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父の誕生日


悲しみにキューバに来たはずなのに、
そういう気分には全然ならなかった。
苦しんでいた親父が他界した時、
悲しみとともにホッとした気持ちもあった。
親父はもう天国で好きなだけ酒もタバコもギターもやれるんだ。
そんな安心があった。
亡くなって遠くに行ってしまうのかと思っていたが、
不思議なことにこの世界に親父が充満しているのだ。
現にぼくはこの旅の間ずっと親父と会話をしていた。
いや、親父が旅立ってからずっとだ。
スピリチュアルの嫌いな自分が、
こんなことを実感として抱くなんて意外だ。
生きているときよりも死んだ後の方が近くなるなんてことが、あるんだな。
 ――若林正恭(『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』192頁)



▼▼▼父の誕生日▼▼▼

今日、7月19日は父・陣内学の誕生日だ。
頼りない記憶ではあるが、
確か昭和24年生まれの父は、
もし生きていたら今年74歳ということになる。

74歳の陣内学を、
僕はもう想像できない。
どんな74歳になっていたか、
生成AIがつくるCGのように、
頭の中で52歳の陣内学を老けさせて想像するが、
途中でぐちゃぐちゃっとなって、
失敗した水彩画のようにただのインクのシミが脳に残る。

52歳で父が癌で死んだ時、
僕は北海道の帯広で大学5年生だった。
卒論のための実験をしたり、
同じ研究室の子の卒論を手伝ったり、
毎朝、大学の農場で牛の直腸検査をし、
直腸粘膜越しに卵巣や子宮の状態を確認し、
排卵日が近くなると、
凍結精液をお湯で戻して人工授精する、
というルーティーンを繰り返していた。

あれは2001年の初めだったか、
2000年の年末だったか、
どちらか忘れたが、母親から電話があった。
僕の家族はメンバーの全員がシャイなので笑、
密に連絡を取るということがない。
電話で話すのも年に数回で、
特に用事がなければ、
「便りがないのは良い知らせ」とばかりに、
お互いに干渉せずに過ごすことを良しとしている。
情が薄いとかそういうことではない。
お互いの幸せを心から強く願っている。
本当に危機の時は身を挺しても助けようと思っている。
だけど、年に1回か2回ぐらいしか連絡しない。
なぜならシャイだから。

それだけのことだ。

「これじゃいかん!
 死んだ時絶対後悔する!」
と思って、去年から僕は、
弟と年に2、3回飲みに行くことを自分と約束した。
死ぬ前に、
「弟という親友と、
 なぜもっと話しておかなかったのだろう」
と、今のままだと絶対思うから。

話を戻そう。

2000年の年末から2001年の年始、
帯広をひどい寒波が襲っていた。
気温がマイナス30度という日を、人生で初めて経験したのも、
たしかあの年のことだったと記憶している。
大学の知り合いからもらった僕のおんぼろ車は、
当然セルモーターが凍って動かない。
JAFは何度電話してもつながらない。
帯広中の車のエンジンがかからなかったのだ。
水道管も凍ってたと思うけど、
「水道管凍結センター」も何度電話してもつながらない。
その日は試験があったから、
僕は仕方なく歩いて大学に行くことにした。
いつもは自動車で3分なのだが、
歩くと夏でも20分はかかる。
帯広は建造物が少ないから、
「見えているものが遠い」のだ。
これは十勝に住んだ人なら首がちぎれるぐらい同意してくれるだろう。
結果的にその朝、大学に到着するのに50分ぐらいかかった。

途中2つコンビニがある。
二つとも入学時にはなく、
僕の在学中にできた。

そのコンビニで5分ぐらい暖房にあたらないと、
「死ぬ!」
と思って駆け込んだ。
暖をとってからまた歩き出した。

歩きながら、鼻がもげると思った。
まばたきをした瞬間、
上のまぶたと下のまぶたが水分でくっつく、
という経験も初めてした。
時々、鼻がまだくっついていることを確認しながら歩いた。

