〈二者〉の哲学者、國分功一郎


(批評再生塾、國分功一郎ゲスト回の提出文です)

はじめに.

ーーかつて古代ギリシアに存在していた「中動態」という文法概念を繙くことで、私たちが普段何気なく使う「意志」や「責任」という概念を詳細に再検証し、個人にとってありうべき自由の姿を素描するーー國分功一郎『中動態の世界』の企図を概観すれば以上のように述べられるだろう。本書が医学書院から出版されているのは、「意志」や「責任」の再検証がある種の精神疾患、たとえばアルコール依存症の患者の治療に役立つと考えられるからだ。「中動態の世界」は、言葉に心を絡み取られた個人を救済する。では、個人ではなく社会ならどうか?


1.

この第三期批評再生塾の講義において、東浩紀は「日本はそもそも責任主体を明確にしない中動態的な社会である」と語っていた。主体が曖昧なまま漂う「空気」に従ってあらゆる決定がなされていくと。この指摘は、國分が積極的に関わった小平市の都道328号線問題において、誰の意志かもはっきりしないまま行政側が「空気主体」的に計画を進めていった事態と一致する。

また、前回の再生塾では、ゲスト講師の大澤真幸が「英語をはじめとする欧米圏の言語では中動態は排除されているが、日本語では中動態が温存され、自然に使用されている」という旨のことを述べている。日本語の自動詞を確かめればいい。國分が参照したバンヴェニストの能動態/中動態の定義によると、「能動では、動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」。翻って、日本語の「起きる」「汚れる」「変わる」「わかる」などの自動詞はすべて主語が過程の内部にある。同時にこれらの自動詞には「起こす」「汚す」「変える」「わける」といった対となる他動詞が存在しており、それらは主語の外で行為が完遂している。日本語の他動詞/自動詞の対立項はバンヴェニストによる能動態/中動態の対立項と一致する、つまり日本語の自動詞は中動態の役割を果たしている。國分は中動態が言語体系において抑圧されていきたと書いているが、日本語においては自動詞のなかで中動態が堂々と生き続けているのだ。

日本社会の状況と日本語文法を鑑みれば、日本では中動態ではなくむしろ能動態的な態度がとれないことが問題なのではないか?私は再生塾講義の最後に大澤にそのような質問してみた。大澤の答えは、中動態を日本社会に適応したらダメになる、個人が中動態の概念を使って自らを理解することが要諦なのだ、というものだった。

だが、日本が中動態的な社会だとしても、意志や責任を問われる、つまり能動態的な態度を求められる場面は無数に存在する。中動を温存しつつ、能動を求めること。ここに、矛盾が生じている。矛盾が解消されないまま投げ出されているということは、日本の社会を全く分析できていないことと同じだ。だとしたら中動態の概念は、社会分析に全く役立たないことになる。國分は、哲学はアクチュアルな社会問題と結びつかなければいけないという倫理を持った哲学者だ。だからこそ、小平の住民投票にも積極的に参加したし、保育の問題や環境問題などあらゆる社会の難題に対して言葉を投げかけている。思索と実践を結びつける哲学者の提唱した概念が社会を捉えられていないとすれば、『中動態の世界』は失敗作と呼ばれても致し方ない。本当に、中動態の概念は、國分の言葉は、日本の社会を捉えられていないのだろうか?

2.

2017年9月30日に行われた猫町倶楽部という読書会にゲスト参加した國分は読書会後に講演を行った。そこで國分はハンナ・アレントの〈二者〉について論じている。以下はその概要だ。

アレントは『人間の条件』の中で、政治と哲学を厳密に分けている。政治は「多者」に、哲学は〈一者〉に。アレントによれば政治とは〈多者〉が持つ様々な主張・意見を仲介して、最適解となる折衷案を導こうとする営みであるが、哲学は一人の人間が孤独のうちに真理を嗅ぎ取り、その思考を突き進めていくものである。政治は〈多者〉の相対的「意見」を扱い、哲学者は〈一者〉の絶対的「真理」を扱う。

