真・善・美

思想的文脈をかなり雑に言い換えて、真を能力の高さ、善を意志の強さ、美を立派な生き方だとする。

能力が高いことは素晴らしいことだ。能力の高さは生み出す価値の大きさに繋がる可能性がある。しかしながら、幸運な環境に身を置かれていれば勉強が出来たり高い品質の仕事ができるようになることは特段珍しいことではないし、能力が高くともその生み出す価値が自分自信へのリターンに閉じてしまっている人も多い。そう考えると、能力が高いことだけの価値は限定的であるように思える。

意志が強いことも素晴らしいことだ。意志の強さは中長期的な能力の高さに繋がる可能性があるし、他人を巻き込むリーダーシップに繋がることも多い。しかしながら、強い意志を持つ人の中にはそうでない人に対して厳しく、人の弱さに不寛容なタイプも多い。そう考えると、意志が強いことだけの価値も限定的であるように思える。

立派に生きることは一見、真・善的要素と比べてメリットが少ないようにも見える。立派に生きること自体は自己満足以外の価値を生まず、飯のタネにはなりにくいように思えるし、今風に言うと"コスパ"が悪いようにも思える。しかしながら、中長期的に重要なのは美だと思う。すべてが上手くいって時流に乗っているときには能力の高さと意志の強さだけでやっていけるかもしれない。ただ誰しも大きな時流には逆らえないわけで、逆風が吹いてすべてが逆回転し始めたときに、それでも人が離れず、助け舟を出してもらえ、生き残って再起できるような人は、大抵の場合は立派に生きてきた人だと思う。

というよりもまあ単純に「この人は能力高く意志も強くて凄い人だけど、クソ野郎だよね。」みたいな存在になって果たして幸せなのかという…

「真・善よりも美が価値がある」と言いたいわけではなく、真・善的な要素の価値を最大限かつ長期的に発揮しようとすると、美的要素が不可欠であるのだと思う。立派に生きている人は、他人による評価や決め事ではなく自分自身の価値基準やモノサシで物事を判断する。自分の気分を優先して他者を貶めるようなことはしない。自分自身の利益よりも、周囲や場の利益を優先する。そして、差異や弱さに寛容である。美がなくしての真・善の強さは、ある種の"狂人に刃物"に近いとも思う。

今まで接したことある人の中で「この人はプロだなー」と感じたり「この人とずっと付き合っていきたい」と思ったり「この人は是非応援したい」と思う人は、例外なく"美"要素が強い人だと振り返ると感じるし、個人的にも生きていくにおいて最も重視したいのは美だと考えている。

というわけで、飲み屋で酒一杯で長時間粘ったり、混んできたのに常連面して長く居座るようなおっさんにはなりたくないなと思う今日この頃でした。

 世間の常識から見て、相思相愛の仲だと思われている人たちに——あなたがたがもし諍いを起こしたときは、おたがいにこういってほしい。「どうか——愛をちょっぴり少なめに、ありふれた親切をちょっぴり多めに」
カート・ヴォネガット・ジュニア




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