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ヒトの顔の眺め方?

人の顔が覚えられない ── 若い頃から ── 意識したのは30代の始め頃だろうか。

たとえば、状況は ── 同業者など多くの人が出入りする展示会や講演会の会場で、
(……あ、このヒト、どこかで会ったことが……)
でも、名前が出てこない。
(たぶん名刺交換しているよな……)
先方も私の顔を認識した風で……
(でも、名前が出てこない)
先方が知らん顔をしている場合もある。
(あれ? 他人の空似だろうか……)

そのまま軽く会釈だけする場合もあれば、忙しいふうを装って立ち去ることもある ── その根底にあるのは、
・恥をかきたくない。
・相手を軽んじていると思われたくない。
両方とも、妙なプライドが邪魔をして、「より失礼」な状況に陥っているのかもしれない。

(これは、ヒトの顔が覚えられないことに問題があるのか、あるいは区別できない? いや、名前を覚えられないのだろうか?)

30代の頃、知人に話したら、
「それは、アンタに《気が無い》からだよ」
つまり、
・覚えようという気が無い。
さらに、
・相手に(and/or 相手とのビジネスに)関心が無い。
と指摘しているのだ。
(……それはまた、身も蓋もない……)

「顔全体を見て個人の識別をすることができない」先天的《相貌失認》の発症確率は2%程度とけっこう多いという。

そんな病名がつくほど重症ではないにしろ、何か根源的な問題も多少はあるかもしれない。
しかし、個人的に想うのはそれ以外の理由である。

10代後半から20代にかけて、妙な癖?がありました。
人の顔をじいっと見てしまう ── のです。

たとえば、合コンとか同期会などで向かいの席の女性の顔をじっと見つめてしまう ── 幾ばくかの好意を持っている場合は一層。
それはむしろ、『見入ってしまう』に近いようで、ただし、誓って言うが、意図的にそうしているわけではなく、
『まったく見ない(目も合わせない)』か、
『じっと見つめる』か、
どちらか
になってしまうのです。
繰り返すがわざとではなく、それ以外の視線の使い方がなぜかできなかったのです。
《ヒトの顔の眺め方》に関して、きわめて不器用だったわけです。

「どうしてそんな風にじっと見つめるわけ?」
「なにか、心の中まで読もうとしているみたい」

そう言われても ── もちろん、そんなつもりはなく、『作戦』として行っているわけでもありません。
同性に対しても同じようにしているのですが、その場合は勘繰られることもないわけです。

そんな個人的な経験を経て、30を過ぎた頃には(失礼にならないように)人の顔を直視しない習慣を確立しました。

人の顔をはっきりとは見ない、という新たな癖が、
人の顔を覚えられない
という30代以降につながっていくのではないか、と疑っています。

ただ、これには例外があります。
目の前にある《ヒトの顔》に黒子ほくろやイボがある時、私の視線はそこに行ってしまいます。
(これはたいへん失礼な『視線』ではなかろうか?)
そう自問し、やめようと思うのだが、これがとても難しい。

── これも実は、理由が(たぶん)わかっている。

私は自分の体、とくに顔に発生した黒子ほくろやイボが目立つような大きさになると、自分で、《手術》する。
ここでいう(自称)《手術》とは、
・毎日何度も、少しずつ指の爪で黒子ほくろ/イボの根元を強く摘み、そこに水分や栄養が行かないようにして、いわば『枯死』させるわけです。
ひと月も周到に攻撃し続けると、たいていの黒子ほくろ/イボは夢破れ、枯れ果ててポロリと取れます。
「またやってる! バイキンが入るからやめなさいよ!」
家族に警告されても、過去の成功体験から、この《手術》が最も有効なことがわかっている。

おわかりでしょうか?
── 相手の顔を見ているうちに、《手術》したくなってしまうのではないか、というのが『自己分析』です。
おそらく相手は、私の視線が彼/彼女の黒子ほくろ/イボに集中していることに気付いていることでしょう。
それは、とても、失礼なことかもしれない。
いや、失礼なんでしょう。

うーん、この《病》、なんとかならないだろうか?

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