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ミニストップの駐車場にある幸せ

たぶん、これ以上の幸せはもうないだろう。
週末の昼下り、家族で車で出かけた帰りに、ミニストップの駐車場でソフトクリームを食べながらそう思う。最近、毎週のようにそう思う。悲観的でもなんでもなく、単純にそう思うのだ。

たとえば、天国というものがあって、そこは見たこともないほどの美しい景色で、そこに流れる音はこれ以上ないほど心地良く、食べ物もすばらしく美味しいとしよう。だけれど、そこに住まう人の幸せは、今ミニストップの駐車場でソフトクリームを食べている僕の幸せよりも大きいものだろうか。

去年、会社を起業し、一応、名目上は代表というものになった。とはいうものの、それだけでやっていけるほどの仕事もなく、週の4日、他の会社で派遣社員として働いている。二重にぶれた世界を見ているような気分だ。
リモートワークだから、満員電車や無駄な人間関係によるストレスから離れられるだけ有難いのだけれど。

朝は8時半頃に、息子を保育園に送りにいく。思えば、もう3年も同じ道を往復している。他のお母さんからの、このパパは何をしている人なんだろう、という視線も最近では少し和らぎ、少しばかりの会話を交わすようにもなった。
保育園の帰りには、ファミマでコーヒーを買って、家まで5分ほどの道を歩く。
家に着いて、仕事を始める。
昼になると、レンジで冷凍ごはんを温めて、納豆とキムチと一緒に食べる。
仕事の合間に、お茶を淹れて休む。
気が付くと17時になっていて、少し休んでから、また息子を迎えに保育園に向かう。

それを月曜から木曜まで繰り返す。
この日々は、この上なく抑揚がなく、それでいて、この上なく味わい深い。

金曜に、週に一度だけ自分の会社の打合せをする。できるなら、やりたいことだけに時間を使えるようになれたらいいと思う。
だけれど同時に、この今よりも大きな幸せはもうないだろう。

東京に来た頃、すべてが新鮮だったのを覚えている。どこかハイになっていたのだ。
テレビで紹介されていたカフェや、行列ができる店。地方にいる頃には届かなかったものが、実際に手を伸ばせば届く距離に変わった。だけれど、一度か二度、付き合ってみてすぐにわかった。これはドラッグだ。ドラッグであれば、ドラッグには切りがないし、ドラックよりも弱い刺激はすべてないものになってしまうだろう。

東京での十年ほどの生活の後で、僕は東京から少しだけ離れた。そのおかげで穏やかさがまた少しずつ戻ってきた。そして、中古ではあるけれど、車を持つこともできたし、だから今、ミニストップの駐車場でソフトクリームを食べられる。

それに考えてみると、ソフトクリームはアイスクリームではないのだ。
アイスクリームであれば、買って冷凍庫に入れておけるけれど、ソフトクリームは家では食べられないのだ。だから、有難いことに、ソフトクリームはいつまでも所有することのできないものであり続ける。

そう考えるなら、天国に住まう人の幸せは、今ミニストップの駐車場でソフトクリームを食べている僕の幸せとそう変わらないだろう。
たとえ天上の人であろうとも、人である限り、わたしたち人には慣れというものが付きまとう。この世と思えないほど美しい景色も、そこに住んでしまえば、それはこの世なのだ。
天上の人も、結局は家から少し離れたところにあるミニストップ 天国〇〇号店までわざわざ出掛け、週末毎にソフトクリームを食べることになるだろう。

後ろの席では、妻と3歳になる息子が他愛もない話しをしていて、窓から入るやわらかい明るさと相まって、言葉にならないほど、この瞬間が美しい。
息子は茶色のソフトクリームが好きだけれど、ミニストップでは茶色のソフトクリームはいつでもあるわけではなく、季節によって、イチゴやブドウのソフトクリームにかわる。息子は不平を漏らすけれど、新しい色のソフトクリームも美味しいことを知る。
それが僕には大きな変化であって、喜びとなる。
やはり、ミニストップの駐車場でソフトクリームを食べるより大きな幸せはもうない。そして、だから僕は安心して今を生きられるのだ。

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