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「書きたい」を見つめ直してみる

柿である。どんな味だったか忘れるほど、久しく食べていないのだが、柿の楽しみ方は2種類ほどあった記憶がある。

まず、熟していないがほのかに甘みがあるとき。このときは、野菜のように食感を楽しむ。「シャキ」っと果肉を噛み締めたあとにわずかな甘みが口の中に広がる。

次に、熟れたとき。甘みが強烈に主張してくる完熟後は、その濃厚な甘みを楽しむ。ねっとりとしたディープキスのような味わいは、スイーツのそれをいとも容易く超えてくる。

鯛である。正直、刺し身の鯛は、”たい”したことない。(激ウマギャグ) 鯛がその本領を発揮するのは、熱を加えて、鯛本来の香りを引き立てたときである。

鯛めしは、鯛料理の中でも格別だと思う。一緒に炊くことで引き出される鯛の味わいは、白米を「ムギュー」っと抱きしめて放さない。

美味しんぼの二番煎じのような導入ではあるが、タイトルとは密接に関係している。「書きたい」と口にしたのはいいものの、その「かきたい」という音は、「柿、鯛」と無意味に音をあててみる以上の意味合いはあるのだろうか?

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何で「書きたい」のか?

当初の目的は、「時間に対する叛逆」であったはずである。

長らく自分自身を生きてきたが、自分で自分を騙すことがうまくなってしまったのか、そもそも意思表明が軽薄なのかこの目的がぼやけてしまっている。

昨日の意思表明でもあったように、物書きになりたいという一種重い意思表明は、ある意味においてこの目的とすり替わってしまっている。

確かに、物書きで稼げたらね、それはいいんだけど、諸行無常でしょ。こう表現することすら、テンプレートの逃げになってしまっている。

やはり、時間に流されてしまうものなのだろう。初期の私が叛逆と言ったように、基本的には抗えないのである。

こうやって書く文字も、タイトルに釣られて読んだネット記事の古代の中国の人々が残した文字のように、長い時間の中では一瞬の煌めきでしかない。煌めいてすらいないのだろうが。

存在の証明?

深く掘り下げてみれば、時間に対する叛逆とは、「自分の思考を明文化して残す」ことではあるのだが、対して意味のないことのようでもある。

意味のあることとは私の場合なにかと聞かれると、楽しいこと、ではあるのだが、思ってみれば楽しくもない。(こともない) 他者からの承認を欲求しているようにも、映る。それは、原点ではない。

とはいえ、今柿と鯛の話をしたら、食べ物に関しては書きたくなってきた。この書きたいという衝動は、書くことで自分の気持ちのたかぶりを反芻することにあるような気はしている。

物書きになろうとするとこのたかぶりをゆっくりと表現したいのに、効率よく、いい表現を求められる。だから、創作と資本は対極にあるのだろう。(そして、対極にあるからこそ、価値のある創作には高い金銭的価値がつく)

思考を、思いを、考えを整理して書きたいのだろう。

今は、それでいい気がする。

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