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7つの沼❺賞レース〜無限に正解がある理不尽への邂逅

本来なら、今日はお世話になっている連載の「裏入門」をあげさせてもらおうと思っていたのですが。こんなのが出ましてね。

M-1グランプリとCreepy Nutsコラボのスペシャルムービーなんだそうだ。M-1グランプリといえば今や全国的漫才賞レースの最高峰みたいになっちゃいましたが、その地位をたった20年で確立したのは、他の類似番組に追随を許さない圧倒的な取材日数・サポートする製作陣1人ひとりの肥えた目、熱量に他ならないと思っています。前に過去記事でも言ったけど↓

そういう姿勢は、美容師さんの技術の進化に責任の一端を持つ美容業界誌編集としては当然見習いたいと思うわけです。お前はここまで時間と金と頭と心を美容師さんに割いてるか?と、今日も思わされた。あと、最近推し変して大好きなリア恋枠・宮戸くんがアホほどカッコよかったです。コメント欄、誰一人として触れてなかったけど。

さて、そうは言っても去年まで私はM-1グランプリからはめちゃくちゃ離れていました。このコロナ禍で、朝日放送さんがめちゃくちゃ尽力をしているとか、現場が無くなった芸人さんたちの動き、マグマのようなふつふつとしたものに触れて“出戻ってきた“わけであります。

こんなタイミングで振り返るとその「離れた理由」はその後の宝塚受験や進路、職業選択、いろんな場面につながっていました。今日もまたそんな話。

離れたのは2001年

そう、離れたのは、まさかの第1回。

ハリガネロックさんが、めちゃくちゃ好きだったんですよ。と、いえば、同世代以上の当時を知る人は「ああ〜、それでねえ。御愁傷様」と思い出すと思う。決勝セカンドステージ、同期の中川家さんに競り負け、優勝を逃したのでした。

既にさほどファンは多くないながらいまだにアンチが多いし、片方が書籍で色々書いて物議を醸していたことがあるからあまり深くは触れないんだけど、15歳の私があの一騎打ちで印象に残ったのは「お客から今日一番の揺れるような笑いをとっても勝てないってどういうこと?」という強烈な理不尽だった。当時はね。当時はそう思ったのです。

これは嫌味でもなんでもないんだけど、裕福な家庭で優しい両親とベタ甘な祖父母、地に足のついた弟に囲まれて育ち、勉強も運動も芸事もほとんど不自由なく生きてきた私の身に起きた「初めての理不尽」だったように思います。今思えば。

何百人を笑わせてる人が、たった数人の「お歴々」の1票で人生が左右されているのを見た。

これ、中学生の私には納得がいかないだけに収まらない出来事で、そこから徐々にお笑い番組や寄席そのものから離れていきました。ハリガネさんが1番の推しではあったのですが、baseよしもと全体が好きで、シャンプーハットさんやらランディーズさんやら、野爆とか。阪神のことは大体$10に教わりました。ビッキーズが前説をしていて、小杉さんがまだ「ブラマヨのかっこいい方」だった頃。そういや10年くらい前、小杉さんがスゴイ派手なスタジャンを着て、スゴイ派手な女性連れてるとこに三条大橋ですれ違ったことがあるなあ。そんなナリなのにすれ違ったヤンキーの「あれ小杉ちゃうん!」に、紳士的に対応していました。

今は亡き博多駅にあった吉本ゴールデン劇場にも通ったりするほど、それなりに熱心に数組推していたんですけれど「あの2001年の12月の理不尽」で全ての情熱がプツッと切れてしまったなと思います。

客ウケと競技はトレンドとモード

正直、その19年前の「もうええわ」は、ほんの数年前までずっと根に持っていました。

ハリガネロックが2014年2月に解散。今思えばその頃自分は勝手に離れて当時ほど応援してもないくせに何様なんだよと思うんですけど(井下好井の「カール」のネタを見たばかりなので尚更自省するのだけど)、その一報を聞いた日にはマジで2001年のあの12月を呪いました。

そして、2014年は、私ごとですが本職で月刊BOBという総合誌に転属した年でもありました。そこで出会ったのが、美容師さんの技術コンテストだった。美容師さんは、12月の繁忙期を控えた9〜11月の営業が休業である月曜や火曜に、所属している組合や団体、取引メーカーやディーラーが主催する技術コンテストに参加して日頃の鍛錬を競い合います。コピーカットやワインディングといった技術そのものの精密さに特化した試合もあれば、ファッションのコレクションよろしくトータルコーディネートをしたり、写真のトータルディレクションを競ったりするものもあります。それを、その年多い時で月に7本近く審査に行かせていただく中で、徐々に発見するわけです。

大衆の“可愛い“と最先端の“良い“は違うのだな

というか、最先端の“良い“が数年後の大衆の“可愛い“を開発するのか

……コンテストの使命はイノベーター、アーリーアダプターを探すことであって、人気投票ではないんだということ。

それはものすごい“目“と精神のいることで、私の1票が時代を、誰かの人生を狂わす立場にいるんだということ。そりゃ「お歴々」の1票は重いに決まっている。

私たちも変な髪を選んだら「K書房、大丈夫?」と陰口を叩かれるわけで、その重責に恥じぬよう律して挑むわけだけど、むしろ、あの「お歴々」はその1票に芸人人生を賭してるわけだと気づいたのでした。

