マルティンさんのいえ


(批評再生塾、大澤真幸ゲスト回の提出文です)

1.

マルティンさんは1889年、帝政ドイツ南西部の小さな村、メスキルヒで生まれました。同じ年に生まれた人に、画家志望だったアドルフさん、アドルフさんを真似した格好で映画に出たチャーリーさんがいます。お父さんのフリードリヒさんはカトリックの聖マルティン教会の寺男で、マルティンさんの名前も教会から取られました。マルティンさんの住むおうちは教会の左手に三軒ある家の真ん中で、マルティンさん一家はその二階でくらしていました。あまりお金のあるおうちではなかったようです。元々カトリックに従事する家庭で育ったマルティンさんは大学で神学を勉強しますが、途中で哲学部へ転部。その後は哲学の教授となって多くの著作・論文を発表、1976年になくなって以降も多くの人びとに影響を与え、2018年の日本においてまでその名を知られる有名人となりました。マルティンさんは20世紀における最大の哲学者だと言われるまでになり、多くの人がマルティンさんの影響の元にそれぞれの思想を鍛えていきました。二階の狭い家に暮らしていたマルティンさんは、哲学の世界においてみんなが住む大きな家を築いたと言えるかもしれません。

マルティンさんは「存在」の哲学者だと言われます。「存在」が何かを明確に理解するのは並大抵のことではありません。「あらゆるものに先立って存在するものは「存在」である」とマルティンさんは言います。世界に存在するあらゆるものより前に、本質的な何かが存在しているということです。こう言うと、世界を創造する神様のようなものをイメージしてしまいますが、マルティンさんは「存在」は形而上学ではないと答えています。すべての存在物の根源でありながら、形而上学上の神や仏ではないなにか。途方に暮れてしまうような定義です。雲を掴むような捕らえ所のなさが「存在」の一語にあてがわれています。この「存在」を守るものが言葉だ、言葉は「存在」の家だとマルティンさんは言います。この定義も謎めいています。わたしたちはマルティンさんの定義をどのように捉えればいいのでしょうか。

2.

より理解を深めるために、批判の声にも耳を傾けてみましょう。たくさんの哲学者に大きな影響を与えたマルティンさん。その影響の中には反発も多分に含まれていました。反発にもさまざまな理由が考えられますが、先程名前を挙げたアドルフさんが率いた国家社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスを支援していたことがなにより大きかった。ご存知の通り、アドルフさん達は戦争に突入する中で、ユダヤ人を全て抹殺しようと企て、大量虐殺を敢行しました。マルティンさんはそんなナチスを応援するような演説を大学の総長として残しています。ナチス政権時代に学生たちに向かって、勤労奉仕、国防奉仕、知的奉仕を国に対して行うことがドイツ国民の努めだと宣言するマルティンさんの思想が後世において問題視されるのも自明のことでしょう。


当然のことながら、ユダヤ人の哲学者はキレキレのプンプンです。たとえば、ナチスにとらわれ、自分の命は取り留めたものの家族を失ったエマニュエルさんは、マルティンさんが称揚する「存在」という単語を「悪」へと反転させます。エマニュエルさんにとって、「存在」とは全ての主体性が奪われた後に現われるすっぱだかの生であり、そこには恐怖しかありません。「存在」は抽象的な、頭の中だけで考えられた概念ではなくて、戦争によって地球上にあらわれた実体的なひとの在り方です。「存在」は絶望的な悪です。主体性を奪われた「存在」は語るべき言葉をも奪われます。言葉によって守られる「存在」と自らを守る言葉を奪われた「存在」。マルティンさんとエマニュエルさんでは同じ言葉が真逆のものを指しているかのようです。強制収容所では人びとは名前も尊厳も奪われ、ただそこに「ある」ことの根本的な悪が露呈される。エマニュエルさんにとっては「マルティン、おまえがまじ最高とかいってる「存在」ってやつな、実際生きてみるとまじ最低だからな。なめたことぬかしてんじゃねえぞ」って感じだったんですね。


