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ロージナの風:武装行儀見習いアリアズナの冒険 #99

第八章 思惑:2

 士官候補生とは言っても、タケオはまだほんの小僧に過ぎなかった。

小僧は大人達とは違って審美眼も素直だった。

だからこそ神秘的とも言えるほどに美しく怜悧なバイロン副長に魅せられ、雪の女王にかしずく小姓の如く崇拝するに至った。

そのせいもあるのだろう。

タケオにとっては、彼女の変化が大いに残念で仕方がなかったのだ。

優し気な面差しもそれはそれで魅力的だった。

けれどもタケオは氷の美貌こそが、レベッカ・シフ・バイロン海尉が醸し出す魅力の真骨頂と考えていたのだ。

ふとタケオは、先日故郷の島で出会ったディアナ・グリソム・バーリー嬢へと思いが馳せることを意識した。

今ここで彼女の何とも愛らしく品の良い笑顔を思い浮かべてみればどうだろう。

あれほど夢中だったバイロン副長の冷ややかな美しさに、自分の心臓は以前ほどときめかなくなっているのではないか。

「綺麗なお姉さんの優雅な冷酷は大好きですけどねー」

そう呟いてみた瞬間、ディアナの笑顔と甘い体臭の記憶が脳裏で爆発した。

赤面しながら我に返った甲板小僧は、きょどきょどと辺りの様子を伺った。

根が真面目なタケオだけに、軽薄な妄想がもしや人に知られたのではないかと大いに焦るのだった。


 「展帆!」

号笛と共に掌帆長の命令が飛び、フォア、メイン、ミズンと三本のマストにコース、トゲンスル、トップスルと艦の推進力の源となる計九枚の帆が一斉に開かれた。

「ブレース引けー!」

風は右舷後方から吹いているので、左舷側のブレースが甲板で待ち構える水兵達によって一斉に引かれ、ヤードが回った。

やがて、帆が一杯に風を孕んで無駄なバタつきが収まると各ブレースはビレイピンに固定され、インディアナポリス号はゆっくり滑らかに航走を始めた。

 帆に受ける風の力で艦体は少し左に傾いた。

舷側に当たる波の音。

風を切る無数のロープの唸り。

滑車や策具が立てる金属音。

それらと人が上げる音声が混然一体となり、今まさにこの艦が息を吹き返し、再びわだつみの好意にのびのびと身を委ねたことが実感された。

今朝は湿度が低いのか。

艦尾方向へ目をやると澄んだ青空の元。

プリンスエドワード島の山並みや、市街地の輪郭がくっきりと視認できた。

外洋に出て風向きが変わり、更に海流の流れに行き当たって航路の修正が必要となるまでは操帆も一段落だ。

展帆作業を終えた水兵が、続々とシュラウドやロープを使ってヤードから降りてくる。

本来非番の者はのんびりと解散し、午前直の者は、そのまま甲板やマストの上などそれぞれの配置に付いて、所謂水兵仕事をはじめた。

古参の水兵達は策具や滑車の不具合を調べたり、各自が受け持つより専門的な仕事に取り掛かった。

未熟練の者達は甲板磨きや細かい水兵仕事に精を出した。

短い休暇は終わった。

艦上には、独特の緊張感を身にまとって生き生きと立ち働く水兵の、身体に馴染んだ日常が戻ってきたのだ。

 タケオは胸いっぱいに潮風を吸い込み、午前の陽光に白く輝く帆を見上げて目を細めた。「ミスター・カナリス。

バイロン副長がお呼びです」

後部甲板付の下士官がいきなり目の前に現れた。

いや、現れたように感じた。

金色の髭もじゃがライオンみたいだと、日頃から感心している先輩だった。

カナリス士官候補生の白昼夢はつとに有名で、ニヤリと笑う下士官の面白そうな顔にまたもや顔が赤くなった。

「あっ。

ありがとうございます、ミスター・ヤンソン」

どうも、自分は気が緩むと注意が散漫になってしまう。

バイロン副長にも何度か注意を受けている白昼夢は、一日でも早く克服すべき自己課題の一つだった。

彼女はヨーステン艦長と共に舵輪近くの定位置に立っており、信号セクションからは五メートルと離れていない。

これまでであれば直接呼びつけられたところだが、今日は間に下士官が入った。

ふと、勤務中にボンヤリしていた自分に対する、ソフトな注意喚起である可能性に思い至り更に顔が赤くなった。

「お呼びでありますか」

タケオはバイロン副長の後ろ姿に敬礼しながら声を張り上げた。

 命令は、フォアマストのトップ台に上がって見張り任務に就け、というものだった。

注意散漫であった自分に対する罰直かとも思ったが、バイロン副長の様子は穏やかだった。

ただ、ベテラン下士官に警戒観測の要諦を学ぶようにと重ねて申し渡された。

 水兵はそれぞれが得意な専門分野を持つ。

しかしながら、操帆から航海、砲術、陸戦、船舶艤装に至るまで、およそ艦上のあらゆるセクションで応分の働きができるように鍛え上げられる。

軍艦では水兵の一人一人が、何でも屋になることを求められるのだった。

究極、激戦で艦長以下甲板長に至るまで幹部士官や下士官が全員戦死という事態に至っても、戦闘を継続して勝利しなおかつ生きて帰還復命すること。

そのことこそが一人前の水兵たる者に課せられた、全ての作戦任務に通底する主題だった。

何があっても生き残りそして勝利するため、水兵は不断に学び続けなければならない。

こうした海軍の方針は、元老院暫定統治機構も都市連合も変わりがなかった。

タケオの今回の学習プログラムは、見張り業務のスキルアップということなのだろう。

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