ここでアレントは〈一者〉をさらにSolitudeとLonelinessの二つに分ける。Solitudeとは、Two-in-Oneとしての〈一者〉であり、それは思考が始まるための条件である。人は一人でいるからといって全くの孤独というわけではない。「自分自身を同伴している」という考えを持つことができる。自分の中にもう一人の自分を見つけ、彼と対話することができるのであり、そのTwo-in-Oneの対話こそが思考となっていく。つまるところ、Solitudeは正確には「一者」ではなく「二者」なのだ。

ではLonelinessはどうか?この言葉を考える時に役立つ人物、それはイエス・キリストだ。イエスは「右手のしていることを左手に知られるな」と言ったと伝えられている(マタイ福音書・6章・3節)。アレントはこう書く。「善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためだけになされるという善の特殊な性格を失う」。善は、誰にも知られてはいけない。自分自身の中の他者、つまり右手にとっての左手に知られることも許されない。そこにはすでに善行によって自分という存在が承認されるという利害の意識が生じており、もはや純粋な善とは呼べない。善とは完全な一者、Lonelinessの中にだけ存在する。だが、Lonelinessは複数性という人間の条件とあまりに矛盾しているため、人はそれにとても耐えられない。だから善行を目撃する唯一の想像上の証人、神を必要とする。ここに超越者、神との二者関係が生じる。SolitudeにもLonelinessにも〈二者〉関係が見られる。純粋な一者を、アレントは認めていない。

アレントは政治に哲学を持ち込むべきではないという。絶対的で強制的な真理は、〈多者〉を踏みにじる暴君を生み出すからだ。フランス革命の担い手の一人、ロビスピエールは自分自身の〈二者〉と向き合い、見出した「真」を信じるあまり粛正と恐怖政治を敢行するに至った。「善」はもっと危険だ。人類を滅ぼしかねない観念である。國分も論じている『ビリーバッド』においてビリーをイエスと重ねるアレントは、スタッガードの殺害をビリーの善が露出した結果だと捉えた。ビリーもスタッガードも善によって身を滅ぼしたのだ。

アレントは善を恐れている。同時に善を求めるキリスト者の存在に深い憧憬を抱いている(彼女の博士論文はアウグスティヌスの愛の概念について書かれたものだ)。アレントは〈一者〉と〈多者〉の間に引き裂かれた思想家だと言える。

國分はこのようなことを語ったあとで、何故アレントは単純な〈二者〉について触れなかったのかと言う。部屋に誰かと二人きりになるとか、単純な〈二者〉について何故言葉を使わなかったのかと。この〈二者〉という概念にはもっと考えるべきことがあるのではないか?そのような問いを開いて、講演は終わりを迎えた。

ここから先は國分が語ったものではないが、アレントにとってみれば単純な二者関係はすでに〈多者〉の範疇だったのだろう。その〈二者〉にはTwo-in-OneのSolitudeが二つ含まれているのだから、アレントの言う意味ではそこにいるのは2×2=4、四者関係であり、〈多者〉の範疇だ。

だが、ごく一般的に考えても、二人であるということは三人以上の状況にあることとは異なる体験である。二人でないと話せないことがある、という状況は世の中に溢れかえっている。別に一般論によってアレントを反駁しようとしているわけではない。重要なのは、國分はすでにアレントとは異なる〈二者〉のイメージを知っているということだ。

3.