ハンナさんはマルティンさんの弟子で、あろうことか妻子持ちのマルティンさんと恋愛関係になっちゃった女性です。「存在」のような本質を前提とすることが、必然的に災厄を招くと考えました。ハンナさんは政治と哲学をはっきりと区別します。政治は多くの人のための意見を合わせて調停を図る場ですが、哲学は一人のものが絶対的な真理を追究する営みです。一人の者のための真理、哲学を政治に持ち込んだらどうなるか。独裁が起こります。真理に背く人間は全て否定され、人間の多様さが失われます。ハンナさんの言葉はプラトンの哲人政治批判という体をとりますが、ナチスに加担したマルティンさんが念頭にありました。「あんたが政治に自分の哲学なんかもちこむから世界が余計に大変なことになっちゃったじゃないか、どうしてくれるのよぉ、バカ!」と愛人を責める姿を思わず想像してしまいます。


3.

「存在」は根本的に悪ではないか。「存在」を政治的営みに持ち込むのは決定的な誤りでないか。マルティンさんの「存在」はこのように激しく批判されています。マルティンさんの思想がナチスが生んだ歴史上類を見ない災厄と関わりをもっているのだから、批判にも説得力が生じます。にも関わらず、マルティンさんの哲学は風化することなく、今に至るまで強い影響を保ち、多くの思想家に参照され続けています。何故なのでしょう。


先程述べたように、「存在」という言葉は本質に立ち返るものとして捉えられています。マルティンさんは故郷喪失という言葉で現代を批判しつつ故郷を取り戻さなくてはいけないと主張しているのだから、過去に、人類の緒源に存在の本質的な真理があるのだと考えるのは妥当です。古代ギリシア文明への憧憬を彼が語っているのだからなおさらです。ですが、同時にこうも語っています。「真理を送り届ける運命としての存在は、あくまでも隠されたままである」。隠されたものにわたしたちが呼ばれているのだとしたら、それが現われるのは今より先のこと、つまり未来になります。また、「行為」という言葉をマルティンさんは「「存在」を実らせ達成すること」と定義しています。未来において、行為によって「存在」が実り達成すること。こう書くと、「存在」とはわたしたちがより良い世界を作ろうと努めていく中で現われるものに思えてこないでしょうか。わたしたちはこの世界が完璧ではないことを知っています。個人としても人類全体としても数えきれないほど多くの問題を抱えながら、根本的な解決策を持たないまま生きています。実のところ一体なにが理想的で完璧な世界であるかもわかっていません。ですが、なんとか世界を良い方向に向けていきたいと漠然と思っています。この漠然とした理想が「存在」だとしたら?あるいは理想が達成した時にはじめて現れるものが「存在」だとしたら?マルティンさんの「存在」という言葉は、どうすればいいのかもわからない、何が良いことなのかも定かでない、それでも世界を良くしていきたいという今の人類に広く深く根ざした気分を的確に反映しているのではないでしょうか。


現代日本の哲学者の一人である功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』という本の中で、人類はそもそも定住に適していないのに環境によりある時期から定住を強いられたのではないか、そして定住生活に人類は未だに適応しきれていない、だから人類は退屈してしまうのではないかという仮説を提示しています。そこで功一郎さんはマルティンさんの「住むということの本来的な欠乏」という言葉を紹介しています。人間は未だに住むことの本質を理解していないと言う意味です。人間があるべき住み方を知らないからこれから知らなきゃいけない。それはそのまま人間が世界の条件においてどのように生きるべきかを知らなくてはいけないという意味にもシフトできます。住むということは人間のあり得るべき生き方を見つけ維持すること。マルティンさんの「住む」や「存在」の独自な使い方は、実は私たちにとってあまりに当たり前な、故に改まって指摘されることのない根本的な気分を指している。そして、非常に曖昧な「理想」や「あり得るべき生き方」を規定するもの、それは言葉です。言葉によって、私たちは茫漠としたものに形を与えることができます。例えば、日本が戦争を行わない国家であるのは日本国憲法第九条に規定されているからです。「非戦」という思想は憲法に書かれた言葉によって守られています。理想を達成するには、言葉によるイメージの共有が必要不可欠になります。こう考えると「言葉は存在の家である」というマルティンさんの出したテーゼは「理想を体現するには、理想が言葉によって形を与えられなくてはいけない」という、これまた極めて真っ当な、俗っぽいとすら言える意味を持つことになる。マルティンさんの思想は、言葉にすれば馬鹿らしいほど当たり前ですが、言葉にしない限りはふわっとしていて捉えられない私たちの気持ちを見事に表現しています。「言葉は存在の家である」という定義自体を証明するような形で、マルティンさんは言葉を駆使しているのです。多くの批判に曝されながらも、マルティンさんの思想が死なないのは、今の私たちの生の深い部分を的確に把握しているからです。


