終わり、そして……、始まり。

  マイ・ベスト・オブ・マイ・ライフ

早春、夜ともなるとまだ肌寒く、コートーの中の背中を思わず丸めてしまいそうになる頃、西川の畔にスポットライトに照らされたコンクリート打ちっ放しの壁と、透明な分厚いガラス窓とが交互に並ぶ、静かな佇まいのバーで、歩道脇から店の中の様子を見てみると、粋に着飾った男女がカウンターに座り、一時の贅沢に癒されている。
「いらっしゃいませ、どうぞこちらへ――」
「……どうも!」
黒服を着た男が一人の女性客をカウンターへと案内した。
「いらっしゃいませ、横井さん、まずはどうぞ!」と、バーテンダーの利川が湯気の立つおしぼりを広げて手渡すと、辺り一面に一瞬、柑橘系の香りがふわぁっと漂った。しかしその匂いは店内のノイズと同化しスーッと霧散した。
横井は手に取ったおしぼりでサラッと手を拭き、カウンターに畳んで置く。それを利川がさりげなくかたずける。
この店ではお絞りに薄い微かな香りを染み込ませてあり、その香りを日替わりで変えている。お客が手にした一瞬だけ香る程度の匂いだが、お客にしてみれば、これも目に見えぬ贅沢な演出の一つである。
「あっ、どうもありがとう利川さん……」
「いえいえ、本日もお疲れ様です」と静かな店の雰囲気と一体化した利川は、静かにカウンターの中ほどへと下がって行き、スーッと屈み、カウンター下の冷凍庫からキンキンに冷えたロックグラスをとりだした。
そしてロックグラスをカウンターに敷かれたゴムラバーの上に置く。
「横井さん、何時もといっしょで宜しいですか?」
「えぇ、おねがいします」
利川は軽く頷くと、横井の大好きなタンカレーの入った緑色の瓶を冷凍庫からとりだし一旦ラバーの上に置くと、ロックグラスにミラーボールの様に綺麗に削られた丸い氷を入れた後、手際よくボトルのキャップをはずし氷の入ったロックグラスにタンカレーを注いだ。
仕上げにカットライムを一絞りし、その搾ったライムをロックグラスの中へ沈め軽くステアーする。
静かな店内に漂うジャズのリズムに耳を傾ける横井の前に、タンカレーのロックが置かれると、微笑みを浮かべ横井はロックグラスを傾ける。
まずは一口舐める。すると何時ものキレのあるタンカレーの香りが口いっぱいに広がり、横井を至福の時間へと誘い込む。そしてゆっくりと息を吸い込み、一息に今日一日の疲れをフーっと吐き出すと、ロックグラスを見つめ頬を緩めた。
そこへいきなり「どうも、いい雰囲気のお店ですねぇ、ここのお店―」と声を掛けられ横井は隣に目をやると、さっきまで空いていたはずの席に着物姿に白髪のオカッパ頭で品のある笑みを浮かべる老婆が座っていた。
横井は微笑みながらかるく頭を下げて「いいお店ですよねぇこのお店、私も大好きなんです……」と返し互の手にした酒を掲げた。
(あれぇ、私が入って来た時、隣の席に誰も座って無かったけどなぁ……、何時の間に……)
 そこへ入口のドアが勢い良く開き、買い物袋を抱え、黒の上下に蝶タイ姿で彫りの深い顔に、厚い胸板を突き出した男がニンマリと笑いながら入って来た。
その男が、この店のオーナー佐島一休である。
この店のある田町界隈では、通称西川沿いの一休さんと呼ばれる名物バーテンダーでもある。
「あぁ、横井さんいらっしゃい!」と気安く声を掛けるとペコリと頭を下げ、買い物袋の中をゴソゴソとした後、モスグリーンの直方体の箱を取り出すと、中身を手際よく白い平皿の上に並べた。
「はい! いつもの……」というと横井の前に差し出した。
「コレコレ、これがないとねぇ~」
皿に盛りつけて出されたのは、ミントクリームをビターチョコでコーティングしたものだった。
