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ワワフラミンゴ主催:演劇とコントと紙芝居と音楽の会「失くしもの」@三鷹SCOOL を観ての感想

いささか個人的な話をすると、2019年ごろに演劇・舞台を観るのが辛くなって、それまで年に50〜100本の公演を観ていたのだが急に刺激も楽しさも感じられなくなった。理由はよくわからない。ただ、その中でも毎回観たいと思える、観るたびに感性と知性を動かす劇団が三つあった。劇団どくんご、新聞家、そしてワワフラミンゴです。

どくんごと新聞家の話はまたどこかでするとして、今回はワワフラミンゴに話を絞る。最初に観たのは2014年12月に五反田アトリエヘリコプターでの公演「ホーン」で、とにかく圧倒されて充実したのを覚えている。でかい貨幣型で柔らかい色のオブジェを運搬していたのもなんとなく覚えている。特に筋書きのない会話を(主に)女性たちが繰り広げる。ワワフラミンゴの劇を説明するのにそれ以上の言葉は余計だと思うのだが、主題となる問題の提示や形式の更新といった命題とは一才に無縁に、かといってきわめて遊戯的というわけでもない、大いに笑えるがコメディやコントというジャンルには収めがたい上演が、そこでは展開されていた。その何もない時間に魅せられて、かれこれ9年近くの歳月が経過している。短編含め(といってもワワフラミンゴの上演はどれも短いのだが)今まで10本くらい観ている。

5月14日、15日に三鷹SCOOLで行われた演劇とコントと紙芝居と音楽の会「失くしもの」。私は15日夜の回に、エトエのコント、川隅奈保子 / 西田シャトナーそれぞれの紙芝居、そしてワワフラミンゴの演劇を観た。エトエのコント3本も紙芝居もそれぞれ魅力的、かつどこかワワフラミンゴ的で非常によかったが、ひとまずここでも話をワワフラミンゴに絞る。

今回の上演も四人の女性たちが筋書きのない会話を繰り広げるだけの劇だといえるが、何度か見ていると、過去の上演と今回の上演が共有しているいくつかの特徴的な傾向が存在していることに気づく。

ワワフラミンゴにおける会話は、植物や虫を思わせる。それはおそらく、行為や発話に対する自意識や反芻思考を表さないためだろう。痛みや悲しみは秒速で消え、次の行動に移る。いくつかの行為、例えば不完全な連想ゲームや白い飲み物の飲食といった行為は反復されるが、そこに反省は伴わない。暴力的な行為も表れるが、そこに怨恨が残らない。そうした全てが、ある爽快さを伴って観客の前に繰り広げられる。

動作に入り込む一瞬のスピード感。この速度の感触が、どこかゆるったい雰囲気を漂わせていると誰もが錯覚するワワフラミンゴの上演の特徴だ。毎回その上演に出演し、ワワフラミンゴの魂と呼びたくなる存在感を発揮する北村恵が、テレパシーを立岩留美子に送る(という演技をする)時の銃を抜くような動き。まるで上質かつ野蛮な西部劇のアクションを観たかのような感覚に、観客の心体は驚く。一週間の時間経過を告げる、古郡加奈子と立岩留美子が上着を脱いだ後の小さなジャンプにも、同様の驚きが宿っている。ワワフラミンゴの劇は、驚きを生み出すアクションの蓄積として形成されている。

一応、時間が流れていることになっている(だから劇内で「失くしもの」が頻出するし一週間の時間経過も発生する)ワワフラミンゴの上演において、最も無時間的な瞬間は音楽の時間だ。過去の上演でも、「コンピューターおばあちゃん」を口ずさむとき、マティスの絵のように円形に手を繋いで歌い踊るときに、全ての時間経過が無化される。音楽が時間芸術であるという常識が世に存在するにもかかわらず、そこでの音楽は時間の流れから浮いているように感じられるのだ。今回の上演では、フルートの演奏という体で口で音を真似る時間の無時間性がそれにあたる。全く出鱈目なメロディを複数の女性がステップを踏みながら口ずさみ、三人の体の動きで円を描くとき、時間の流れが消え、別の世界感覚が立ち上がる。音楽演奏としてはあまりに稚拙な、そしてあまりに魅力的なその音と動きの連鎖は、どこか絵画を想起させる。瞬間に宿る永遠の神秘を捉えるのがある時期までの西洋絵画の役割だといささか乱暴に定義するとすれば、ワワフラミンゴの上演は神秘性を全く欠いた永遠だといえる。もしかしたらそれは、植物的な永遠とも言えるかもしれない。

誰も気づいていない永遠に、時間の中で触れる。そんな貴重な感覚が、ワワフラミンゴの演劇にはある。まるで森の中で花や木を眺めるように、私はいつもワワフラミンゴを見ている気がする。


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