あの人たちは、大衆と若いイノベーターの間で、技術と文化を遺そうとしているのだ

あの19年前の「理不尽」の答えを意外なところで見つけて震え、まるでお釈迦様の指に名前を書いて走り回っていた孫悟空のような気持ちになったのは……具体的にはそうだな、2016年、それから2年くらい経ってからのように思います。書籍部に移る前、デザイン誌の最前線を去る前でした。

だから、よく見る「面白いのに審査員はズレてる」とか「これだけウケているのに通らないのはおかしい」という人たちには、うちの業界でいうところの「コンテストで選ばれるのなんてw一般のお客様が可愛いと思わないヘアばっかりでww意味ないww」とかいってくる人ばりに前褌掴んで投げ飛ばしたさありますね。ガリガリじゃないむしろデブなんで許してもらえると思うんですが。

その議論は、とっくに2001年に問題提起されて終わってるんだよ

って、思います。

ついでにいうとだからこそ宝塚の人事を成績とか客入りみたいなことで突く人は論外オブ論外というのもあると思います。そういう奴はマジで2001年のM-1のVHSの角でみつえりを殴打してやりたい(VHS)

正解は1つじゃないけど、確かにあるという難しさ

難しいのは、2001年のあの12月の意味がわかったからといって、私にとってその呪いが解けたとは思っていないことだったりして。

むしろ呪いは深く絡みついてくるような。

イノベーターだとか、モードだとかに照らしても、あの年ハリガネロックさんが到底優勝できなかったという解にも辿り着いてはいない。確かに、トラディショナルでない方法で客を煽って巻き込んだりとか、かなりブラックなネタで刺激的な笑いを取ったりはしてましたよ。それはある意味、下世話な技術かもしれない。でも、それが“業界革新“と紙一重だった可能性はあるわけです。

もちろん、だからといって中川家さんが優勝すべきでなかったということにも全くなり得ません。だって、やっぱり中川家さんはめちゃくちゃ面白いので、これで良かったのかもしれない。でも、逆の未来がよくないものだとも思わない。そんな数学みたいな話。

私が注目したいのは、20年そういう「もしかしたら紙一重で世界を変えたかもしれない人たちが負けている」という事実が積み重なっていることです。リセマラしまくって、何度もやり直してその後の世界を見られたらどんなにいいだろうなって見てる側も思うもんなあ。

闘う人を抱きしめられるのは闘った人だけだ

で、こういうのって、しつこいですけど私がこういう経歴があるから尚更没入してしまうんだろうなとも思います。

そう、ヅカ受験。ヅカは15〜18歳の4回しか受けられませんし、M-1グランプリは芸歴15年目が出場制限になっている。バレエなんてのは大体長い人で3歳くらいからやるのが相場なので、ヅカ受験の「18歳」って、ある意味「芸歴15年縛り」なわけですよ…!

と、これはただのこじつけですが、あの時に自分が「どうすべきだったか」の答えなんて15年たった今でもさっぱり見つかっていないわけです。で、最近思うのが、別に当時のままでも受かる時は受かったし、受からない時は受からなかっただろうなということだけ。もちろんもっとできることはあったと思います。反省は尽きない。受験年の巡り合わせとか、願書のタイミングとか、先生の気分とか劇団の中期計画とか、いろんなものが相まって最終的な「お歴々の渾身の1点」がもらえなかったに過ぎないのだなと。そりゃ技術を磨いて、コンクール受賞歴があって、子役経験があって…という方が材料は多いでしょうが、それでなお落ちる世界なのだ、審査を伴う世界ってのは。現に、そんな子が身近にもいた。

私は落ちたあの日から自分の人生は「あの時どうすべきだったか」を見つけて回収する旅だと思っていたのですが、このM-1の“理不尽“との再会を通して、その考え方がそもそも間違いだったなと気付かされたということで話を結びたいと思います。

そして多分、私の使命は「それでも落ちていく人」を抱きとめてやめさせないことなのだな。ああ、結局めちゃくちゃ仕事の話になっていますが、美容師を辞めさせないこと、デザインの革新を諦めさせないことが私の使命だなとマジで今日あの3分の動画を見て思いました。

尊敬する著者様がスローガンにしている言葉に「自利即利他」というのがあります。

2001年の12月に初めて知った“理不尽“と、2005年の3月に味わった理不尽を通り越した“圧倒的敗北“と。

その15歳の私と、18歳の私を救うことが、人のためになったら嬉しいなと思っている。

そんなところに、くだんの動画(冒頭のやつね)のラスト

「全スタッフで最高の舞台を用意することを約束する」

というテロップが来たことに痺れ腐ったという話……!

あえて言葉にするこの熱量よ。言葉にしないと誰も読み取れない時代だもんな……!

だからね、めちゃくちゃ長くなったんですけど、この決意表明に託けて、自分も言葉にすべきことは今遺しとかなあかんのんちゃうん?せやろ工藤!ということになり、このような長文に相成りました。

マジで、審査とかって軽く考えてる人が一般人にも多いし、同業界の同業審査員、審査する側にも超多いんですよね。転職、転属して6年、ずっとムカついてることです。長年ムカつきすぎて「ジャーナルあるある〜!」って5upオーケストラ的なノリでライム刻みたいレベル。

でも、そこだけは教えて説いて変えられることではないんだよな。もう、その人の人生だから。覚悟って、積み重ねなので。


毎度長くなってすみませんでした。これ読んでる人いてんの?

とりあえず宮戸くんかっこいいからそれだけは覚えて帰ってください。

ご清聴ありがとうございました。

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