『ドゥルーズの哲学原理』において國分が追求しているものは、端的に言ってドゥルーズにおける〈二者〉だ。

ドゥルーズははじめ〈一者〉は存在しなかったという。なぜなら〈一者〉は自らが一人であるという意識など持たないからだ。無人島に一人で生きる、〈他者〉を存在の条件としないロビンソン・クルーソーにとっては自らの視界に入らない世界、例えば岩場の裏側は存在しない。見えていないものを想像するには他者への想像力を要するが、彼は全くの一人であるからそんな想像はできない。むしろ、思考すらしない。思考とは、他者と出会うことではじめて発生する現象だ。アレントはそもそもが異なる意見を有する人間の複数性を措定したが、ドゥルーズは異なる意見が生じる発生を辿る。そしてその発生起源は〈二者〉に見出せる。〈二者〉なしでは〈多者〉は生まれない。そしてTwo-in-OneのSolitudeも超越者を求めるLonelinessも、思考の条件たる〈二者〉の遭遇があってはじめて想像される。〈多者〉も〈一者〉も、〈二者〉の出会いの効果でしかない。〈多者〉と〈一者〉は「他」を拒絶する点において非常に近しい特徴を有する。「他」との遭遇を回避しながら一つの全体として収縮することを目指す。〈二者〉なしの〈多者〉を人は、全体主義と呼ぶ。それが政治体制として〈一者〉の独裁を意味することは誰もが知っている。

アレントにとっては〈一者〉は〈二者〉に、単純な〈二者〉は〈多者〉に吸収されるものだったが、ドゥルーズにとって〈二者〉は思考の発生起源であり、後から訪れる〈一者〉や〈多者〉とは一線を画している。國分功一郎はドゥルーズの〈二者〉の側に立つ哲学者だ。博士論文を基にした最初の単著『スピノザの方法』のあとがきにおいて、指導教員であった森山工から受けた指摘について國分はこのように述べている。

その森山先生から何度も繰り返し伝えられ、結局乗り越えられなかったのが「國分さんはスピノザをひとりで文章を読んでいる」という指摘である。本書の結論はいつのまにかこの指摘への応答になっていた。だが、自分ではなおも「ひとりで読んでいる」とはどういうことなのか、また「誰かと一緒に読む」あるいは「誰かと一緒に考える」あるいは「誰かと一緒に考える」とはどういうことなのかがわかっていない。私はおそらくそこに到達しなければいけない。

ここで書かれていることは「どのようにすれば〈二者〉であることができるか」という問いだ。國分の著作は以降この問いに向けて書かれることになる。

4.

『暇と退屈の倫理学』の文章において特徴的なのは、議論において参照した著作家への〈呼びかけ〉だ。


パスカルは述べていた、「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋のなかに静かに休んでいられないことから起きるのだ」と。これはまさに定住以後の人間の不幸だ。だがパスカルよ、人間が部屋のなかに休んでいられないのは当然のことなのだよ!

あきれたことにガルブレイス本人も次のように述べている。「この階級〔新しい階級〕の一員が給料以外には報酬のない通常の労働者に没落した場合にくらべれば、封建的な特権を失った貴族の悲しみも物の数ではないだろう」。その通りだ。そしてガルブレイスよ、よく聞け。君こそがこの「悲しみ」を作り上げているのだ。 コジェーヴよ、お前は自分がテロリストに憧れる人々の欲望を煽っていることがわかっているのか?お前の壮大な勘違いはけっして無垢ではありないのだ。


今起きているのはいささか奇妙な事態だ。「よ」という終助詞によって、議論で参照した思想家・哲学者に対する批判意見を当の本人に向けて発していることは引用部からだけでも察せられるが、呼びかけている人物たちは全員この世にはいない。すでに亡くなっている人間が本を読むことはできないと常識的に考えれば、この〈呼びかけ〉は少し滑稽にも思えてこないだろうか。「ガルブレイスよ、よく聞け」と言われても、すでにガルブレイスの耳は焼かれているか土に埋められていることだろう。

だが、國分が〈二者〉を追求する者であることを確認したわれわれにとっては、この〈呼びかけ〉は孤独に本を読み書く〈一者〉としてではなく、自分が読んだ本を書いた著者との出会いと対峙を通じて〈二者〉として読み考えるという感覚を読者に呼び起こすための装置であることがわかるだろう。パスカルもコジェーブもガルブレイスも、國分が具体的に〈二者〉関係を結ぼうとした相手なのだ。國分は、『暇と退屈の倫理学』の読者にも同じような〈二者〉関係を結んでほしいと望んでいる。

