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#176 終わりよければすべてよし(廣畑晴揮/4年)


こんにちは。
日頃より筑波大学蹴球部への多大なるご支援・ご声援に感謝申し上げます。
今回部員ブログを担当させていただく、筑波大学体育専門学群4年の廣畑晴揮と申します。


大学サッカーを引退したこのタイミングで、これまでの自分のサッカー人生、そして自分自身について振り返って書いてみたいと思います。


まずは、自分の事を知らない人がほとんどだと思うので自己紹介させていただきます。

兵庫県神戸市出身の21歳。
3つ上の兄の影響でサッカーを始める。
小学3年生の時にヴィッセル神戸U12に入団。その後、本山中学校→三田学園高等学校と進み、筑波大学に入学しました。


長く拙い文章になりましたが、最後まで目を通していただけると嬉しいです。


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小学生の時、ヴィッセル神戸の下部組織に所属していたこともあって、無料でチケットが手に入ったので、頻繁にヴィッセル神戸の試合を見に行っていた。

スタジアムから見るプロサッカー選手はカッコよかった。

なにより自分が好きだったのはゴールが決まった瞬間だった。

 放たれたシュートがゴールに吸い込まれて、「ゴォーーーーーーール」という大音量のアナウンスと共に、その1つのゴールで何万人といる観客が思わず立ち上がって興奮して叫ぶその雰囲気が好きだった。

