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理性の暴力をどう乗り越えるのか

コードギアスと統治の形

コードギアスが好きで3年に1回くらい見る気になる。征服された日本で革命を起こすテロリストの主人公・ルルーシュと、征服した架空の国家・ブリタニア政府のなかから変えていく道を選ぶ元日本首相の息子・枢木スザクという二人の幼馴染を軸にして話が展開されていく。

醍醐味はルルーシュの理性である。もともとチェスが強く頭の回転が早く采配に長けている高校生に、ギアスという人を操れる力が宿り、テロを起こしていく。全体的に人を駒として扱い戦略的に政府の陥落のために采配をする。ライバルのスザクは戦闘力や身体能力で突破する対比で描かれる。スザクのことは戦術は強いが、戦略に勝てるわけがないと、ルルーシュが見下すシーンがあるように、主人公は自分の理性を絶対視している。

スタンスとして理性による戦略に長けたルルーシュ、武闘派で戦術面で最強のスザクという対比で描かれるが、このどちらでもないアプローチで統治を試みる役が一人いる。それがブリタニアの皇女・ユーフェミア。

これまで征服した側のブリタニアが、もともといる日本人を差別的に扱う統治の仕方をしていたが、ユーフェミアは国家のなかに、日本人も含め「みんなが幸せになれる優しい世界」を願い「行政特区日本」を設立する。あくまで対比するとだが、ケア的なアプローチで統治を図る。

「理性的なオレ、かっこいい」という世界観

とはいえ、物語はわりと理性と戦略による反逆を軸にして進む。ルルーシュの人を操る力がユーフェミアに誤作動し、ユーフェミアが日本人を虐殺してしまう。ルルーシュはその暴走を止められず、最終的にユーフェミアを悪役と仕立てて統治の武器として利用していく。

トラウマレベルのシーンだが、コードギアスのファンのなかにはそれを乗り越えて最善の選択を行うルルーシュに対する陶酔的な自己投影を行う人も多いだろう。全体的に厨二病的な設定なので、当然である。

涙を流しながら理性的な判断をする。自分も昔見た時はすげえなと思ったが、最近みると「理性的なオレ、かっこいい」というノリに強い嫌悪感を覚えた。

いま見直すと、結末はどうであれルルーシュとの合意もしていたユーフェミアが最も統治に近づいている。しかし、そういったケア的な物語による統治というのは、厨二病的世界観的にはつまらなすぎる。だから、ユーフェミアは殺されてしまう。

自分は、ギアスの誤作動を発端としたユーフェミアの失脚は、理性的・コントロール的世界観がケア的世界観を倒すロジックがないこと(誤作動でしか打倒できなかった)を示していると思う。というか、理性がコントロール効かなくなった結果、統治の失敗や虐殺といった暴力を招いている。

理性によって、それを乗り越えるしかない、のか。

九大で話すのもあり古賀先生の『理性の暴力』を読み始めた。かいつまんだ自分の理解では、理性と暴力の「共犯関係」である。

「労働も、生産も、医療も、防災も、防衛も、ありとあらゆるものが高度に理性化されている。にもかかわらずそこには意図せざる暴力がなぜか湧き出てくるのである」
「暴力とは一時の感情において、もしくは自分の利益のみを考慮して、他者の精神や身体を傷つける行為であり、その暴力を抑止して平和と共存を作り出すものが理性である。(中略)しかしながら今日、こうした枠組みは疑問に曝されている。なぜなら学が発達し、法が整備され、教育が普及し、社会が合理的に組織されればされるほど、まさにその合理性を通じてあらたな暴力が胚胎し、人々がそれに苦しめられているからである」

『理性の暴力』 序章よりhttps://www.businessinsider.jp/post-217678 の引用のまま)

たとえば、ルールは理性によって作られている。婚姻制度なら、普通に男女が一緒になって、家族としての単位を管理するために便利だから。でもいまはそれが暴力的に働いている場合もある。

そもそも、社会自体も理性によって作られている。資本主義自体、文化や暮らしを豊かにしていく面では機能していた。物質的な豊かさが満たされつつある今では、そんな能力主義的な生活がつらくなってしまうこともある。

一見正しそうに見える、理性が暴力化していく。ただ古賀は「理性のミルフィーユ」として、そのような暴力化には理性が乗り越えていく、それをミルフィーユのように繰り返し続けるしかないと説く。まだ読み始めたばかりだが、この時点ではルルーシュのような世界観を否定しているようにも、肯定しているようにも思える。

ケアによって乗り越えるシナリオ

先日のDeep Care Labの多種とケア展のトークセッションでも似たような話があった。設計は基本的には理性を働かせて、人の暮らしや行動に介入する営み。

トークでデザイン学者の水内さんがいってて印象に残ったのは、「傘ができたことで雨がリスクになった」という考え方。今まではコントロール不可能だったものが、コントロール可能になることで人の欲望も変わっていく。

文化人類学者の石井さんは、それに応答して「コントロール可能になると、ケア関係が失われる」と話していた。コントロールができないという前提に基づいて関係が紡がれていく、一見地道なケアの営みから、社会自体が変わっていくのかもしれない。

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自分のなかではそれでは遅いという気持ちも依然として存在する。これは自分の今の仕事やアイデンティティを肯定したいという心理や、細やかなケアをおろそかにしてきたバックグラウンドも働いているように思う。

先日かいた欲望形成の話も、ケアが関わってくる。結局、〜べきや意思決定も大事だが、その前に気にかけたり、想像するインフラがないと、理性の暴力を繰り返すのではないか。そんな気がしていて、もっと考えていきたいところだなと思う。

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