『ドゥルーズの哲学原理』では、〈二者〉を重んじたドゥルーズが具体的にどのような「方法」を採用したのかを論述している。ドゥルーズはヒュームやニーチェ、プルーストなど特定の哲学者や作家を相手取ったモノグラフィーを多く残しているが、その際に使われるのが「自由間接話法」である。直接話法でも、間接話法でもない、地の文に他者の言葉が突如侵入してくる自由間接話法によって、ドゥルーズは対象の哲学者とそれを語る自分との境界を曖昧にする。書かれた言葉の主体がニーチェなのかドゥルーズなのかがわからない、〈二者〉が混ざった状態で書かれたテクストを産出している。一人の中に〈二者〉がいるTwo-in-Oneではなく、〈二者〉の混ざりあいによって一つの本が書かれる、いわばOne-in-Twoをドゥルーズは実践している。

また、ドゥルーズは『アンチ・オイディプス』『カフカ マイナー文学のために』『千のプラトー』という精神科医フェリックス・ガタリとの共同執筆の著作でも知られている。長い間謎に包まれていた二人の共同作業のあらましは、ガタリが荒削りのまま提示する概念語をドゥルーズが体系化し、ドゥルーズが中心となって執筆作業をすすめたというものであると今では判明しているが、ここにはより徹底されたOne-in-Twoがある。ガタリの提示した概念によって呼び起こされたドゥルーズの言葉は、もはや「ジル・ドゥルーズ」という単独名では表せない。「ドゥルーズ=ガタリ」という〈二者〉の著作として記名されている。『ドゥルーズの哲学原理』に〈二者〉という言葉は一度も記されていないが、國分がみているのは〈二者〉の著作家としてのドゥルーズに他ならない。

國分は対談を頻繁に行い、それが書物として刊行されることが多い。中沢新一との対談本『哲学の自然』、古市憲寿との対談本『社会の抜け道』があり、また、石岡良治『視覚文化「超」講義』、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』などの著書にも著者と國分との対談が掲載されている。さらには國分は『哲学の先生と人生の話をしよう』という一般読者から寄せられた相談に答えるという人生相談本まで出版している。これほどまでに対話を書籍化している哲学者はあまり例をみないのではないか?この人生相談本のあとがきで國分は相談者から届いた言葉に対して「まるで哲学者が書き残した文章のように一つのテクストとして読解していた」と綴る。これは裏を返せば哲学者の文章を読む営みも、一般読者とのやり取りと同じものとして捉えているということだ。以上のようにみていけば、國分の著作が〈二者〉の実践の結実であることが理解される。前述したように〈一者〉と〈多者〉は大きさは異なるが同じ形をもつ相似物であり、〈二者〉における「出会い」を損なった「孤立した全体」である。國分はその「全体」を〈二者〉へと分断して、「出会い」の場を創出する。

5.

國分が〈二者〉の哲学者だということは『中動態の世界』も〈二者〉と合わせて考察するべきであることを意味する。國分はスピノザが世界の因果性を全て中動態的に、自らを過程として〈変状〉していくものと論証する。スピノザにとっては全ての存在は神が変状したものであり、神の外に世界はないのだから全ての変化は過程の外では起こりえない。故に、世界は全て中動態であると論述した後に、このように述べる。

われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。

語られているのは、能動/受動の定義を一般的に考えられているような「行為」の方向ではなく、中動態的な内在変化において本質が表現されているかどうかという変状の「質」によって捉え直すということだ。

では、思考する存在としての人間の本質とはなにか。それは思考を発生させる原因となる様態、つまり〈二者〉の関係性だ。人間が自らの本質を表現しながら生きるには〈二者〉でなければいけない。このように考えれば、中道態を温存しつつ、個人に能動を要求するという日本社会の二面性も説明がつく。日本の社会は〈二者〉のない〈多者〉の社会である。〈多者〉は人間の本質様態を見失った「受動」的な存在であり、自らの本質がわからないままで流されていくしかない。こうした「受動」的な社会が、「意志」や「責任」の名の下に個人に対して強制的な「受動」を要求する。中動態とはそもそも世界そのものの有り様であり、日本のような個別の共同体に限った様態ではない。むしろ、日本の社会はスピノザが定義した意味における受動態の社会なのだ。