「ウ~ン良い香り……、おいしいなぁ、コレさぁ、タンカレーと良くあうのよねぇ、ウ~ン最高!」
「フッ、何時もながら大袈裟じゃなぁ横井さんわぁ、それと〆の大手まんじゅうもあるから、最後に声かけてなぁ、チンしてあげるけぇ」
「ありがとう、私、お酒飲んだ後は熱いコーヒーと大手まんじゅうでしめないと気が済まないのよねぇ」
「ホンマに横井さん甘党じゃねぇ。ワシ初めて見たわぁ、大手まんじゅうにハマった関東人。」
「そおぉ、これレンジでチンしてコーヒーと合わせると最高じゃない」
「あぁ、ホンマぁ……」と言葉を詰まらせる。一休は甘い物が苦手で横井から、この話を聞くたびにウッと、酸っぱいモノが込上げてしてしまいそうになる。
横井は微笑みながらなにげにフッと隣に目をやると、さっきまで座っていたはずの老婆の姿が消えている。カウンターの上にも何も無く空席となっていて(あれ?)首を傾げている横井をニンマリとしながら「どうしたんでぇ横井さん、キツネにつままれた様な顔をして?」
「いやぁ……、あのさぁ、隣に座ってた着物姿のお婆さんって何時の間に帰っちゃたのぉ?」
「えっ、いやぁ……」
「…………」
「……まさか、……見ちゃったぁ?」
「なにソレ……、気になるんだけど……」
 「この店、たまぁ~に、出るんじゃわぁ……」
「出るって、まさかぁ、これ……」といって横井は両手を胸の前で折りまげて見せた。
「そう……、まぁ特に害はねぇんじゃけどなぁ。女の人の前だけに現れるみてぇなんよぉ……」
「…………」
 「なぁ~んもビビるこたァねぇけぇ。心配せんでええっちゃ、そのお婆さんを見た人はみんな、何かに導かれたかのように幸せになっとるけぇ。ほんまに心配いらんけん――」
 横井の顔は幾分か引き攣り、言葉を発する事なくタンカレーを一息に喉を鳴らして胃袋に収めた。
 「どうしよう、祟られたら……」
 「大丈夫じゃって、この店の守り神みたいなもんじゃけぇ」
 「やばい、酔いが一気に冷めて来た……」
一休は空になったグラスを横井から受け取ると、おかわりのタンカレーを入れて横井に手渡した。
「ところで今日は一人なん?」ときかれて、急に何かを思い出したかのように横井は、顔を歪めながらぼやいた。
「フン、また課長と一緒に中央町で中年探偵団やってるんじゃないの? ホント好きなんだから、知らない……」
「フ~ゥ、困ったもんじゃねぇ、横井さんのミントチョコレートにも・・・・・・」というと横井は頬を緩ませ皺を寄せた。
気が付くと静かな店内には横井の好きなマル・ウォルドロンのレフトアーローンが霧の様に漂っている。
横井は再び至福の時を楽しむ。
そしてほろ酔い気分で頬がほんのりと赤く染まった頃、店内に慌てた素振で掛け込んで来る客が一人、横井のミントチョコレートこと、彼氏の青田新之助である。
慌てた様子の新之助を迎えた一休は、小さく耳元で囁く。
「しんちゃん遅ぇ~ちゃぁ、横井さん御立腹じゃぁけぇよぉ~、知らんでぇわっしぁ――」と一休が近況報告をする。新之助は一瞬顔を顰めると、横井の座るカウンター席へと向かい「ふ~、まいったなぁ、遅くなってゴメンゴメン、課長が返してくれなくてさぁ、ホント好きだよなぁあの人は……」
「フン、自分もでしょう! 今日は何処の店の女の尻を追っかけてたのかなぁ、中年探偵団の青田君? 私、何時までもニコニコ笑ってないわよぉ――」と皮肉を言うとタンカレーを一息に空け、おかわりとロックグラス振って催促した。
 カウンターの端っこでは一休がやれやれと言わんばかりに呆れ顔で首を左右に振る。
「悪かったよぉ、次から気を付けるからさぁ、ふぅー……」
