Shun Fushimi 伏見 瞬

批評家,ライター、文筆の悪魔/旅行誌&批評誌『LOCUST』の編集長→http…

Shun Fushimi 伏見 瞬

批評家,ライター、文筆の悪魔/旅行誌&批評誌『LOCUST』の編集長→https://locust.booth.pm 12月17日に単著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』がイーストプレスより出版されます。

最近の記事

(今こそ聴きたい!)Los Campesinos!のリリシズム、およびその政治性について

 ここ数日、シカゴのインディーバンドFrikoが話題になっている。ブライトアイズやキンセラ兄弟(Joan of arc,American Footballなど)を受け継ぐ、裏がった声とハードコアとカントリーを掛け合わせた(ざっくりとエモ的な)コード進行、潰れたギターと太鼓の感触。絶妙なバランスのソングライティングに私自身も夢中になって、何度も聴いている。聴いている中で気づいたのは、ウェールズ出身のインディバンドLos Campesinos!との類似性だ。  Los Camp

    • Gustave Flaubert『La légende de Saint Julien L'Hospitalier』(『フローベール『聖ジュリアン伝』)仏語精読

      フローベールのフランス語読書を、noteとTwitterのスペース機能使いながらやってみようと思います。スペースで話して、気になったところをnoteに記載していくスタイルでやろうかと。 作品は「La légende de Saint Julien L'Hospitalier」、「聖ジュリアン伝」です。短編集『三つの物語』に収録された一作です。翻訳は蓮實重彦が1971年に翻訳したものが現在講談社文芸文庫に収められています。 フランス語はkindleで購入した『Gustave

      • これまでの「かぶふら」

        「歌舞伎町のフランクフルト学派」もはじめてしばらく経ち、そこそこの蓄積が出てきました。そうすると、前提が増えてきて、「名前は見たことけど一体何なの??」と思う方も出てくるはずです。名前を見てすぐ何をやってるかわからない。そう感じる方もたくさんいるでしょう(ごもっともです)。というわけで、2022年5月に始まった歌舞伎町のフランクフルト学派、通称「かぶふら」の今までの経緯をこちらに書き残していきます。「かぶふら」の文脈とか雰囲気が少しでも伝わると嬉しい! 歌舞伎町のフランクフ

        • とにかく、目が痛い。

           毎日、目が重たい。朝も昼も夜も寝る前も、目が重たい。  理由ははっきりしている。スマートフォンとPCを見ているからだ。自分の目や視神経は、とにかくPCの画面のライトからダメージを受けるようにできているらしい。今も、目の奥から頭にかけて痛む。   現代の、2023年の社会で生きるのに、スマホとPCから逃れる術はない。会社では資料を作ったりメールを送るために日中パソコンをみており、友人とのやりとりはLINEやDiscordで行う。わたしは日中の仕事とは別に文筆やトークの仕事もし

        (今こそ聴きたい!)Los Campesinos!のリリシズム、およびその政治性について

          Late for Brunch vol.1の記録

          小川町 POLARISで行われた『Late for Brunch!: zappak label showcase 01』 に足を運んだ。 POLARISは不思議な場所で、正方形に近い、外から見えるガラス張りの部屋で、演者と客席が斜めに対峙する。ライブハウスのゴツッとしたイメージからは遠く、もっとラフでフランクな気配が流れているのだが、スケジュールのラインナップを見る限りゴリゴリに実験的な音楽の場になっている。面白くて心地よい場所なので、なるべく続いてほしいなと思う。 『L

          Late for Brunch vol.1の記録

          山本浩貴(いぬのせなか座)における「中二病」の変形Transformについて

           第6回歌舞伎町のフランクフルト学派のゲストに、いぬのせなか座の山本浩貴さんを迎えます。イベントの詳細は、上の宣伝文、および西村さんの告知をご確認ください。以下に続くのは、山本さんについてより詳しく紹介するために、私が勢いで書いた文章です。ちゃんとしたプロフィールと活動来歴は、いぬのせなか座のホームページをご覧いただければ。  山本浩貴のことが最近少しずつわかってきた。いぬのせなか座を中心とする山本の活動はおそらく、中二病的なのだ。ただし、中二病を別の形に変換する運動が常に

          山本浩貴(いぬのせなか座)における「中二病」の変形Transformについて

          日本が無視したトランスジェンダー・パンクスの世界 -Against Me!/Transgender Dysphoria Blues-

           『Rolling Stone Japan vol.23』ガールグループ特集に、「ガールグループという呼称が消え去る明日のために」と題されたコラムを寄稿した。トランスジェンダーの生存と尊厳をめぐる諸問題を考えつつ、「ガール/ボーイ」の線引きについて疑を呈した文章だ。その中に、言及されないトランスジェンダーの表現の例として、Against Me!というパンクバンドのアルバム『Transgender Dysphoria Blues』(2014年)の紹介をした。米国では当時の本家R

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          日本が無視したトランスジェンダー・パンクスの世界 -Agai…

          マティス展に関する覚え書 ー「メディア・アーティスト」としてのアンリ・マティスについてー

           東京都美術館のマティス展での一番の発見は、アンリ・マティスが間メディア的な作家だったということだ。俗な用語を使えば、「メディア・アーティスト」である。マティスがメディアの性質と差異に感応する人物であったことに、今回の回顧展で気づいた。  https://www.tobikan.jp/exhibition/2023_matisse.html  作家の生の時系列に並ぶ回顧展は、その伝説的な側面でなく、今日をなんとなく生きる私たちと地続きな側面を見せる。私はアンリ・マティスと

