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その映像作品は“リアル”ですか?:1940年代ハリウッド映画

 1940年代ハリウッド映画と聞いて、「往年の名画」や「映画史上の傑作」の数々を思い浮かべる方は、おそらくほとんどが50代以上、特に60代以上の方々ではないかと思います。私自身も50代ですが、あの時代のハリウッド映画には特別な思い入れはありません。当然です。たぶん、40年代ハリウッド映画の代表作が「往年の名画」だと言われても、私の両親の世代で都会に住んでいた人々にとってしか実感がわかないでしょう。  

 私自身に関しては、率直に言って、当時のハリウッド製「名作」の数々は、どうしようもなく“古びている”と思います。物語の信憑性はともかく、映像のリアルさはまったくといっていいほど感じられません。

 私は映画を専門的に学びはじめた80年代後半からそれを感じていましたが、当時はバブル時代、ハリウッド映画でも日本映画でもフランス映画でも、とにかく“古い物はいいから観直して学べ”というような、懐古趣味的かつ権威主義的な風潮がありました。当時の中高年“知識人”が、若者に無言の圧力をかけていたのです。しかしやがて、日本の経済的凋落と歩調を合わせるように、“教養の時代は終わった”などと言われるようになり、今度は最新の“オタク文化”がすべてだという極端な幻想も蔓延しはじめました。結局、私たち映画研究者は落ち着いて映像作品の本質を考察することがなかなかできず、できたとしても公表する場はなかった。同時代の作家たちの芸術的成果をふまえた映像作品の本質的研究の不在(あるいはその不当な無視)は、日本の映像作品の質にも影響を及ぼしている。それが現実なのです。たぶん、ゼロ世代の映画ファンの方には、何となく分かると思います。

 直観的に分かる、では権威主義的な印象批評と同じで説得力がなく、読むほうも「人それぞれ」で終わってしまうので、以下では、理論家としての立場から、まず直観的に「見れば分かる」というところから出発し、次に幾つかのポイントに即して実例を挙げて説明し、最終的に論理的な結論に至ろうと思います

“表現豊かでわざとらしい”映像

 とりあえず、直観的なところから入りましょう。作品はどれでもいいので、1940年代のハリウッド映画を任意に1本か2本選んで、少しだけ観てください。忙しい方は10分でも流し見してみてください。そのあと、70年代以降のなるべくシリアスな映画(『ゴッドファーザー』でも『評決』でも『シンドラーのリスト』でも、あるいは非ハリウッドのアート映画でも)をやはり少しだけ観てください。これも10分以下で結構です。

 前者の映像(以前にも指摘しましたが、この概念は現在の一般観客にとって音声を含んでいます)は、今では、“リアル”どころか、無視できないほど“わざとらしい”印象を与えないでしょうか。B級映画であろうが、オーソン・ウェルズやフランク・キャプラの作品であろうが、同じことです。“わざとらしい”という言葉が強すぎるなら、“古い”でも同じことです。もしそうでないなら、今でも大劇場のスクリーンに、リストアされた『カサブランカ』(42)や『市民ケーン』(41)や『群衆』(41)が連日のようにかかっているはずですね。実際にはそうなっていない。大々的に興行をするには、古すぎて需要がないからです。では、私たちは、当時のハリウッド映画を観ると、なぜわざとらしさや古さを感じるのでしょうか? 

 ウェルズの『市民ケーン』やキャプラの『群衆』の映像をよく見てください。実に表現力豊かな映像です。照明や構図、編集の技術が俳優の演技と調和し、最近の平板なテレビドラマなどとは比較になりません。しかし、“表現力が豊か”であることと、“リアル”であることとはまったく別です。ウェルズやキャプラの映像は確かに表現力が豊かですし、映画作家の才気や技術が感じられます。前者のパン・フォーカス撮影(セットに強い照明を当て、カメラの手前から奥までピントが合うような撮影)、後者のスピーディで技巧的な編集など、見事な“映画技術”の見本市のようです。しかし、そうであるからこそ、今では“わざとらしい”、人工性が鼻につくのです。物語内容や俳優の演技とは無関係に、当時の「名作」は映像と音を過剰にいじっています(音はモノーラルですが)。しかも作者たちは、それが現実的な物語を「個性的に」見せるために必要なことだと確信していたように見えます。せっかく普遍的なテーマを扱っているのに、もったいない話です。今なら同様に普遍的なテーマを扱うにも、もっと映像のリアルさを活かす落ち着いたやり方があります。例えば、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(2007)などを観ればお分かりでしょう。

 次に、当時のハリウッド製B級映画の映像はどうでしょうか。低予算なのでロケ撮影が多く、優れた犯罪映画では大都会の生々しい現実が映像に反映されている“はず”なのですが・・・。ニュース映画のような匿名のナレーションや字幕、あるいはハードボイルド調の主人公の“語り”(やはりナレーション)をふんだんに用いて事件の背景を“説明”し、早回しで観るまでもなく短時間で面白いお話を語ってくれるそれらのB級映画は、他でもない説明的ナレーションや速すぎる展開によって、映像のリアルさを台無しにしています。話術巧みな“語り手”の導入や、フィルムを1フィートも無駄にすまいとする台詞の効率的なやりとりが致命的なのです。

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