プロになって自分が決勝ゴールを決めて観客が沸いているような妄想をたくさんしていた小学生だった。

いつしか自分もプロサッカー選手になってこんな光景をピッチの上から見てみたいと思うようになった。


これまでのサッカー人生を振り返ってみて、筑波大学蹴球部に入部するまでの自分はとても恵まれていたと思うし、本当の意味での挫折はしたことがなかったと思う。


小学校でもキャプテンを任せてもらったり、中学校でも出場機会に困ったことはなかったし、高校でも100人以上いる部員の中で試合に出て、全国大会も経験する事ができた。

その間に辛かった事、苦しかった事が無かったかと言われればもちろんそうではない。
怪我に悩まされた時期もあったし、試合に出られない時期だってあった。

でも、本当にサッカーがしたく無くなるくらい、辞めたくなるくらい追い込まれたことはなかったし、いくらかいい思いをしてきた方だと振り返ってみて思う。


そして、関西から出たことのない人間が筑波大学に入って蹴球部の門を叩いた。


そこで、自分がこれまで知っていた世界は圧倒的に狭かったのだと思い知った。


はじめに配属されたのはB1で当時の4軍だった。
そこから徐々に調子を上げて、運良く2年の立ち上げのタイミングでTOPチームに入れてもらった。

1月の末に初めてのTOPチームでのFCT(高強度トレーニング)があった。

そこで、自分の力の無さと周囲のレベルの高さに圧倒された。自分の長所は何一つ通用しないし、ボールを持てば取られる。萎縮して声も出ない。


文字通り何もできなかった。


自分ならTOPチームで試合に出られる。そしてプロにだってなれるかもしれない。そんな甘ったれた思い全てが打ち砕かれた。

そこから練習に行くのが怖くなったし、あったはずの自信もどんどんなくなっていった。
自分の長所も分からなくなった。


「自分はこれまで何してきたんだろう」

「自分がサッカーしてる意味ってなんだろう」

そんな事を考えるようにもなった。


そんなことを考えている自分の全てが甘かった。


どんな時でも1グラに行けば、自分より下のカテゴリーにいる選手が死ぬ気で練習していたし、馬鹿みたいに筋トレしているやつもいた。

ずっと怪我しているのに下を向かずに努力し続けている奴らがいた。

ピッチ内だけでなく、ピッチ外でも蹴球部のため、日本一になるためにに全力を注ぐ部員たちがいた。

そんな同期や先輩・後輩たちの姿を見て奮い立った。

そして、いつでも励まし合って、共に頑張る仲間がいた。



勝負の4年目。



「関東リーグで試合に出ること」
「アイリーグの全国大会で優勝すること」

この2つを今シーズンの目標に掲げた。


でも4年目はほとんどサッカーができなかった。


2度の脱臼で、丸4ヶ月はリハビリ生活だった。
最後の夏も、暑い中ひたすらにリハビリだった。

復帰しても制限や怖さがあって、100%でプレーする事ができなくなっていた。
練習で全力を出しきれない自分にもイライラした。


最後の年なのに何も成し遂げられない、上手くプレーもできない自分に腹が立った。



それでも、周りを見れば大怪我をしてリーグ戦に間に合うかどうかも分からない中で必死にリハビリをしている仲間がそこにはいた。


どんなにかっこ悪くても、うまくいかなくても、こんな素晴らしい組織のために、そして仲間のために全力で戦おうと思えた。

そうして4年目の蹴球部生活も終わりに近づいていた。



Iリーグの最終戦の週の事だった。


1ヶ月前程から膝が痛かったが、プレーはできる程度だったのであまり気にしていなかった。


"ピキッ"


最終戦の4日前の練習でいきなり膝に激痛が走った。

その後歩くのは問題なかったが、痛みがなかなか消えず次の日病院に行った。

そこで病院の先生から伝えられたのは


「おそらく半月板損傷ですね。」


という言葉だった。

目の前が真っ白になった。

その日の夜、部活が終わって1人でご飯を食べていたらなぜか分からないけれど自然と涙が溢れてきた。


「今までの頑張りってなんだったんだろう」

「あんなに苦しい思いしてリハビリして復帰したのに意味がわかんないんだけど」

「なんかおれ悪いことでもしたかな」


悔しくて悔しくて仕方なかった。


最後どうなっても、残りインカレまでやろうと決心した矢先の事だった。

最終戦の前日は左足でボールも蹴れなくなっていた。


そして迎えた10月22日
Iリーグ最終戦VS拓殖大学戦。

優勝の可能性は無くなっていたが、勝てば3位フィニッシュの大事な一戦。

そしてなによりこれまで共に戦ってきた同期とできる最後の公式戦だった。


スタンドを見てみると、溢れんばかりの部員とIリーグでは見たこともない観客の数。
そして自分を応援してくれる少年たちの姿があった。


恥ずかしながら試合の前日に、あの頃のように

「最後に出てきて、点取って部員のところに走って行ったら気持ちいいだろうなぁ、最高だろうなぁ」

なんて妄想(イメージトレーニング)をたくさんしていた。


迎えた後半40分


やっと出番が回ってきた。

昨日まで上手く動かなかった膝もなぜか少し良くなっていたような気がした。


そして後半45+3分


カウンターから自分の所にボールが転がってきた。

昨日まで蹴れなかったはずの左足が咄嗟に出た。


ゴールが決まった瞬間涙が溢れてきた。

でもそれは4年間で最初で最後の嬉し涙だった。


ピッチの上でもみくちゃにされて、上を向いて寝ていたたほんの数秒の間に、これまでの大学4年間の思い出が走馬灯のように溢れ出してきた。


「あぁ、おれって本当にサッカーやっててよかったな、何も間違ってなかったんだ」



家に帰ってから、YouTubeのライブ配信の映像を何度も見返した。

そこにはまさに自分が小学生の時に思い描いてた夢のような光景がそこにはあった。

自分のゴールでたくさんの人が熱狂した1グラがそこにあった。

もし、辛かった事、苦しかった事が無ければ、あのゴールでこんなに興奮する事はなかっただろうし、蹴球部にいたからこそ得られた感情とゴールだった。


やっぱり、こんな最高の環境で最高の形で引退ができたのは蹴球部の仲間がいたからだと改めて思う。


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この4年間本当にたくさんの方にお世話になりました。

自分に関わってくださった皆様、そして支えてくださった皆様本当にありがとうございました。

長く拙い文章に最後までお付き合いいただきありがとうございました。

今後とも筑波大学蹴球部へのご支援・ご声援のほど何卒よろしくお願いいたします。




筑波大学蹴球部

体育専門学群4年

廣畑晴揮





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