「あのさぁ、溜息吐きたいのはコッチなんですけど、それに次から次からって何回言ってるのよ、そのセリフは聞き飽きました――」
「違うんだよぉ、他にもちょっと込み入った話しがあってさぁ――」
「違わないわよぉ!」
「だからそうじゃなくて……」
「そうじゃなくて何?」
「実は、俺さぁ、この春転勤かもしれないんだよ……」
「エェ~、そうなの……」
「お前は大丈夫なのかよぉ?」
 二人とも実は東大出身で、学生時代に知り合い卒業した後も德森書店という岡山に本社を構える一部上場企業に入社した同期である。横井は企画部、新之助は営業部で部署こそ違うが企画部と営業部の合同会議は頻繁に行われ、二人は仕事の面でもパートナーなのであっだ。
「私の方は何も……」
「俺は今日課長から神妙な面持ちで青田話しがある。今晩開けとけ! て言われて、この時間までその話さぁ」
二人の間に一瞬間があき。
「でっ、どうなったの?」
「あるかもしれないから覚悟しとけよ。……だとさぁ」
「どこへ?」
「東京支社だ――」
「東京かぁ……」横井は一瞬不安になり呟く。
「私、会社辞めようかなぁ……」
「エッ、辞めてどうするんだよぉ?」
「アッ、冗談冗談……」
「脅かすなよぉ……」
そこへ一休が横井にタンカレーのおかわりを持って割って入った。
「どう?落ち着いたん?」
「エッ、アッ、アァ俺はねっ……」
「何? その言い方、簡単に言うのねぇ」
「いやぁ、そう言う訳じゃ……」
「ナニナニ? どうしたんでぇ?」
「この人、東京に転勤になるかもしれないんだって!」
「えっ、ホンマにぃ?」と言うと一休は新之助を見た後、横井に目をやり、新之助の顔へもう一度目をやった。
「うん、まだ決まったわけじゃないけどね……」
 これを聞いて一休は、日頃から煮え切らない新之助にはいい切っ掛けになればと思い。一休は態とニタニタしながら冗談交じりに話しを向けた。
「どんなんでぇ、しんちゃんそろそろ?」といいながら横井に向けて顎を杓った。
「…………」
「――っと、とんでもない。まだ早いよぉ、それにまだ俺ぇ……」
「まだナニィ、俺、遊び足りないし、でしょっ!」
横井にそう言われ新之助は口を尖らせ黙りこむ。
三人の間に重たい空気ができ、やれやれと言わんばかりの表情で一休が席を外した。
その後、二人は一時間余り飲んでいたが、時間の気になる新之助が席を立つと、横井も渋々腰を上げて店を後にした。

だが帰る間際に横井が一休の顔を無言で見詰めた表情が、堪らなく淋しげに映り、遣り切れない想いにかられながらも一休は一つ二つ頷き返し、(大丈夫だよ)と言わんばかりの表情で見送った。
それから一週間が過ぎた金曜日、横井はカウンターの隅っこで一人、空になったロックグラスの中の丸い氷を指で回し物思いにふけっていた。
「おかわりいかかがですか……」と利川が訊ねると、横井はフッと目を覚ましたかのよう表情で「アッ、おねがいします……」と答えタメ息を一つ吐く。
「一休さん今日は来ないのかなぁ……」とぼやいてまた一つ溜息を吐いた。
「そうですねぇ、そろそろ来ると思いますが……」
その後、三十分位して一休が出勤した。
「あ、いらっしゃい横井さん!」
「あ、一休さん、遅いぃ、ちょっと聞いてよぉ……」その一言で大体の見当のつく一休は、苦笑いを浮かべながらカウンターを挟み横井の方へと寄って来た。
「どぉしたんでぇ?」
「それがさぁ……、あいつ東京へ転勤が決まっちゃって――」
「あっちゃ~、決まってしもうたん……」
「そうなのよぉ、それはねぇ、仕事だから仕方ない事なんだけどぉ、その後の話があるのよぉ……」