死ぬような思いで大学につくと、
同じように歩いてきた同級生が、
たった3、4人だけ、
教室の前にたたずんでいた。
その3、4人は大学の校門の目の前のアパートに住んでいる子だったり、
最新式の自動車を持つお金持ちだったりした。
当時の僕の大学のあだ名は「じんじん」だった。
「じんじん、テストないんだって」
とひとりがボソっと言ったとき、
僕は膝から崩れ落ちた。

当時はLINEなんて便利なものもなく、
クラスの緊急連絡簿みたいなものも、
たぶんなかった。
というか先生も「テストない」って言うまでもないと思ったのか、
大学に来てすらいなかった。
来た学生が先生に電話したら、
「今日はないよ。あるわけないだろ」って言われた、
とかそんな感じだったと思う。


▼▼▼父の癌の知らせ▼▼▼


話を戻そう。

2000年の年末か2001年の年始、
ひどく冷え込む朝にはダイヤモンドダストを見ながら、
僕は大学の農場に向かった。
その日も大学に向かい、
いったん家に帰り、
夜に研究室に用事があって、
また大学に自動車で向かっている途中だったと思うけど、
母親から電話があった。

先述のように陣内家では、
家族からの電話は今も昔も珍しい。

母親が電話口で、
「お父さんが癌になった」
と言った時、風景がスローモーションになった。

その後何を話したか忘れた。
その週や翌週も、
母親とはわりと密に連絡を取った。
父は胆管癌だった。
最近になって知ったが、
胆管癌は膵臓癌と並んでたちが悪い癌だそうだ。

ほどなく父は名古屋大学に入院した。
検査しながら「生体肝移植」の可能性も検討された。
陣内家は僕と父だけがB型で、
姉と弟と母はO型だ。

僕の肝臓で父が助かるなら、
何個でもくれてやりたいと思ったが、
1週間後、「手術はできないと判断された」と母から聞いた。
それからどれぐらい経ったか忘れた。
ふわふわした1か月ほどを過ごしたとき、
「名古屋に来れないか」と母から連絡を受けた。

研究室の教授に行って暇をもらった。
「すぐ行ってあげなさい。
 単位とか卒論とか農場とか全部気にしないでいいから。
 1か月ぐらい行ってきていいからな」
と研究室の教授も先輩も同僚も言ってくれた。
同級生のひとりの目は潤んでいた。
やさしい子だった。
彼女はそれから数年後自死することになるが、
それはまた別の話。


▼▼▼2001年の鶴舞公園▼▼▼


帯広-羽田の片道のANAのチケットを大学生協で買って、
翌日羽田につき、そこから新幹線で名古屋に向かった。
なぜか僕は「のぞみ・ひかり」ではなく、
「こだま」に乗った。
あまりに世間知らずなので、
どれも同じだと思ってしまったのだ。
新幹線で何度か母から電話があり、
「まだつかないの?」みたいなやりとりをした。
「え? こだまに乗っちゃったの?」
電話の向こうの母親は内心呆れていたのだろうか。
それどころではなかっただろうか。
僕も動揺していたのだろうか。
そのあたりのことを僕は今もうまく思い出せない。

名古屋に鶴舞公園という有名な公園があり、
名古屋大学附属病院はその横にある。
その個室に父はいた。
身長179センチ、体重80キロ超えの、
僕より一回り体格の大きな父は、
夜店でもらった風船が翌朝しぼんだ姿のように、
小さく、小さくしぼんでいた。
体重は40キロ台ぐらいになっていたのではないだろうか。
心なしか身長まで小さくなっていた。

それから1週間ほどの記憶は曖昧だ。
当時、弟は東京で大学生だったし、
僕は北海道で大学生だったし、
姉は結婚して横浜に住んでいた。
父と母の二人は、
愛知県知多市の社宅に住んでいた。
僕が小学校5年生まで過ごした場所だ。
15年ぶりぐらいに知多の団地にいくと、
僕が知っている建物はすでになくなっていて、
ちょっと高級そうな新築の社宅に変わっていた。
そこに行くのは初めてだった。
そこで寝泊まりし、
たしか僕と弟だけが毎朝そこから名古屋大学付属病院まで、
「通勤」した。
母は病室に寝泊まりした。