議論をまとめよう。國分はドゥルーズから〈二者〉においてはじめて思考が発生するという人間の起源を学び、スピノザから変状の中に自らの本質が表現されることに自由があることを学んだ。〈多者〉であることはアレントが言うように人間の条件となっているが、〈他者〉は人間の本質に適さない自由なき様態である。人間が自由に、本質的に生きるには〈多者〉を〈二者〉へと分かつ術を学ばなくてはいけない。國分の著作活動はその実践として捉えられる。

6.

ここで確認しておきたいのは、國分が〈二者〉関係を「コミュニケーション」として思い描いていないということだ。「現代思想2017年8月号「コミュ障」の時代特集号」に國分と千葉雅也の対談「コミュニケーションにおける闇と超越」が掲載されているが、この中で國分は「教育はコミュニケーションではない」ということを強く強調し、コミュニケーションという言葉自体が「独立した主体が対峙する図式をイメージさせずにはいない」ものであることが問題だと発言している。では、コミュニケーションではない、情報伝達や意思疎通とは異なる〈二者〉とは、一体どのようなものか?


ヒントとなるのは、國分の著作に現れる「二重性」だ。

國分の単著には冒険譚、あるいは英雄譚の構造が見られる。ある目的のために、様々な場所を尋ね歩き、敵と闘い、アイテムを手に入れ、最後の敵に挑戦する。そうしたロールプレイングゲームのような物語構造が見られるのだ。『スピノザの方法』では、スピノザにおける「方法」という概念を把握するために、方法論が書かれた『知性改善論』に対して挑み、そこで生まれた矛盾を繙くためにデカルトとスピノザの文献の比較を行い、得られた知識を武器に再度「方法」に挑戦する。『暇と退屈の倫理学』では人は暇と退屈とどう向き合うべきかという問いに対して、あらうる哲学者の思想と出会い、時に敵対しながら、その過程で得た「定住革命」、「環世界移動能力」といった概念アイテムを携えて、「退屈論」のボス、ハイデッガーを乗り越えんとする。『中動態の世界』にも同様の構造を見出せるし、『ドゥルーズの哲学原理』はドゥルーズの「冒険」の跡を辿る「物語」となっている。加えて、國分は「物語」の結末にしばしば大げさな言葉を書き記している。『暇と退屈の倫理学』の第七章、本論の結部には「あるときに人間が開けてしまった退屈というなのパンドラの箱にはたしかに希望が残っているのである」とあり、『中動態の世界』の本論は「これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」と結ばれている。この二つの文が大げさに感じられるのは「希望」という名詞に「残っている」「わずかな」という希少性を表す記号の衣装が着せられているからだ。人類にのこされたわずかな希望を主人公が発見して救いの道を見出す。まるで『インターステラー』や『寄生獣』のような、選ばれた主人公が地球規模の危機と対峙する物語のようだ。

以上のことから、國分の著作はある概念について思索を重ねていく哲学書であると同時に、國分自身を主人公にした冒険物語だと言える。そのことが多くの読者に読まれている理由の一つだと思われるが、英雄への欲望を強調したのは國分の人気の理由を探るためでも、國分を「英雄気取り」だと批判するためでもない。

7.

古典ギリシア芸術の研究で知られるジェーン・エレン・ハリソンは『古代芸術と祭式』において、

英雄という個人を讃える叙事詩の形式は集団性のうちに行われてた古代の祭式踊りから移行した者だと語った。〈多者〉の祭式から〈一者〉の英雄叙事詩へ、という変化である。同時にハリソンは英雄詩が作られるには、新らしい若き民と古い富裕な文明の民との出会いがなくてはいけなかったという。故に、英雄叙事詩には安定した共同体世界から切り離され、船に乗っていくつもの闘いを繰り広げる英雄が登場する。つまり、「英雄」とは〈多者〉から切断され、異郷の地で「出会い」を繰り返す〈二者〉なのだ。さらに言えば、英雄叙事詩から発展したギリシア悲劇の発生期と古代ギリシア哲学の勃興期が重ねっている(たとえば悲劇詩人アイスキュロスと万物流転の哲学者ヘラクレイトスは同時代人である)。英雄物語と西洋哲学の祖は同時期に同じギリシアで誕生していることを考えれば、國分が哲学書でも英雄譚でもある書物を記すことはその起源に相応しい所作であるとすら言える。

