文学ができない者に数学はできない。

先日このようなツイートを拝見しました。

私自身は社会学部です。文系とされる学問を2つに隔てて敵対構図を表現している時点で、この方とは分かり合えなそうだなあ〜と思ったのですが、生贄に差し出された側の負けず嫌い代表として、学問についての所感をメモがてらまとめます。

このツイートは文系学部内戦を煽ったものだと思うのですが、勝手に広義でとらえ学問規模で書いてます。この時点でツイートを微妙に無視してますが、ツイートに言及したいというより思いついたことメモです。ここで大事なのは、ツイ主に届いてほしいわけでもなく、個人的な所感をまとめるのが目的なので、読む場合は適当にお願いします、ということです。

”文系”とされる学問を分類するときに、「人文科学」「社会科学」と区分するのは確かに分かりやすいかと思いますが、それは便宜上のもので、実際にはその学問同士はかなり密接な関係性で、例えばツイート通りに、歴史学を生贄にした場合、経済学なり法学なりも共倒れになるよなあ、というのが私の感想でした。

これが芥川に倣った発言だと最近知ったのですが、高校時代に恩師が言っていた「数学ができない者に文学はできない、文学ができない者に数学はできない」という言葉が印象的で、よく覚えています。

最近、趣味レベルで脚本を勉強しているのですが、レシピを書くのとよく似ていると感じます。レシピは、いかに再現性を高められるかが重要なポイントかと思うのですが、再現性の高さを重視するという点では非常に数学的だと感じています。脚本も似ています。書き手が条件や指示をひとつでも書き漏らしたら、読み手はこの脚本を読み解く事ができないのです。表現や展開自体は自らの創作・想像力に因るところが大きいですが、脚本を組み立てる作業自体は、非常に”理系”的だと感じながら書いています。プログラミングや法令も似ている気がします。

文学の数学性について思うこととして、例えば「私は映画が好きで、私は音楽が好きで、私は歌うのが好き」とは、「Ax+Ay+Az」であり、「私は映画と音楽と歌うのが好き」は「A(x+y+z)」に感じませんか。文学もこのような分解の仕方が出来るのではないかと想像します。想像します、としたのは、私は文学も、私は数学も、残念ながら特に明るいわけでもなく、私の勝手なふとした妄想にしかすぎないためです。

経験上、学問は複数の学問分野によって成り立つと信じています。0から生まれた学問はないだろうと推定するからです。
社会学や歴史学は地理学に密接ですし、地理学は自然科学、土木工学、またGISなどのコンピュータ技術の発展とも大いに関係があるはずで、、など、このようなことを連想し始めると際限がなさそうです。
私は大学時代に、社会学のうちメディア学という分野を専攻しておりましたが、映画や広告などのコンテンツそのものの分析、またはその流通を勉強するうえで、視覚や聴覚=広い意味での脳科学や心理学的な要素や、統計学を基にしたマーケティングの要素は存在し、”理系”的な要素もある分野だと感じておりました。

そもそもは一見最も遠そうな哲学と数学が、学問以前に人間の"疑問"の根源とも言うべき密接な関係性にある時点で、多くの学問は親戚関係にあると思います。パラドックス問題について考えるとき、私達は必ず数学を想像しますが、それだけだったことはきっとありません。このように考えていったときに、何にも相補しない独立した学問を思い浮かべることが私には出来ませんでした。

つまり、日本国内もしくは個人だけの印象で「学問の分野の隔たり」に言及するのはあまり知的な行為ではないと感じました、ということです。

まあ、私自身も個人だけの印象で語っていますし、このnoteが読みづらい時点で、文学ができない者に数学はできず、数学ができない者に文学ができない可能性が高い!と言えるかと思います。

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