご尊顔を見た僕は、東大出のインテリにはない人を惹きつけるカリスマ性(“弱い者の味方”としての人間的魅力と“器”の大きさ)を感じたもんです。
Wikiで金子氏の略歴を見ると、もちろん今の僕の信条とは違いますが、引退されるまで筋を通された方だったんだなと感心しました。

(金子氏の存在は例外的として) そういうインテリの党であるが故に、万年マイノリティ(共産党の皆さん、スンマセン・・・)なのも当然です。
何しろ55年体制下の自由民主党は、土建屋から成りあがって「日本列島を改造しちゃうぞ!、ヨッシャ、ヨッシャ!」とこの世の春を謳歌した首相もおられました。
後に “堀の上”を歩いてらしたら “内側” に落ちちゃいましたが。。。
小沢一郎氏の“オヤビン”だった方です。
また、「893」という怖い人物ながらも、その人望の大きさと政治力から国会議員となり、国会で共産党の「宮本顕治」を「宮沢賢治」と言い間違え、ご自身が開き直って力説されてた“学の無さ”を露呈するも、そのユニークなキャラクターによって引退後は芸能人となられた方。
とてつもなく流動性・柔軟性と重層性に富んでましたよね、昔の自民党は。
とてもじゃないけど、万年マイノリティの“インテリの党”なぞ太刀打ちできません。

6.ファシズムについて

そんな「インテリゲンチャ」より、もっと人間心理を広範かつ巧みに突いたのがファシズムです。
ドラッカーに命に関わる重大な危機をもたらした、ヒトラーのナチズムですね。ナチズムも、社会主義・共産主義とはそんなに変わらない“根っ子”を持っています。ナチスの正式党名も、「国家社会主義ドイツ労働者党」でしたし。

しかし、ナチズムは「インテリ」のようなごく限定された一部の層の思想ではありませんでした。
アドルフ・ヒトラーは元々芸術家肌の人間で、建築家を目指して挫折したというのは有名な話ですよね。
高学歴で富もあったエリート、、なんかじゃありません。
だからこそ、第一次世界大戦後のワイマール共和国の危機という特殊な状況下、広範なドイツ国民の心を捉えられたのかもしれません。
ドラッカーもそう考えたでしょうし、僕の持論でもあるんですが、ナチス政権下のドイツ国民は、決してヒトラーに騙されたわけではありません
ドイツ共産党などの政敵に対し、非合法的なテロを駆使していたとはいえ、ナチスは民主的な選挙で合法的に政権を獲得したわけです。
皮肉な言い方をすれば、第一次大戦の敗北後、屈辱的な政治・経済状態に苦しんでいたドイツ国民のニーズを見事にすくい上げ、卓越したマーケティング戦略でニーズに応えたのがヒトラーのナチスだったわけです(*言うまでもなく、僕はヒトラーもナチスも批判こそすれ、礼賛などしておりません)。

ナチズムの危険性を、もし現代の日本に当てはめるとしたらどんなイメージになるでしょうか?(*以下は岩崎氏が語られたお話ではなく、僕の発想・想像なので、文責は僕にあります)
わかりやすい例を考えてみます。
最近のマスコミは殆ど話題にしなくなりましたが、「派遣切り」「ニート」の問題ってありますよね。
例えば、もし僕が“現代のファシスト党”の党首だとしたら、「派遣切り」された人達や、「ニート」と呼ばれる人達に、「正統性」と強い「権限」を与えます。
そして、「派遣切り」を行った大手企業の経営者(経団連幹部もいましたよね)を徹底的に吊るしあげさせます。
必要とあらば“血祭り”にあげさせ、会社は国家が没収、経営者の私財も没収、“持たざる層”に還元します(岩崎氏は講演の中で、ナチスの行為を“ねずみ小僧”的と表現されてましたが、まさにそんなニュアンスです)。
もちろん、“劇場型政治”で国民をたぶらかし、「構造改革」とやらで日本の美点を壊し、格差社会を招いた元首相やブレーンの学者たちも、「グローバリズムの走狗」 として、同じように断罪させます。
「何、非現実的なことを・・・」と思われるかもしれませんが、失業率が5%前後ではなく、30%とか40%になったと仮定したら、決して非現実的なことじゃないと思いますよ。
そして支持率も急速にアップするかもしれません(あくまでもイメージの話です)。
しかし、そんなことを繰り返すと、民間企業の活力は失われ、経済的に厳しい状況に陥る。
すると、海外への侵略に活路を見出すという、人類が数え切れないほど犯してきた“いつも来た道”を歩むわけです。