國分の著書がギリシア哲学の反復でないのと同じように、英雄譚の反復でもない。國分は、著書のまえがき、あるいはあとがきに「英雄」とは異なる自画像を示す。『スピノザの方法』のあとがきでは、自分の確信が博論の事前審査の場などで全否定され、デカルトのように全てを疑いの目で見てしまうようになった時期のパラノイアックな心境が綴られる。『暇と退屈の倫理学』のまえがきでは、スポーツバーで騒いでるのに全く楽しそうに見えない男や、留学相談センターで具体的なことを話せないままただ「美術に関心がある」と繰り返していた女子学生など、「俺」の記憶に強く残っている、なにかに囚われている人々の姿が描写され、彼らは自分に似ていると綴る。この「俺」も、本論で活躍する英雄的な哲学者も「國分功一郎」以外の誰とも考えられないのであり、それは一冊の本の中に二人の「國分功一郎」が登場することを意味する。活動的に冒険する英雄と日常の中で囚われの身となる凡人。この二人の関係の中に、國分功一郎の哲学はある。


書物はそれを書く「私」とそこに書かれた「私」の分裂を必然的に招き寄せるが、國分はその分裂性を利用して「英雄」と「凡人」を一人の名において同時に表現する。「英雄」と「凡人」は一人のなかで相互に影響を及ぼす中動態的な〈二者〉となる。彼らはそれぞれ現実的な存在ではないし、コミュニケーティブな対話も行っていない。ただ彼らは一つの本のなかで「出会う」。〈二者〉の出会いが思索を形成していく。この〈二者〉はアレントのいうTwo-in-Oneと同じようで実は異なる。知の英雄譚をくぐりぬけてきた「國分功一郎」にとって、日常に囚われたままの凡人「國分功一郎」は過去の自分、またはあり得たかもしれない可能世界の自分、もしくは「冒険」との裏で日常を生きる生活者としての自分である。今ここに発生するTwo-in-Oneの〈二者〉ではなく、時間軸や位相空間を異とする〈二者〉なのだ。「過去」と「現在」の〈二者〉、「潜在」と「現在」の〈二者〉、あるいは「冒険」と「日常」の〈二者〉が出会うこと。そこには、一方がどちらか一方を支配したり否定したりするのではない、共に在ることで思考を生み出していく本質的な関係が存するだろう。

8.

最後に、『中動態の世界』がメルヴィルの小説の中動態的分析で終えたのに倣って、本稿でも芸術作品を〈二者〉の概念から把握することで締めくくりたい。國分と同じように、二人の自分の出会いを生む〈二者〉の芸術を作り出す存在が今の日本にいる。それはロロという劇団だ。


2009年に旗揚げした、ギリシア叙事詩を起源祖にもつ現代日本演劇の末弟は、自らの演劇を「漫画・アニメ・小説・音楽・映画などジャンルを越えたカルチャーをパッチワークのように紡ぎ合わせ、様々な「出会い」の瞬間を物語化する(ロロ公式HPから抜粋)」ものと形容する。ロロの演劇にはいくつもの元ネタが用意されており、演者達が突然映画『GO』のセリフを大声で発したり、ハイロウズの歌を口ずさんだりする。ポップカルチャーの担い手となるスター達が、彼らにとっての「英雄」だ。