          マティス展に関する覚え書 ー「メディア・アーティスト」としてのアンリ・マティスについてー

          ワワフラミンゴ主催:演劇とコントと紙芝居と音楽の会「失くしもの」@三鷹SCOOL を観ての感想

          いささか個人的な話をすると、2019年ごろに演劇・舞台を観るのが辛くなって、それまで年に50〜100本の公演を観ていたのだが急に刺激も楽しさも感じられなくなった。理由はよくわからない。ただ、その中でも毎回観たいと思える、観るたびに感性と知性を動かす劇団が三つあった。劇団どくんご、新聞家、そしてワワフラミンゴです。 どくんごと新聞家の話はまたどこかでするとして、今回はワワフラミンゴに話を絞る。最初に観たのは2014年12月に五反田アトリエヘリコプターでの公演「ホーン」で、とに

          ワワフラミンゴ主催:演劇とコントと紙芝居と音楽の会「失くしもの」@三鷹SCOOL を観ての感想

          Sign Magazineの年末ベストで段落分けされてなかったのが悔しいので段落分けして自分のnoteにもアップしてみるの巻

          昨年度(2022年)末にSign Magazineの年末ベストのレビュワーとして参加したんですが、段落分けが反映されていませんでした。というか2021年の時も反映されていなかったので「あ、来年は気をつけなきゃ」と思ったはずなのにすっかり忘れてました・・・。  段落分けって実は重要で、あるとないとで読み心地がだいぶ変わります。Sign Magazineの更新が昨年末で終了してしまったので次がありません。ちょっと悔しいなと思っていたので、勝手に段落したものをこちらにアップします

          Sign Magazineの年末ベストで段落分けされてなかったのが悔しいので段落分けして自分のnoteにもアップしてみるの巻

          戦いの人、手条萌

           手条萌を知ったのは、いつぞやの文学フリマ東京の会場で西村紗知がいつもより高い調子でこういった時だ。 「わたし、この人と話したい、友達になれる。」  西村の手の中には「漫才論争」「ゼロ年代お笑いクロニクル」と書かれた同人誌があった。同じ本を、私もすぐに入手した。その著者が、手条萌だった。  この文章は、「第3回 歌舞伎町のフランクフルト学派」のゲスト、手条萌を紹介する意図で書かれている。多くの人にとっては未知の人かもしれないが、私にとっては批評の極北を生きる人として、敬意と

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          批評と大衆 〜「第3回 歌舞伎町のフランクフルト学派」準備中に私を悩ませるあれこれ〜

          「第3回 歌舞伎町のフランクフルト学派」のテーマを「お笑い」にすると宣言した時から、どうにも自分の中に粘着質の感情がこびりついている気がして、困っている。このままだと、当日に面白い話ができなそうだ。今は、悪魔祓いの意味を込めて、この文章を書いている。 私は、お笑いに関して詳しい人間ではない。この数週間はお笑いのライブに行ったり、ネットでネタ動画や過去のM-1を観たり、関連図書を読んだりしているが、付け焼き刃にすぎない。2014年にテレビを持たない生活を始めて以来、本当にお笑

          批評と大衆 〜「第3回 歌舞伎町のフランクフルト学派」準備中に私を悩ませるあれこれ〜

          Big Thiefと湿った木箱の幻想 -2022年11月18日:LIVE@Spotify O-EAST-

           当然ながら彼らは、音を楽しむために、あるいは音で楽しませるために巨大な鉄の塊に搭乗して海を越えてやって来たのでない。ドラムセットの前に座るラフなネルシャツ姿のジェームズ・クリヴチェニアがマイクに顔を向けて短く声を切る。その声の音声信号がスピーカーを通過する頃には、男の声は逆再生する残響音に巻き込まれ、凶暴かつ繊細な風の鳴き声となって部屋に広がる。どこから鳴らされてるのかも定かではない持続音が重なりあい、なにやらただならぬアンビエンスとなって、観る者の空間把握は変調をきたす。

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          屈辱の片隅 -SOPHIAの武道館公演によせて-

           SOPHIAは、思春期の私に屈辱の意味を教えた。  「屈辱の意味を教えた」といっても、その音楽が自分にとって屈辱の作用を及ぼしたということではないし、もちろん当人たちから屈辱的な振る舞いを受けたということでもない。生きている時間のなかで、人は屈辱から何を受け取ることができるかを示したのが、私にとってはSOPHIAというバンドだった。時に人が自らを殺める原因にもなるであろう屈辱の感情が、どれだけ甘美で、どれだけ力強く、どれだけ自分を生かすものになりえるかを、私は彼らの言葉と

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          屈辱の片隅 -SOPHIAの武道館公演によせて-

          〈二者〉の哲学者、國分功一郎

          (批評再生塾、國分功一郎ゲスト回の提出文です) はじめに. ーーかつて古代ギリシアに存在していた「中動態」という文法概念を繙くことで、私たちが普段何気なく使う「意志」や「責任」という概念を詳細に再検証し、個人にとってありうべき自由の姿を素描するーー國分功一郎『中動態の世界』の企図を概観すれば以上のように述べられるだろう。本書が医学書院から出版されているのは、「意志」や「責任」の再検証がある種の精神疾患、たとえばアルコール依存症の患者の治療に役立つと考えられるからだ。「中

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          マルティンさんのいえ

          (批評再生塾、大澤真幸ゲスト回の提出文です) 1. マルティンさんは1889年、帝政ドイツ南西部の小さな村、メスキルヒで生まれました。同じ年に生まれた人に、画家志望だったアドルフさん、アドルフさんを真似した格好で映画に出たチャーリーさんがいます。お父さんのフリードリヒさんはカトリックの聖マルティン教会の寺男で、マルティンさんの名前も教会から取られました。マルティンさんの住むおうちは教会の左手に三軒ある家の真ん中で、マルティンさん一家はその二階でくらしていました。あまりお

          マルティンさんのいえ