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屈辱の片隅 -SOPHIAの武道館公演によせて-

 SOPHIAは、思春期の私に屈辱の意味を教えた。

 「屈辱の意味を教えた」といっても、その音楽が自分にとって屈辱の作用を及ぼしたということではないし、もちろん当人たちから屈辱的な振る舞いを受けたということでもない。生きている時間のなかで、人は屈辱から何を受け取ることができるかを示したのが、私にとってはSOPHIAというバンドだった。時に人が自らを殺める原因にもなるであろう屈辱の感情が、どれだけ甘美で、どれだけ力強く、どれだけ自分を生かすものになりえるかを、私は彼らの言葉と音から学んだのだと思う。

「言葉」の武道館

 2022年10月11日に、SOPHIAが9年ぶりの復活ライヴを日本武道館で行った。私にとってははじめてのSOPHIAのライヴだった。3時間30分にも及ぶその時間には、ほかの誰の公演よりも「言葉」に溢れていた。会場中心の天井に備えられたモニターには、時に黒の背景に白の活字で結成から現在までの来歴が(阪神大震災・東日本大震災・COVID-19の大流行といった災害の歴史を踏まえつつ)映され、時に事前に撮影された映像の中でメンバー5人それぞれの復活に向けた感情や意気が語られ、時に演奏中の楽曲の歌詞が表示されていた。さらには、MCも非常に長かった。和気あいあいと冗談めいた言葉を交わしていた中盤を過ぎて、後半にはボーカリスト松岡充の長い独白があった。「嘘をついても仕方ないから言います。正直、苦しかった」。結成の頃のそれぞれの出会いをユーモラスに語った後で、彼はバンドの歯車を必死に回しながら空回りしていた活動期後半と、休止を決めたあとの時間の痛みを言葉に換えていた。流暢に語る松岡のリズムはあまりに巧みで、出来すぎな物語だとも思ったけれども、その告白には圧があった。巧みすぎるMCも含め、体を左右に回すアクションをキレよく適切なタイミングで繰り返し、高いキーを少ない息継ぎでなんなく歌いこなす彼の姿は、51歳という年齢を感じさせない実に堂々としたロックアイドルっぷりだ。けれども、松岡の力強い姿には、これまでの日々に彼を捉えた、そしてこれからも捉え続けるであろう屈辱がにじみ出ていた。

 もちろん、かつて「黒いブーツ –oh my friend-」のリリックで松岡充が引用したデヴィッド・ボウイ『ジギー・スターダスト』の物語を引き合いに出すまでもなく、スターの生は常に屈辱と隣り合わせであり、松岡の姿もロックスターの系譜に忠実なだけに過ぎないともいえる。なにも目新しいことはない、それはそうだ。しかしながら、彼はあまりに自らの情けなさに忠実だった。自分が多くの人にとってアイドルであることは自覚していても、騙す演技はできない。「俺はしょぼい人類の一員に過ぎないんだ」という自覚を、どこかで洩らしてしまう。その姿は、マリリン・モンローやカート・コバーンの一瞬で燃え尽きるような屈辱ではなく、生き延びながらなんとなく人生を終えてしまうことの屈辱に繋がっている。そして、その屈辱の味を、私たちはよく知っている。「正直に一生懸命頑張っていけばいつかうまくいくと、みんなもそう思ってたよな?でも、そうじゃない。うまくいかないことばかりなんだよな」。そんな、正直すぎる松岡充のMCから溢れる感情を、私たちはよく知っている。