4.

マルティンさんのすごさを確認した上で、それでもやはりマルティンさんの考えには同意しかねるところがあります。それは言葉の捉え方です。「言葉が存在の家」だということは、つまり言葉が家というある強固な形式を持った構造物だとイメージされているということです。これは概念と聴覚情報の結びつきを言語の基本単位としてみなし、言語を一つの構築物と考えた『一般言語学講義』のフェルディナンさんの言語哲学と重なるものです。フェルディナンさんの固定的な言語観に反旗を翻したのが時枝誠記さんの『国語学原論』です。誠記さんは言語を、考えや感情を主体から客体へ伝える過程にあるものだと捉え、言語をより流動的に考えることを推奨します。言語は伝えようとする主体、伝える内容たる素材、伝えるための媒介をなす場という三要素が不可欠です。言語には主体の考えを伝えるものであり、その意味するところは主体の状況において異なります。「お気の毒でした」という言葉は伝える相手に対して同情を込めていると皮肉を込めているときで意味が全く異なります。これは主体から客体へ伝える過程に言語があるから起こる現象であり、言語を固定的な形式として捉える限り説明できないものです。主体と客体が変わった時に、同じ言葉でも伝わる意味が異なってしまいます。そうなると言葉は意味を守る家の役割は果たしてくれません。言葉によって「存在」を守るのなら、状況の変化に合わせて言葉を変化させつづけなければいけません。

加えて言えば、言葉は果たして守ることだけを忠実にこなすことなどできるでしょうか。言葉と思想は混ざりあうことなしには伝わっていきません。言葉なしの純粋な考えが存在しないように、考えなしの言葉も存在しない。もし、言葉の守る要素を強調するのなら、言葉は家というより、存在のお医者さんであるといったほうが適当です。言葉の適切な使用は、たしかに存在を守ることができるかもしれない。しかし、その方法はお医者さんが人体にメスをいれ、薬を処方するやり方です。つまり、病気の人間の内部をあらゆる方法で変容することで病気やケガから守っている。それは人間の状態を根本から変えることでもある。医学には整形技術も含まれますが、整形は本来の姿に戻すのではなく、姿形を変える技術です。「変える」力は整形だけではなく、医学全体の作用です。本川達雄さんの『ゾウの時間 ネズミの時間』によれば、動物の寿命はエネルギー使用量に比例するといわれており、体の動きがゆったりとした動物、たとえばゾウや亀の寿命が長いのはエネルギーを抑えて生きているからです。人間は体のサイズとエネルギー量から計算すると寿命は30年ほどで、縄文自体には実際にそれくらいの寿命であったと言われています。現在では人間の平均寿命は7〜80歳まで上昇しており、これは医学によって人が生き延びる力を身につけてきたからです。医学は人間の質を変えてしまったのです。言葉も、存在を守ろうとすることで、存在自体を変容させる作用を持ちます。つまりこう言える。言葉は存在を傷つけぬように守りながら傷つける、と。

だとするならば、言葉はやはり家のように堅固なものとは言えません。正確にはヨーロッパの家のように(マルティンさんの実家は今も残っています)。日本の家は、地震によってすぐに崩れるものです。何度も崩壊しながら、立て直していく。過ちを繰り返しながら進む医学のように、言葉を何度も変容しつづけない限りは、存在は守られません。もっとも、元のかたちは保っていませんが。

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