学習者としての値打ち

すっごい適当に書きます。

私は自他ともに認める文系であるものの、最近、「実は昔、物理に興味あったよなあ」と思い出す機会が多い。

高校生のとき、質実剛健を掲げるありふれた進学校に通う私は、あまりにも数学が苦手すぎることから文系を選択した。その瞬間に"理科への扉"は遮断された。

数学(というより算数)はびっくりするほど苦手だったけれど、物理と地学なら結構やりたいなと思っていた。宇宙工学とか地球変動とかにはなんとなくうっすら興味があった。理系のほとんどの科目に難色を示す私に残された最後の"理科への扉"であった。

私の高校では、文系志望者は「化学基礎」と「生物基礎」の履修が学校から指定されていて、「物理基礎」と「地学基礎」は選択することさえ出来なかった。

「世界史B」か「日本史B」か「地理B」か。
これは即答で「地理B」を選んだ。地理は本当に好きだった。受験関係なく勉強そのものが楽しかったのは、全教科を振り返っても地理だけだったかもしれない。日常に活用できる点が好きだった。

地理を勉強しながら、物理学と地学も勉強してたらもっと楽しいだろうなあと思った。でも文系の私には物理学も地学も勉強する手段がない。「地理」はあらゆる科学を包含し、当然生物学も包含するわけだけれど、私は集合体恐怖症の影響か、めっぽう細胞や微生物を見るのが苦手で、テストすら手で写真を隠していたほどだから、地理を深く知ろうとする中で生物学を補助的に勉強するつもりは無かった。だからより一層、物理学と地学を学ばせて欲しいという気持ちが強かったと記憶している。

未だに物理学や地学のなんたるかを知らないし、学習する中で何かにつまづいたこともない。だから余計に夢を膨らまし憧れる一方で、無知をより強く認識する。

私が理系を選択していたら、もしくは、文系でも理科系科目を自由に選択できる履修システムだったら、考え方や興味関心のベクトルが多少違っていただろうと思う。いや、環境のせいにするな。勉強など勝手にすれば良かっただろうに。

やりたいことがやれない環境のとき、どう行動するかでその者の学習者としての値打ちが決まる。それは子どもも大人も同じだと、今になって気づく。

もう一度高校に通う方法は無いものか。

通ったとて、か?

※すいません昨晩瞼激重の状態で書き殴り書きおわった瞬間に寝落ちし起きた時には書いたことさえほぼ覚えてなかった記事で内容激薄ですがそのまま出しました。

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