ヴィジュアル系らしからぬ癖


 SOPHIAの曲をはじめて知ったのは1997年。テレビで流れていた「街」を聴いて、その抜けの良さと切なさを心地よく感じ取った記憶がある。その直後に私はヴィジュアル系バンドばかりを聴くバンド少年になるのだが、『little circus』『ALIVE』といったSOPHIAのアルバムから響く音は、ほかのヴィジュアル系バンドとはかなり違った。シンコペーションを多用したリズムのスピード感や、コーラスやリヴァーヴをかけたギターのアルペジオ、過剰に声を震わせる歌唱法など、当時のヴィジュアル系を特徴づけるサウンドをほとんど共有してなかったし、カジュアルでカラフルな服装も、黒を基調として濃い化粧を施す他バンドのファッションから外れていた。ざらついた音でコードを刻む豊田一貴のギターはUS・UKのオルタナ系バンドを想起させるもの(たとえばBlurのグレアム・コクソンやPavementのスコット・カンバーグを思わせる)だったし、リズムを後ろ気味に捉える赤松芳朋のドラムはブレイクビーツを感じさせた。ベースの黒柳能生のパンキッシュな前ノリのリズム感と赤松のドラムのコンビネーションは心地よいぎこちなさを生んでいたし、都啓一のキーボードは、ジャズやクラシックの素養に基づいたアクセントをロックサウンドに加えていた。誰も派手な主張をするわけではないが、メンバー全員がちょっとずつ変な癖を持つバンドだった。


 1998年に狂ったようにヴィジュアル系バンドばかり聴いていた私は、その翌年にヴィジュアル系から距離を置く。ミスターチルドレンとスピッツとDragon Ashを好きになり、ほぼ同時期にオアシスやレディオヘッドといった90年代英国バンドのリスナーになる。けれど、ことSOPHIAに関してはその後も聴いていた。彼らがブリッドポップ期のイングランドのバンドや、アメリカのローファイ系のバンド、あるいは1997年頃に日本でデビューしたThe brilliant greenやSupercarに通ずる音を鳴らしていたことと関係しているだろう。また、これは私にとってはSOPHIAの少し苦手なところでもあるのだけど、「ゴキゲン鳥-crawler is crazy-」や「beautiful」など、アコギを鳴らして言葉を多めに詰め込む、70年代日本のフォークっぽい曲があるのも独特だった(松岡充の歌い方は時々長渕剛を彷彿とさせる)。


寂しさと屈辱


 SOPHIAのサウンドは、同じシーンのなかでは多彩であり、工夫も効いていた。そして、常にどこか淋しかった。メジャーコードを鳴らしても、キーボードが可愛らしい音色を鳴らしても、淋しさは常にそこにあった。なぜそう感じるのか、正直よくわかならい。一つ言えるのは、松岡充のリリックは、そうした淋しさと緊密な関係を結んでいたことだ。


何処までも続く灰色の壁に囲まれて見えやしない事ぐらい解っているよ   
   
 "little cloud"


蒼く透き通った幼い頃の夢を 忘れて行くよどんなヤツも
                       “DIVE”


 ギターカッティングが心地よいテンポ感を演出する「little cloud」の中でも、16分で刻まれるハイハットとメジャーセブンスを含むピアノとギターの音が淡い蒼さを伝える「Dive」の中でも、無力感をか細く歌う松岡の声は何よりも淋しい。それは、たとえば「ゴキゲン鳥-crawler is crazy-」の「6畳1間の鳥カゴで まずいメシ喰ってフンをして」というしゃがれ声の諧謔と響き合い、強い諦念の表出へと変わる。自分が置かれてしまった環境の中で、夢が不可避に芽生えてしまうこと。その夢があらかじめ不可能に閉ざされていること。不可能の中で無理にもがくことで人も自分も傷つけ、その責めを自分が負うこと。そうした理不尽こそが、松岡充の歌の基調を成している。屈辱とは、世界から与えられた夢が、すでに世界によって奪われていることに気づいたときの行き場のない怒りである。私たちは屈辱の中で生きることを強いられており、屈辱を尊厳に変えるために、人は音楽を必要とする。


代え難いもの


 SOPHIAを繰り返し聞いていた当時13~14歳の私は、他人と理想的な関係を作ることに躍起になっていた。マンガやドラマで観たことのある、冗談を言い合ってじゃれ合うような関係を人と築きたいと強く願っていた。絶対にそうあるべきだと信じ込んでいた。だけど、他人との距離感を掴めない私は、冗談を言うことでむしろまわりの同級生を不快にしていた。今思えば、いわゆる発達障害の一種だ。そのことに気づけなかったニキビ面の少年は、同級生たちとの会話がギクシャクしていることは意識しつつ、解決の術を知らなかった。躍起になればなるほど、歯車が狂い、空回りしていく。その繰り返しは、屈辱となって思春期の体に沈殿していった。息苦しい苦痛を、誰のせいにもできなかった。他の人間が心地よく泳ぐ海の中で、ひとり溺れもがいてるような気分だった。

