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When I'm sixty-four, or still sixteen?

しばらく前ですが、Echoさんが、歌人・加藤治郎さんのエッセイに触発されて書かれた記事を読みました。

ポール・マッカートニーが16歳の頃に遠い未来を想像して書いた曲『When I'm sixty-four』について、加藤さんもEchoさんも誕生日を迎えた心境について書かれている。

日経を購読しているので、私も加藤治郎さんのエッセイを読んでいました。
Echoさんの記事にコメントを書き始めたのですが、ものすごく長くなってしまったのと、主に自分の話になってしまったので、これはコメントには相応しくないな、と消してしまったのです。

アルバム『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』を買ってこの曲を聴いたのはまさに15歳から16歳にかけて(高校1年)でしたが、
「Will you still need me, will you still feed me」
『韻』が好きでしたね。
(『韻』を意識している日本語の曲は少ない ── 桑田サンぐらい?)

さて、16歳の私もこの曲を聴きながら、64歳という年齢になった自分を想像することなどまったくできなかったし、芥川龍之介や太宰治の小説を愛読し作家志望だったこともあり、自分は30代半ばで命を落とすだろう、と思っていた(どんな場所でどのように、という所まで想像していたくらいだ)。

では、実際にそんな年齢になってどうだろう、というと、今はまったく自分の年齢を意識せずに暮らしている。
会社勤めをしていた頃、子供と同居していた頃(家族に否定されるので『子育てしていた頃』とは表記できない)には、それなりに年齢を意識せざるを得なかった。
おそらく、世の中ほとんどの人間と比較したら全然レベルが低いのだけれども、会社での『役割』とか、家族の中での『役割』という『期待』を意識していたからだろう。

けれど、退職し、子供たちも独立した現在(コロナ禍の3年間も影響しているかな?)、付き合いのある人/付き合っている時間は、高校に入学した頃からの友人と、18歳の時から一緒の同居人、以上でほぼ80%、だから頭の中は未だにポールがこの歌を書いた頃状態です。
このためか、未だに「I'm (older than) sixty-four」という現実感がなく、まだまだ遠い未来のような気がしています

いいのか悪いのか……。

(だから、ジジイになっても16歳のつもりで階段を駆け上がって転んだりするんだ……)

noteにあげたエッセイで、自分を『ジジイ』と称することがよくありますが、多分そんなこと、思っていませんね。
あれは忍者の使う木遁もくとんの術』のようなものです。『伊賀の影丸』が多用する『木の葉隠れ』です。
ホント、厄介なジジイです。

さて、最後に話題の曲『When I'm sixty-four』を貼り付けようと思ったのですが、これはEchoさんの英語版記事の方に埋め込まれています:

では、私は、同じアルバムの最後の曲『A Day In the Life』を和訳付きで:

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