朝、名古屋に向かい、
夜、知多に帰った。
僕が運転した。
車の中で弟と何を話したか覚えていない。
どうやって寝て、どうやって起きたかも覚えていない。

病室で何を父と話したかも覚えていない。
言葉がまったく見つからなくて、
沈黙に耐えられず、
とても無神経で場違いなことを言ったことだけを鮮明に覚えている。
僕は今もときどき夜中にその場面を思い出して叫びたくなる。
なんであんなこと言っちゃったんだ。

父はキリスト教徒ではなかったが、
僕は何度も「祈って良い?」と聞いた。
父は何度も「おお、頼むわ」と言ってくれた。
何度も癒しを祈った。
父は「ありがとな」と言って、
チアノーゼと黄疸の顔で苦しそうに息をした。

1週間の後半、姉も加わった。
2月の鶴舞公園を、
家族5人で歩いた。
僕は軽くなった父の乗る車椅子を押した。
「この桜が咲くのを見られるだろうか」
とあのときの父は思っていたのだろうか。
「一緒に桜を見られるかな」
とあのときの母は思っていたのだろうか。

そういったことを口に出すには、
僕の家族はあまりにもシャイだったので、
とりとめのない話をしていた。
「鶴舞公園、初めてだわ」
「良い公園だね」
「まだ寒いね、さすがに」
「缶コーヒー買ってこようか」
ぐらいな会話だった、多分。

それが家族5人で過ごした最後の思い出になった。


▼▼▼死者とともに生きる▼▼▼


僕は父の命日を覚えていない。
仏教徒だと法事とかあるから思い出すのだろうけど、
僕にとってはそれが何月何日かはあまり問題ではない気がする。
2月の後半だったことは確かなんだけど、
それも間違ってるかもしれない。
僕の記憶力は当てにならないので。

冒頭の若林さんの言葉にあるように、
父が死んでからの方が、
僕は父と近くなったと思っている。
この世界に陣内学は充満している。
僕の細胞にも充満している。

マキタスポーツという芸人さんが、
「頑張らないと親に似る」
っていう名言を言っている。

僕は油断すると陣内学に似てくる。
ふとした瞬間、
僕の中の陣内学が顔をだす。
油断すると、僕の血液の中のちっちゃい陣内学が、
その強すぎる自我を主張してくる。
そんなとき、僕は父に再会したような気持ちになる。

死者は死んだ後も生きる、
っていうのはこういう意味じゃないかと僕は思う。

陣内学は僕の中で生きているし、
この世界に今も充満している。
それこそスピリチュアルな話と思ってほしくないのだが、
これは僕の真実なのだ。
遠藤周作も『死海のほとり』で同じことを言っていた。

ユーミンの『卒業写真』の歌詞にあるように、
僕は「この世界に充満する父」に、
ときどき言い訳をしたり、
ときどき胸をはったり、
ときどき怒られたりしながら、
父のいない世界を生きている。
こうして死者と共に生きることを、
キリスト教徒はあまり言語化してこなかったが、
僕は大切なことだと思っている。
それが「父を本当に弔う」ことになると思っているから。
僕の人生が亡き父に手向けるひとつの花であって欲しい。
僕はそう思っている。


▼▼▼父がくれた2つのもの▼▼▼


父は完全な人間ではなかった。
いや、完全とはほど遠かった。
それでも、僕に二つのものをくれた。
それは「承認」と「社会の中の小さな存在であることの受容」だ。
この二つは父の死後、二人の著者から学んだ。

承認については牧師の豊田信行さんから。

〈フロムは、父親の愛を条件付きの愛、母親の愛を無条件の愛と区別しているが、そのような区別は誤解を招きかねない。父親の愛が条件付きであるのは、「承認の愛」のゆえである。母親の愛が条件をつけないのは「受容の愛」のゆえである。無条件の神の愛は、父の愛と母の愛の源泉であり、包括し、超越している。神の愛は完全な愛である。父の愛は無条件の愛を源とした承認の愛であり、母の愛は無条件の愛を源とした受容の愛である。……そして、受容の愛は安心を付与し、承認の愛は価値を付与する、と著者は続ける〉
(豊田信行『父となる旅路』366頁)