「どぉしたんでぇ?」
「あいつさぁ、私の前ではしおらしい顔してさぁ、離れ離れになっちゃうねぇ、なんて言うくせに、居ない処では同僚達に帰りたかったんだァ、やっと願いがかなったよぉ、て言ってんのよぉ。まったく――」
「エッ、そうなん? まったくしんちゃんも懲りンやっちゃのう――」
「やっぱぁそう思う? あっち行ったら私の居ないのをいい事に、今以上に女遊びが激しくなって、あげくの果てには……」
「大丈夫じゃって、ああ見えてもここって処はぁ、弁えとる奴じゃけぇ、せわぁ~ねぇっちゃ!」
「だといいけどぉ……」横井は半分諦めたような表情で溜息を一つ吐くと、タンカレーをいっきに飲み干し「おかわりちょうだい……」と一言言うと溜息をまた吐いた。
「ほらほら、あんまり溜息ばっかり吐いとると幸せが逃げてくでぇ」
「大丈夫、今の私に幸せなんかぁ、何処を探しても見当たらないから……」
「そんな事無かろぉ」
「そんな事ある!」と語気を強めた横井に対し、一休は無言で頷き頬を緩ませ優しい目をおくった。
この時横井は、まわりが思っている以上にこの先の二人で歩む人生に不安を抱いていた。
一休はロックグラスで顔を隠す様にして、中の丸い氷をじっと見つめる横井の眼に一瞬光るものが見えた。

     *

その日、一休は昼過ぎには起きて店の買出しの為、表町商店街へと出掛けた。
近所の公園に植えてある木々は青々とした葉が茂り、春の訪れを感じさせ一休の心を清々しい気分にさせる。
商店街のアーケードを抜け駅前大通りに出ると右折し、少し歩き市民会館脇を過ぎると岡山城と後楽園が見えて来る。岡山三大河川の一つ旭川の土手沿いに並ぶ桜の木には春の日差しがあたり、薄いピンク色の蕾が今にも開きそうになっていた。
(そろそろ桜の咲く時期だな)
しばし城下の風景をながめ、春色の気分に変わった一休は商店街へ戻り、得意先の果物屋で今夜の注文を入れ配達を頼んだ。ついでにいつものミントチョコレートを買いにブラントンへ歩を向けると、商店街を横切る道路との交差点で赤信号に捕まり一休は足を止めた。信号待ちをしながらふっと道路に目をやると、グリーンのワーゲンが一台通り過ぎようとしていた。
「アレ?」
なにげなく目をやった一休の視線の先にはワーゲンを運転する新之助の姿と、助手席には新之助よりも年上に見える女性が、そしてその女性の膝の上でおどける三歳位の女の子の姿が一休の眼の中に飛び込んで来た。
一休は思わず一歩前に踏み出し声を掛けようとするが、新之助達を乗せたワーゲンは走り去っていく。思わず一休は道路へ飛び出しグリーンのワーゲンの後ろ姿を目で追った。
(嘘じゃろう、どぉなっとんなぁ……)
暖かい日差しはさっきまでと変わらず一休の体に降り注いでいる。しかし一休の心の中はどんよりとした雲に覆われた気分になり、トボトボと俯き加減で小春日和の歩道を歩いて帰った。
その日の夜、何時も通りに店に出た一休は嫌な予感がして堪らず厨房の中へ入り込み、パイプ椅子に腰を下ろしたまま考え込んでいた。
(女と二人で車に乗っているならまだしも、子連れの女とはどうゆう事だ。まさかぁ……、いやぁ、それは無いじゃろう)一休はどうするべきか迷っていた。
そんな時、横井がやってきた。
「こんばんわぁ、あれ、一休さんは?」
「あ、来てますよぉ――」
「オーナー横井さんがぁ……」
うかない表情で厨房を後にした一休は、カウンター越しに横井の前に立ち「いらっしゃい……」と言った後、何時もの様にニンマリとし、おしぼりを広げて横井に手渡した。
何時もと変わらぬ様子の横井に一休は、昼間の出来事を話すべきか迷っていた。