7.村上春樹文学の深層に流れるもの

ここで、そろそろ村上春樹の登場です。

「『もしドラ』と『1Q84』というエンタメ的な話だと思ったのに、何で小難しいイデオロギーがらみの話ばかり続くんじゃ!」

と気分を害された方もおられるかもしれませんが、今まで延々と書いてきたことは村上春樹の文学と決して無関係ではありません。
もっとも、ここまでお付き合い頂いた皆さんにはある程度、ご理解頂けるものと信じてます。

ただ、この記事が 『1Q84』という名作の作品論ではなく、村上春樹文学について述べ、現在までの村上春樹文学が『1Q84』という最新作で結実し、それが売れた、という論点に修正させて頂くことをお許し下さい。
だから、この記事では「青豆」も「天吾」も「牛河」も登場はしません。

言うまでもなく、1949年生まれの村上春樹は 「団塊世代」であり「全共闘世代」なんですが、70年前後の学生運動に積極的に関わるようなタイプの人物ではないでしょう。
但し、日本だけでなくフランスや米国など先進諸国で同時多発的に勃発した“若者の叛乱”が、“お祭り”に過ぎなかったことについては、倫理的に許せなかったように僕には思えます。
(“お祭り”とは言っても、米国の反戦運動は、徴兵制があってベトナムのジャングルで殺し合わねばならないという切実な問題もありましたから、高度成長期の“あだ花”のような日本の学生運動と同列に論じるのは難があるかも・・・)

昨年、『1Q84』の3巻を一気に読んだ僕は、20代の頃、単行本の発売を待ちわびて読みふけった初期の3部作と『ダンス・ダンス・ダンス』『ノルウェイの森』の文庫を新年明けから一気に読みなおしました。
(単行本は引っ越しの時などに処分しちゃったんです・・・)
20代の頃よりも今のほうがずっと面白く読めたんですが、そのあたりの読後感はいずれ気が向いたら書きます。

村上春樹文庫

『ノルウェイの森』の中で村上は、「緑」という大学の同級生に、あまりに本質を突いたこんなセリフを言わせます。
(「直子」「レイコ」「緑」「ハツミ」という4人の女性の中で僕は、PUNK でキュートでプチ変質的妄想に遊びながらも、実は苦労人で現実的な「緑」が一番、好みです・・・)

「そのとき思ったわ、私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になって、新入生の女の子を感心させて、スカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよ。あの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのTBSだのIBMだの富士銀行だのにさっさと就職して、マルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ」 (講談社文庫版 下 67ページ)

全共闘世代よりずっと(?)若く、大学の頃は社会問題への関心は薄れ、ロックとサブカル(たまにハイカル)三昧の生活を送っていて、三菱商事のような大企業には就職したことのない僕ですが、村上が「緑」に言わせた言葉は、僕自身にも向けられてます。

「でもね、村上さん、人間なんてさ、そういうもんじゃないの? 大多数は・・・」

と、思考停止的に開き直ることしか、僕にはできません。
そして、「人間なんてさ、そういうもんじゃないの」という言い訳を許さないことこそ、作家の特権、いや、作家と文学の存在意義かもしれません。

とにかく、村上春樹は、表層的に“ラジカル”だった学生運動家より、ずっと深みのある“ラジカル”な人間だったのでしょう。“ラジカル”とは 「急進的」のほかに「根源的」という意味もあります。