 SOPHIAの歌を聴くことは、屈辱を心に慣らすための手段だった。理想は少しも叶わない。軋みはよりひどくなる。そんな日々を生き延びるための音楽だった。

 アルバム『ALIVE』の表題曲。ゆったりしたテンポのアコギから始めるフォークソングは、メロディもコードも純朴で、聴いていると少し恥ずかしくなる。しかし、その純朴さの中で、打ち鳴らされるリズムと松岡の歌は後半に向かうに従い切迫を増していく。


“偽善なんてクソ喰らえ いつでも自分に正直で…”
なんてポップスターに憧れ
大きくなったけれど何か通用しない
この時代 君は何 僕はナイ
目の前に堂々と立ちふさがる不条理な道徳(モラル)
道徳(モラル)?飛び越えて
若き戦士は 勇ましい勢いで屈辱の階段駆け昇る
そこはどこ 何がある だけど…

 ライヴでは螺旋のように繰り返し繰り返し歌われるこの箇所。「勇ましい勢いで屈辱の階段駆け昇る」と、矢継ぎ早に「K」の音をアクセント強く響かせる松岡の声を聴くと、甘美な思いが募る。ぎこちないリズムの応酬が、感情の高揚に変わる。歌われるのは、滑稽さを自覚しているのに滑稽さを逃れられないドン・キホーテのごとき人の姿。狂気に陥れない正気の痛ましさが、私の日々の屈辱と呼応して、一つに溶け合う。その痛々しい甘さは、何物にも代え難い。

 おそらく、SOPHIAの歌を聴いたからといって、私は何も成長してはいなかったと思う。他者との軋轢を繰り返す中で試行と失敗を反復する中でしか、社会的成長は望めない。音楽とはあまり関係ないところで、私は生き残る術を学んでいった。そういう意味では、別にSOPHIAの曲があってもなくても人生は変わらなかったかもしれない。ただ、屈辱が溶けたときの甘美さは、社会生活をうまくこなしていく中には含まれない、強烈な感触だった。屈辱こそが歓びの根源であり、歓びから尊厳が生まれた。私は、その屈辱と尊厳を、誰にも奪われたくないと思う。


使命


 1999年のアルバム『マテリアル』。冒頭を飾る「大切なもの」という曲は、武道館の一曲目としても響いた。ドラム缶を勇ましく叩くような甲高いスネアを伴う、三連を後ろに揺らすような楽しげなブレイクビーツから始まり、1度→5度→6度→4度というルート弾き(U2のWith or without youやSupercarのPLANETといった名曲たちと同じ進行だ)のベースが蠢く。ギターとキーボードのサウンドとメロディはどこかノスタルジックだ。牧歌的な響きの中で、松岡充はいつもより声のテンションを抑えて歌う。


何を探してんだろ この俺の心とやらは 無理に掻き回す程 ナイ ナイ ナイ
アイツ何してんだろ いつもヘマばかりしてた ガラじゃないくせに 恋 多い 多い


 先に引用した「ALIVE」にも通ずる、何もない空虚の認識。死んだ友人について歌った「黒いブーツ –oh my friend-」にも通ずる、挫折を共有する(とこちらでは感じている)友人への思い。ぼやけた景色の中で、友情の裏返しとしての孤独と、失敗の意識が強まっていく。「心とやら」と歌うところの"とやら"が、感情の源泉も不確かであることを伝えている。少しブルースマンめいたおどけた歌い方で、不確かであることの情けなさを自ら笑う。「ナイ ナイ ナイ」の「ai」の連続も、陽気で穏やかな微笑みの響きを持つ。状況は変わらない。淋しさ、道化、諦め、微笑み。不変の絶望を歌う時の態度だけが、少しずつ変わっていく。


