見出し画像

言語化を通じたあたらしい世界を見てみたい|1228

(noteを始めると言っては、習慣化できずにやめてしまうという日々のくりかえしでした。
なので、もう続けるとは言わないので、更新頻度がガクッと落ちてもやめないようにだけしたいと思います←)

ぼくは大学2年生のときにはじめてブログと出会い、記事を書く・編集するということに大学生活を捧げてきた。

関与した記事の本数でいうと、1000本くらいあるのではないかと思う。

ただ、ぼくは本当に言語化をすることに抵抗がある。
正直、記事を書くスピードやわかりやすい文章を書くことに関しての自信はかなりある方だけど、それでも言語化することに意欲的ではない。

いや、むしろ恐怖心を抱えて逃避していたと思う。

ただ、本当は書きたい。

普段は成果とかスキルとかの話ばかりをしている。
仕事場では市場価値などの話は持ちきりだ。

だけどぼくは、思考であったり人生哲学のような、頭の中でかけめぐる正解のない抽象的な話が好物だ。

なのに、ここ最近はそういうものと向き合う機会を取れていなかったし、取ることから逃げていたと思う。

そこでこの機会に、言語化に抵抗があった理由や、言語化を通じて見えてくるであろう世界について考えていきたいと思う。

文章構成などはあえて考えない。ただただ綴る。

Webメディアの言語化価値はPV数に依存する

ここが、言語化に抵抗がある一番の理由だ。

ぼくが関わってきたブログやWebメディアは基本的に数値を伴うコンテンツだった。

「今月は〇〇万PVだ!」
「CVRが○倍になったぞ!」

出すコンテンツに客観的数値が必ずついてくる。

コンテンツに伴う価値というものを具体的に定義をすることは、ビジネスおよび資本主義においてはものすごく大切だ。

具体性のないものは、「非現実的だ」と嫌われてしまう。

ただ、だからと言って客観的数値が伴わない=無価値なのか。
バズる記事だけしか書いてはいけないのか。

もちろん、答えはNOだ。

ただ、自分は自分に対してNOを出していた。

おそらく、今書いている記事はそんなに読まれないだろう。

読まれるタイトルをつけるのであれば、

「年収が2倍になるノートのたった1つの書き方」

とかにして、ベネフィットを明確にした具体的ノウハウにこの内容を書き換えたほうがいいと思う。

などと考えてしまうことが職業病だ。(笑)

ボリュームの多いキーワードを選定するか、SNSでバズりやすい話題に乗っかって最適化したコンテンツを作ることには正解がある。

ただ、ぼくのnoteはぼくが書く言葉が正解だ。

誰に見られて、痛いと言われようが自分がつむぐ言葉が正解となって、言語という伝わる形で世の中に現れる。

そんな当たり前のことを、資本主義やビジネス世界に身をおくことで忘れていた。

言語化を通じて見えてくる世界ってなんだろう

自分の頭の中にある価値観や哲学を言葉にすることで見えてくる世界ってなんだろう。

パッと思い込んだものだと3つくらいある。

1.コンテンツ起点のコミュニティ

昔ある人が言っていた言葉を思い出す。

「コミュニティには2つある。目指すべき方向が一緒な縦のコミュニティと、価値観が同じ人がそれぞれの目標を追っていく横のコミュニティ。どっちが良くて、どっちが悪いということはない。むしろ、どちらも持っていないと息苦しくなる。」

まさに今の自分は、横のコミュニティを失っていた。

価値観や哲学がいっしょなだけの、やさしい世界とのつながりを断って、結果やスキルばかりを求めていた。

そうすると、抽象的なものは無駄なものとして排除される。

具体的な目に見えるものだけが価値があるものとして扱われる。

ただ、そうではないコミュニティを身の回りに作っていきたい。

作りたいというより、自然にできているのが理想。

読まれることは期待してない。

ただ、誰に読んでもらえるかを意識してないからこそ、今まで出会うことがなかったような価値観が似ている人とのコミュニティが形成されるのではないかと。

ものすごく楽しみだ。

2.未知の自分との出会い

構成などを考えずにただただ出てきた言葉を書いてきたので、こんな風に考えていたんだという気づきが多い。

こういう未知の自分との出会いを大切にできるのではないか。

ぼくは現在Webマーケティングの仕事と並行して、受験生8人にコーチングを軸とした受験指導を行なっている。

そこでよく言うのが、

「考えたから言葉にできるのではなく、言葉にしようとするから考えられる」

ということ。

まさに、自分が今改めてそのことを痛感している。

こういった未知の自分との出会いを大切にしたい。

3.弱い自分の許容と向き合い

このnoteを通じて、弱い自分と向き合うことから逃げていたんだな〜ということを痛感した。

結果が出せないことをしたくない、やりたいことでも結果が出ないならやらない。

そんな強がりながらも脆くて弱い自分を許す機会を作れる。それが言葉にするという行為だと思う。

そういう他者を以前より許せるようになってはいたが、真に自分を許せるようになったらもっと見えてくる世界は変わってくるだろう。

さいごに

このnoteは本当に読まれることを意識せずに書いた。

ただ、こういう機会を大切にできる余裕を持っていたいと改めて痛感した。こういうコンテンツにぼくは心を動かされてきたからだ。

今回、この記事を執筆するに至ったイベントであるnoteもくもく会@cotreeのひらやまさんのnoteが大好きで、一度お会いしたいと思っていた。

ぼくはこれからもSEO対策やキーワードゴリゴリ、PVがガツンと取れる記事を書いていく。

ただ、こういう自分が書きたいものを書く機会を見失うと、自分の知っている世界のなかのみで生きていくことになるだろう。

結果の世界だけで生きると、本当に息苦しい

いい大学に受かれば人生が成功すると本気で思い込んで早稲田に入って、満足できずに東大に仮面浪人しようとしたり、全然自分と合っていないのに弁護士や外資銀行を目指して精神を病んだ時を思い出す。

こういう無駄で自己満足で妄想や思考にふけるだけの時間を、過ごせる余裕もっと持っていきたい。

まずはこの経験を得る機会をくださった、cotreeのひらやまさん・noteもくもく会の参加者のみなさんにものすごく感謝。

そして、改めて読まれなくてもいいから、自分の見たことのない世界に触れる機会を大切にしてくださいと、自分に優しく声をかけて終わろうと思う。


読んでいただきありがとうございます! よかったら、ぜひスキとサポートしていただけたら嬉しいです👏今後の励みになります! サポートしていただいた金額は、今後の発信活動に使わせていただきます!