、、、父は僕を承認し、僕に価値を付与してくれた。
大学4年ぐらいのとき、
父が帯広に来た。
いきり立ち系の鼻息荒いクリスチャンだった当時の僕は、
父を「伝道」したくて教会の交わりに父を連れて行った。
誰かが何かを言った時、父が、
「自慢の息子ですから」
みたいなことを言った。
あの言葉を、僕は今も抱きしめている。
父は僕に価値を付与してくれた。

もうひとつは宮台真司さんから。

〈日本の中学生は、いま7割に反抗期がありません。反抗期は、近代社会に残った唯一の通過儀礼らしきものでしたが、それが消えつつあります。
 反抗期とは何でしょう。父親(の機能)は、家庭に社会を持ち込むエージェント(代弁者)です。外から社会を持ち込む分、大きな存在――権威――に見えます。
 だから子どもは従います。やがて、権威をうざったく感じ始めます。頭ごなしに否定して自信を喪失させるからです。すると、子どもは攻撃的になります。
 でも、反抗期は長くて2年。その間、「父が”社会の中の小さな存在”にすぎないこと」「自分も父のように”社会の中の小さな存在”になること」を学びます。〉
(『ウンコのおじさん』宮台真司 50~51頁)

、、、父は「偉大」だった。
東京大学に現役で入り、
社費でアメリカに留学した。
高校時代は勉学も優秀だったが、
胃潰瘍になるまで部活の柔道にも打ち込んだ。
社費留学でアメリカにわたり学位を取り、
家でもいつも何かを勉強していた。
最期の病室でもずっと、新聞の切り抜きをしていた。
会社に戻った時に備えていたのだろう。
陣内学は努力の塊のような人間だった。

それだけでない。
ただの偏差値秀才とは違っていた。
ガッツがあった。
声も体もデカく、
「世間」みたいなものに同化することを拒む気概があった。
よく笑い、よく酒を飲み、存在自体が冗談みたいな人だった。

だけれど、その父もまた、
「社会のなかの小さな存在」に過ぎないことを、
小さくしぼんだ父は教えてくれた。
この父もまた小さくしぼむんだ、
ということが、僕には衝撃だった。
だとしたら、僕もまたいつかはしぼむわけだし、
いつかは「社会の中の小さな存在」になるんだ。
それでいいんだ。

僕の肥大化した自意識を、
父は脱臼させてくれた。
自意識から自由になり、
「自分が凄くないこと」を受け入れると、
そこには心地の良い風景が広がっていた。

いちど自意識を膨らませ、
それが健全にしぼむことを「大人になる」と言う。
肥大化した自意識がいつまでもしぼまない大人を、
世間は中二病と呼ぶ。イタい大人だ。
逆に、いちども自意識を膨らませず、
青年期の万能感を経験せず、
小学生から既に老成したような達観を身につけた人は、
きっと本当の意味で「大人にはなれない」のだと思う。

この自意識の脱臼のことを、
フロイトは「父殺し」と呼んだ。

暴力的な病気を通してではあったが、
僕はしぼんだ父に、
「自分はたいしたことない」と言えるすがすがしさを、
授与してもらった気がする。
そして「最期の最後まで学び続ける」ことのかっこよさを。
後にガンジーが、
「明日死ぬかのように生きろ
 永遠に生きるかのように学べ」
と言っていたのを知った時、
僕はまっさきに陣内学を思い出した。

長くなったが、
僕なりの父への鎮魂歌だと思っていただいてかまわない。
皆さんのお時間をいただきかたじけない。

この文章を父に捧げる。


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参考文献および資料
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・『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』若林正恭
・『ウンコのおじさん』宮台真司
・『父となる旅路』豊田信行
・『死海のほとり』遠藤周作


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