携帯キッス(SS;2,200文字/エレクトロニック・ショート・ショート・カタログより)
「もう! いつもいつもアタシにべたべたまとわりつかないでよ!」
妻が爆発したのは、見合い結婚からわずか2ヶ月後のことだった。
「ええ? べたべた? だって、好きなんだもん」
長い、長い、このまま老後を迎えるのかと一時は覚悟したほど、途方もなく長い独身生活を経た後に得た伴侶である。確かに密着度は、ちょいとばかり高かったかもしれない。
朝起きてすぐ、朝食支度のさなかに、顔を洗ってから、ごちそう様の後で、トイレを出て直ちに、歯を磨いたらもちろん、そして玄関で家を出る際には必ず、私はかわいい妻を抱きしめ、キスをした。
彼女もそれを喜んでくれるものだと、信じていたのだ。
「もう! アンタと暮らしていたら、唇がタラコみたいに腫れあがってしまうわ!」
そう言い捨てると、妻は家を出て行った。
その日から私は困窮した。
朝、昼、晩、と妻の唇を求め、私の唇は宙をさまよった。
(キスをしたい、したい、したい、したい……)
かといって、金を払ってその種の行為ができる場所に行こうとは思わなかった。
あくまでも、愛する妻とのキッスでなくてはならなかった。しかし、ストーカー行為をするわけにもいかない。
(彼女と口づけするには、いや、し続けるには、どうしたらいいだろうか?)
妻が去った家で、そして会社でも、そのことばかりを考えた。
(最近、恋人や夫との同居より、ひとり暮らしの気楽さを求めて、男を捨てる女が多いと聞く。同じような苦しみを抱く男は多いはずだ)
そして、ちょうど会社で開発中の高分子新素材を使い、妻にそっくりの人工唇を作ってみた。
その唇を常にポケットに入れて持ち歩き、どうにもたまらなくなると、こっそり取り出してチュッチュした。
── 幼児にとってのおしゃぶりのようなものである。
ところがある日、会社のお茶室で:
「おい、何やってんだ」
「か、課長!」
「何だ、それ? 何やってるんだ、会社で?」
「は、恥ずかしいところを見られました。実は……」
私は観念して上司に告白した。
「それ、いけるぞ!」
課長は目を見開いた。
「は?」
「商売になるかもしれん、ちゅうことだ」
*****
私の考えた携帯用唇は瞬く間に社のプロジェクトとなり、試作品に無かったいくつかの改良が加えられた。
《完璧な》唇を作るために、しっとりと柔らかい素材が選ばれ、さらに女性の体臭と香水を調合した香りを染みこませた。
また、会話ができるともっといいんじゃないか、との意見で、いくつかの言葉を小声で話す機構を設けた。この《ささやき》モードでは、《唇》は軽く閉じたり開いたり、動く仕掛けにした。
ささやく内容は、《唇》への接近距離、キスの仕方、あるいは指などの唇への触れ方によって変わる仕組みだ。
「……好き?」
「……いいわよ」
「……愛してる」
「……うまいのね」
「……すごく、よかった」
などと、《唇》が甘ったるい声でささやくのである。声のトーンは好みによって調整できた。
語彙は限られていたが、スマホとの連携で、対話ソフトを使うことも可能だったし、電話と連結すれば、生きている《人間》との会話を《唇》に語らせることもできた。
私の個人的玩具だった携帯唇は、間もなく我がElectronic Short Circuit(ESC)社から、《Mobile Lips》の名で商品化された。
この、『ちょっと買うのが恥ずかしい(筈の)装置』はしかし、予想外に売れた。
何せ、芝生より人工芝、ペットよりペットロボットが喜ばれる時代である。《Mobile Lips》はむしろ、『ちょっとおしゃれなアクセサリー』として市民権を得たのである。
こうなると当然、女性市場を狙わない手はない。全員女性のプロジェクト・チームが、♂バージョンの唇を開発した。
《♀唇》ほどではなかったが、こちらもまずまずの売れ行きだった。
*****
Mobile♂Lipsが発売されて間もなく、私は自腹でこっそり、《♂唇》を買ってみた。
家に帰り、胸の鼓動を抑えながら《♂唇》を取り出し、くちびるをそっと寄せてみた。
これも調合した香料だろうが、確かに男の匂いがするその唇は、♀のそれとは違ってなんだか固かったが、……いや、ともかく、……告白しよう ── 私はしばらくの間、《♂唇》との倒錯的な喜びにふけった。
特に、その肉感だけでなく、極低音で、
「いいだろ……オレ、我慢できないんだ……」
などとささやかれると、もう、たまらない、体に電気が走るのだった。
(うーむ、自分にこんな性向があったとは!)
こうした発見も、《Mobile Lips》の利用価値かも知れなかった。
実際に生きて別人格を持っている他人を相手にするのはリスクが大きいが、《Mobile Lips》ならば、簡単に試すことができるのだ。
いつしか、妻の唇を想い出すことなどなくなっていた。
ある日私は、ほんのいたずら心から、Mobile♂LipsとMobile♀Lipsとを接触、つまりキスをさせてみた。
ところが二人(というより二唇)は、《くちづけ》したまま、声を落としてささやき始めたのだ。
何を話しているかは聞き取れない。
見ているうちになんだか腹が立ってきた私は、二人(ではなく二唇)を引き離そうとしたが、接着剤でくっついたかのように離れない。
── 四つの唇は、いつまでもいつまでも、楽しげにささやき続けた。
〈初出:Materials Integration, Vol.14 (2001) 少々加筆修正〉
本SSは、ESSを有料マガジン設定した後、そちらに移す予定です。ご了解ください。
かつて、この話の掲載雑誌を読んだ同居人に言われたものです:
「このMobile Lips、アンタの会社で開発したら? 家中のあちこちに貼りつけておいて、もうアタシには構わないで!」
《Mobile Lips》に言及したバイオテック・ショート・サーキット社のお話は以下で:
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