何かに憧れて
何かを傷つけて
見つけたもの 何処に置いたっけ
大切に抱えてたものは
何処に置いたっけ


 コード進行がかわり、4度の宙ぶらりんと共に訪れるコーラスパート。浮遊感を含みつつ、抑揚を欠いたメロディと、「何か」の繰り返し。ここでの「なにか」は毎回アウフタクトで歌われていて、強く耳に残る。
 この後1度→6度→5度→4度の進行の落ち着いた間奏を挟んで、再びコーラスパートが始まるが、繰り返しはより執拗になる。


何かに憧れて
何かを傷つけて
何かにムカツイて
何かが傷ついて
何かを奪い合い
何かに微笑んで
何かを失って
涙に明け暮れて
守ったもの 何処に置いたっけ
譲れなかった想いは
何処に置いたっけ
失くしたくなかったものは
どんなものだっけ
本当に大切なものなのに
すぐ 失くなるね


 「なにか」「なにか」「なにか」「なにか」「なにか」「なにか」「なにか」「なみだ」。繰り返される不確定な対象と、その都度変わる感情の在り処。満身創痍の日々の結果訪れる、「何処に置いたっけ」の空虚。「なに」の「n」の音は「ナイ」と「失くなる」の「n」とも響き合い、空虚を増幅させる。武道館では、50歳を過ぎた人間たちが膨らんだ空虚を確かな音程と着実な演奏で鳴らしていた。その姿に、より淋しく、より頼もしい重力を感じて、たまらない気持ちを覚える。SOPHIAは屈辱と空虚を音に溶かすことを、ずっと使命にしてきてしまったバンドなんだと、強く実感する。


片隅


 データだけ見れば、SOPHIAのキャリアは栄光に満ちている。1994年の結成の翌年にメジャーデビュー。97年には初の武道館公演。その後も出す作品は毎回毎回トップテンチャートの常連で、松岡充は民放ドラマに出演する俳優にもなり、都啓一はSOPHIA以外のミュージシャンからも楽曲提供を依頼される。同時代のミュージシャンのなかでは、相対的に明らかな成功を手にしたバンドなのだ。

 それでも、彼らが屈辱のバンドであることを、私は疑わない。そもそも、音楽業界でバンドを続けていくこと自体が、虚業に身を置くこと自体が、自らの日々の惨めさを自覚させる装置である。その事実に早くから気づいたSOPHIAに、すでに回り始めた歯車を止める術はなかった。屈辱と過労働の代わりに得られる賛美は、すべてを止めるにはあまりに甘かった。結局、彼らにできたことは、屈辱と空虚を音に換えることだけだった。代表曲であり出世曲でもある「街」の時点で、透き通るような清涼感に乗せて、自らの存在を「小さな傷だらけの夢と苦笑い」という言葉で規定するようなバンドだった。

 音楽は、痛みを歓びに換える作業である。この定義が、視野狭窄なものであることは十分わかっている。作家の苦悩や大衆の不幸を特権化するような、古ぼけたロマンティシズムに酷似していることも承知の上だ。しかしながら、私は死にたくなるほど痛い心底の屈辱が歓びに溶けていく体験を、思春期にSOPHIAから受け取ってしまった。それを否定することは、どう考えても難しい。今SOPHIAを音源で聴くと、彼らの音楽において「言葉」と「意味」が強すぎることを鬱陶しく思ったりもする。単純に「キーボードがデカすぎる」とか「ボーカルがしつこい」とか感じる曲もある。それでも、彼らの「屈辱」によって世界が煌めき、尊厳の確かさが生まれることを、私は疑わない。

 私もSOPHIAのメンバーも、90年代後半から20年以上の年を重ねた。かつてのように、音楽のことばかりを考える人間ではなくなっているだろう。音楽を生業にしていても、無邪気にその力に溺れているわけではない。だとしても、屈辱から人間の生が完全に開放されることはないのだから、私もSOPHIAも、いつまでも音楽を必要としている。その事実を確かめた、日本武道館の3時間30分。屈辱の片隅に置かれた、ある一日の記憶。

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