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日記が書けない

最近日記に触れる機会が多い。自分自身もここに載せている随筆的な文章のほかに日記をつけている。私たちはどうして日記を書くのだろうか。
 
ヘンリー・ソローは自身の日記にこう書いている。

心に抱いてきたのに忘れてしまいがちな考えや印象が記される日記を、私は喜んでつける。それはある意味で最も遠く離れたものであり、別の意味で最も私に身近なものである。(『ヘンリー・ソロー全日記 1851年』ヘンリー・ソロー, 山口晃 訳, 12p)

 ソローがどういう意図で日記を「最も遠く」かつ「最も私に身近なもの」と捉えたのかはわからないが、確かに日記は自分の写し鏡のようでありながら、自分とは全く異なる顔をしているときがある。自分で書いた自分の似顔絵は、写真のようには自分を写さない。
 
私は中学生のころから大学生の途中くらいまで、ノートに日記をつけていた。最も頻繁に書いていたのは高校時代で、何故かというと、勉強で机に向かう時間が多かったからである。勉強の箸休め的に日記を書いていたのだ。高校の途中で部活を辞めてからは勉強くらいしかしていなかったから、日記には「その日起こったこと」はほとんど書かれておらず、「その日思ったこと」がつらつら綴られている。

私的な日記(日記とは基本的に私的なものだ)は通常自分以外が読むことは少ない。日記をつけているという友人たちに聞いてみたら、日記を人に見せるのは「絶対に嫌だ」と口を揃えて言っていた。特に学生時代につけていた昔の日記などは、自分で読み返すこともあまりしたくないという。
私はというと、ある程度ひとに読まれてもいいような書き方をしていた。読者として将来の自分以外の誰かの存在を想定していたのである。例えば、日記の難しい漢字にわざわざルビを振っていた。また、人名などの固有名詞は記載せず、より一般的な言葉に置き換えて書いていた(「◯◯くん」ではなく、「クラスの友人A」といったように)。
自分以外の読者を想定すると、当然「読める」文章を書こうとすることになる。つまり文章にディレクションが入る。そうなってくると、はたしてこれは日記なりやと考えてしまう。
 
だからこそ、てらいなく日常を掬いあげている日記を読むと、自分もこういう日記が書ければいいのにと思ってしまう。ただ、私がそこに近づけて日記を書こうとすると、結局日記的なものから離れたよりフィクショナルなものになっていってしまうだろう。

そもそも日記とはその内容において、完全にノンフィクションだとは言い切れない。その日起こった出来事も、その日巡らせた思考も、究極的には正確に写しとられるということはなく、書くという行為を通して形を変える。日記においては、その距離やズレの幅が、他の文章の形態と比べて小さいに過ぎない。
日記において唯一守られるべきノンフィクションは、その日にこれが書かれたという事実だろう。どれだけレトリカルに日常を脚色することが許されようとも、紙にインクが染み込んだその日付を揺るがすことは、日記の原則に反している。
 
さて、こういうことをぐだぐだと考えていると、日をまたいでしまうことがある。日をまたいでしまった場合は、日記の日付はどうなるのだろう。律儀に日をまたいだ瞬間で文章を分断すべきだろうか。それとも書き始めた日か書き終えた日のどちらかに寄せたほうがいいのだろうか。悩ましい。
私は日記が書けない。

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