ロロのメンバーが特に強く敬愛の念を表明している存在がSMAPだ。その思いは演劇内でSMAPの解散がネタになるだけに収まらず、SMAPをテーマにしたミュージカル演劇も上演しているほどである。ロロの演劇は、全体的にSMAPがかつてテレビのなかで体現していたある種の親しみや眩しさを感じさせるものがあるのだが、同時にそこには痛みのようなものも観る者に覚えさせる。それはSMAPのような「英雄」的なポップスターが、「平凡」な自分達とは間違いなく異なる特別な存在であるという絶対的な距離感を否応が成しに思い起こさせるからだ。テレビとは不思議なもので、そこに出演している人物がまるで近しい友人のように感じられてくる。特に思春期前の子どもにとってはそうだ。だが、実際には彼らはこちらのことなど知るわけもないし、テレビに映る彼らは実際には厳密に作り込まれた虚構性のものであることがわかってくる。親しみを感じていた眩しい彼らは現実には存在しない。この認識の痛みを、ロロの演劇は思い出させる。上演の間に現れる、歌って踊て笑う眩しい彼らは虚構の中にしか存在しない不実在の人物達であり、観客との間に絶対的な距離が在る。だが、ロロはSMAPをはじめとするポップカルチャーの眩しさを劇中において再現することで、作り手と観客とのつながりも作り出す。この演劇の作り手達もポップカルチャーとの絶対的な距離感に疼くような痛みを、今観客が感じてたものと同質の痛みを感覚しているということを理解させるからだ。キラキラしたものとは全く無縁の、暗く冴えない「凡人」の姿が「英雄」の眩しさと同居しているということ。そして、「凡人」「英雄」が否定しあうことなく共存しながら、さらなる演劇を生み出していくこと。この二重性がロロの演劇の特異点となっている。

加えて、ロロの演劇においては日常ではありえないはずの、「そこにいないもの」との「出会い」が幾つも起こる。旅先で10年後の自分達と出会い、深夜の学校でひきこもりの少女と幽霊となった女生徒と出会い、家の裏で自らが作り上げた想像上の友達と出会い、旅路の果てに亡くなったかつての恋人と出会う。そこにいないはずのものたちとの幾つものの「出会い」によって、物語は広がっていく。その物語の起点には「凡人」と「英雄」という〈二者〉の「出会い」がある。ロロは演劇を通して、多様な〈二者〉の在り方を観客に提示する。それは「空気主体」によって全体が包まれる日本社会を〈二者〉のナイフで切り裂いていく、極めて政治的な演劇なのだ。

おわりに.

〈二者〉関係をもつものは現実的な存在でなくても構わないし、コミュニケーションを取る必要もない。読書という営み自体にも同様のことが言える。読むものは、書き手自身とは異ならざるを得ないフィクショナルな著者と「出会い」、思索をはじめる。その書き手がすでに死者になっているとしても、「出会い」は生じる。『暇と退屈の倫理学』のように、フィクショナルな著者に言葉を投げかけることもできる。そもそも書き手となった者も、もとは誰かが書いた本を読み、「出会い」を経たことによってはじめて本を書くことができたのだ。書物とは、〈二者〉の出会いの連続により紡がれ続けた文化形態である。そして、書物は、書かれただけでは存在しないのと同様である。読者との「出会い」を通してはじめて書物としての本質を表すことができる。読書とは「出会い」によって存在の本質が表現されて思索が開始する〈二者〉の場なのである。この「読書」の二文字を「演劇」にいいかえても、さらに「芸術」にいいかえても、同じことが言えるだろう。

〈二者〉とは、以上みたように「出会い」によって思索へと共に巻き込まれていく中動態的な関係を指すものである。それは、死者やフィクショナルな存在との間にも生まれる関係であり、個体間の受動/能動で捉えることしかできないコミュニケーションとは確かに異なる性質を持つ。〈二者〉の連鎖の上でおいてはじめて、人間社会は本質的な自由を手にすることができるのであり、〈多者〉を〈二者〉の出会いの場として切断し続けることこそが、自由な社会を形成する唯一の手段である。「凡人」と「英雄」の二重のエクリチュールにおいて考察を広げる國分功一郎は、やはり〈二者〉の哲学者と呼ぶにふさわしい。

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