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霜花——漂泊と残紅 3

 黒板にある文字を写す。指定された場所に時間通り行く。駄目と言われたことはしない——それらひとつひとつを片付けていけば、何を考えずとも真面目な子になれた。僕は頭が良いとか、成績が佳いというわけではない。ただ、敷かれたレールからの逸れ方がわからなかっただけだった。

 「なぁ、本当に大学には行かないのか?」
「あ、その、なんかよくわからなくて」
 朝のホームルームの終わりしな担任に声をかけられた。年相応の肥り方をした先生は、毛玉の多く実った*、慣れたセーターの、袖口についた白墨*を指先でさっと払った。
「そう」先生は小さく言った「もったいないけどなァ」
「まったく、その、そんなことないです。すみません」
「いや、まあよく考えなよ。まだ間に合うから」先生は僕の肩を軽く敲いて*、ブレザーにも白墨が少し附いてしまったのをチラとみた。
「はい」小さく言った。
 白い窓の結露が縁に溜まって一滴、すうっと線を劃して*落ちた。

 「教室移動するべ」橋田は僕の机の前にきて科学の教科書でとんとんと、音を立てた。木崎と居ないのは、一時限目が彼とは異なるから。
「まちぃや、まちぃや、早漏かて」
「うるせぇー」橋田は歪んだ眼で僕を見た。横を通った女子の灰色のセーターから砂埃のような、晞いた*匂いがした。
 曇った日の廊下はいっさいの生気がない。観葉植物は埃が目立つし、角という角に陰が落ちる。床に細い蛍光灯がぬらぬらと反射している。細長い廊下は奥にゆくにつれ黯い*。青いタイルが群青に変わるとき、それらの一斑*にだけ光が差していた。
「なにあれ、なに集まり?」
 空を覗かせる大きな窓の、それの射す光のなかに数人が集まっていた。通りしな顔を向けると大きな絵画が展示されていた。白い絵——心の耽い*ところの緊張した、か細い線がぴんと弾かれて顫えた。
「これ佐伯さん?」
「だね」
 白いシーツの上で真黒な髪を紊して*、裸軆*を捩って*虚を*眄ている*。雑に被せられた白い布のためにその躰の殆どは隠れていたが、顔や鎖骨までの皙い*肌が露に出ていて、そのうち右胸の乳輪が、すこし、覗いていた。
「エッッッロ」橋田は、絵の胸のあたりを凝視した「佐伯さん、意外と乳首黒いのな」
 黒く重い瞼はエキゾチックな印象で、その中の鋭い三白眼は、覧める*人の背後を見透かしている。頬のラインがすっと、絳に*塗られた、膨らんだ口唇に収束する。形の丸く、鼻孔の張った鼻は、異国風な目許のメイクと対蹠的*に彼女の産まれ出たままの血が顕になっていた。落ち着きと派手、異国趣味と鼻——さまざまなコントラストが小さな顔に整然と調和して、その超日本人的な姣しさ*が、ひとたび見ると忘れられなかった。
「あ……、これ誰が描いたんだ」
——三年 八宮千尋 文部科学大臣賞
「八宮って、美術部の?は、なんで、佐伯さん?」橋田は耳を赧くして*、そして教科書の上に載せていたペンケースを辷り*落とした。彼はわざわざ手を振り子のように大きくながしてサッと拾い、その勢いを殺さずにそそくさと歩き出した。私は二三歩小さく走り、彼を追って廊下の黯い方に這入った。

 「ソウカすごいね!モデルで賞取っちゃうなんて!」「すごーい!」
——佐伯霜花、絵の……
「え、ハハハ。モデルていうか、モチーフ?」
 眦*で見た佐伯さんは、机の上に腰をかけ、人に囲まれていた。机に乗せられた大腿は、却って机に圧し広げられ、艶冶に*眼に映った。彼女は、友人や男たちから声をかけられるたびに顔を突き出して態と*らしく、大きな声で笑っていた。

 橋田を追って歩いた中庭のビオトープは灰色の翳に振るわれた。目で追った、経過してゆくコンクリート打ちっぱなしの柱の隙間に光が射した。真紅の山茶花*を眦で見とめたけど、すっと一瞬で僕の視線は切られた。

*(ルビ)
実った……なった
白墨……チョーク
敲いて……たたいて
劃して……かくして
晞いた……かわいた
黯い……うすぐらい
一斑……いっぱん
耽い……ふかい
紊して……みだして
裸軆……らたい
捩って……よじって
虚を……そらを
眄ている……みている
皙い……しろい
覧める……ながめる
絳……あか
対蹠的……たいせきてき
姣しさ……うつくしさ
赧くして……あかくして
辷り……すべり
眦……めじり
艶冶に……えんやに
態と……わざと
山茶花……さざんか

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