また、「緑」にこうも言わせています。

「こういうのが革命なら、私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。(後略)」

村上春樹自身がどの程度、自覚されていたかわかりませんが、これ、シャレにならないセリフです。
先日、「連合赤軍」リンチ殺人事件の永田洋子被告が東京拘置所内で亡くなられましたが、特殊な状況に追い込まれた(自分達で追い込まれた)連合赤軍の「兵士」達は、こういったくだらなくて取るに足りない理由を“革命的”に正当化し、同士を殺害していったことに間違いありません (その根拠はここでは書けませんが・・・)。
悲劇って、極限までいくと、とてつもない喜劇になるんですよね。

1995年、あるカルト宗教団体が大規模テロによって僕達を恐怖に陥れましたが、当然、村上も政治や宗教の表層的な違い(テロの方法論も全然違います)に惑わされず、新左翼とカルト新興宗教団体の体質を“連続”したものと捉えているはずです。
1995年のテロでは、実行犯と理不尽すぎる不幸を負った被害者の方々にコミットメントしました。
僕はいまだに読んでないんですが『アンダーグランド』というノンフィクションですよね。
今まで読んでなかったのは、「ちょっと重いかな? ボリュームもあるし・・・」 と思ってたからなんですが、僕も必ず読もうと思ってます。

新左翼とカルト新興宗教団体の体質を“連続”したものと捉えたのが 『1Q84』です。どちらも、“外”の“正常”な世界から見ればカルトです。
ただし。
カルトと正常な世界を強く線引きしたくなるのは、僕らの当然の心性なんですが、実は、そんな「線引き」は確固たるもんじゃない、ということを作家である村上春樹はわかっているはずです。
そして、「物語」という虚構の世界の中で僕達は、「こうじゃなかった色んな人生」を追体験できるわけです。
カルト集団内における限定的な状況下の“異常”な体験は、実は“こっち側”の世界においても、その本質(基本形)は変わらない、というか、僕らが抱えている人間の本質的なファクターが、限定的な状況下のカルト集団の行為に顕在化し、それらを「物語」という世界の中で追体験できる、というのが僕の持論です。
もちろん、「僕らが抱えている人間の本質的なファクター」って、一生、顕在化しないことも多いでしょうけど、日常生活において結構、出ちゃったりするもんです。例えば、小さな喧嘩から離婚や失恋の経験の中とか。

8.ドラッカーと村上春樹に共通するテーマは?

ドラッカーと村上春樹に共通するテーマ。
それは、不完全な人間の営みがもたらす「悲劇のスパイラル」からの脱出、ではないでしょうか?

方法論は異なりますが、経営学畑のドラッカーは「社会」、文学畑の村上春樹は「個人」という視座から。
日本的共同体(血縁、地縁、会社、学校・・・)は崩壊に向かい、僕らは「自律的」にならざるを得ない

ドラッカーと村上春樹の、想定される読者層は異なるでしょう。
しかし、時代の深層から聞こえてくる何らかの“声”は変わらないのではないでしょうか?
ちなみに、冒頭の写真(日光の「龍頭の滝」2014年9月撮影。*私のnoteの冒頭写真は全て自撮影です)は、「2者のアプローチは結局は同じですね」という私の解釈のつもりです。

最初、岩崎氏の仮説を記しましたが、僕も政治や経済に適当に身をゆだねるだけでは生きていけない時代になったと思います。
これは、政治にも経済にも無関心でいい、ということではありません。
ただ、まず一番身近な自分自身の「自律性」がなければ、たとえ選挙の投票率が上がったとしても意味がないどころか、逆に危険だということは歴史を振り返ればわかります。

最後になりましたが、村上春樹文学のテーマは多層的で、マジョリティの読者にとって最大のテーマは、恋愛だと思います。
恋愛も人間にとって最も切実で根源的な問題で、僕も「恋愛小説」としても楽しんでいることは記しておきます(笑)。

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