普通ならお客のプライベートには一切触れることはない。たとえ街中で見かけてもこちらから話しかける事はないし、お客方から声を掛けられて初めて挨拶をする程度だ。一休は一切お客のプライベートには干渉する事はしない。
勿論、それを店の中で話す事など絶対に無いのだが、横井と新之助の場合は色々と前が有り、その事に一休も相談に乗り多少なりとも関わっていた事から、どうするべきか迷うのであった。


それは三年前の事、付き合っている横井と新之助との間に子供が出来てしまった。
横井は二十五歳になっていて、まんざらでもない様子で毎日ウキウキしながら大好きなタンカレーを控えて、新之助からの一言を心待ちにしていたのだが、肝心な新之助の方は現実を受け止める事が出来ず、オロオロするばかりで、とても相手の人生や、生まれてくる赤ちゃんの事まで責任を持てる程の大人の男にはなりきれていなかった。
「しんちゃん男じゃろうがぁ、しっかりと受け止めちゃれぇやぁ」
「……無理だよ。俺なんかにそんな事出来る訳ないよ」
「不安な気持ちはよぉ分かるけど、気張って一歩踏みだせっちゃぁ」
「…………」
「何を迷う事があるんなぁ、男としてえぇとこぉ見せぇっちゃ」
「……やっぱ無理だよ。俺には出来ないよ――」
「かぁ~情けねぇのうしんちゃん、それでも男かぁ……」
一休も横井から相談を受けていた事もあり、新之助と毎日の様に二人で店が終わった後、何度も話しあい説得もしたのだが、新之助はどうしても最後の一歩を踏み出す事が出来なかった。
すると、そんな二人の状況をお腹の中の子が察知したかのように異変が起こる。
横井が自宅で一人寛いでいる時、突然お腹に激痛が走った。横井は初めて経験する痛みに戸惑い、お腹を抱えながら痛みが治まるのを待った。
しかし納まるどころかどんどん痛みは増して行った。脂汗をかきながらこれは拙いと思い、携帯電話を手に取りなんとか救急車を呼んだ。
救急車は直ぐに到着し救急隊員に肩を借りながら救急車に乗り込むと十分位で病院に着いた。入口では看護師が二人待っていて、横井は直ぐに診察室へかつぎ込まれたが、残念ながらお腹の中の赤ちゃんはあっけなく流れてしまった。
その知らせを聞いた一休が急いで病院に駆け付け病室へはいると、こちらに背中を向けてベッドに横たわり、ボーっと窓の外を見詰める横井の姿があった。
一休が後ろから声を掛けるが直ぐに反応は無く、そっと横井の顔を覗きこむと、横井の何かを必死に堪える顔が見え、枕には悲しみの跡が残っていた。
その時、横井の耳には何処からともなく、生まれてくる筈だった赤子の泣き声がしつこいくらいに響いていた。
お腹の子供の事を聞いた新之助は急いで病院に駆けつけてはいたが、横井に会わせる顔が無く、病室の外の廊下に置かれた長椅子に座り、両手で膝を抱え俯き、肩を震わせながら泣いていた。
その後二人の間には、別れの雰囲気も漂っていたのだが、まだお互いに相手への想いが残り、どうしていいのか判らないと言った状況だったが、二人の様子を見かねて一休がそのまま付き合って行けばと言い諭した。
その後二人はどうにか別れる事も無く、今に至っているのである。

     *

「そう言えばしんちゃん、何時東京に発つの?」
「週末にはマンションを引き払うんじゃないのかなぁ……」
「そう、淋しくなるねぇ」っと、話しを切り、昼間の一件を一休は横井に言い出す事が出来なかった。
その週の金曜日の夕方、仕事を終えた横井はなんだかんだ言いながらも新之助の引越しの手伝いをしてやろうと思い。東山にある新之助の家へ行く為、奉観町の道路脇にある路面電車乗り場に立ち、路面電車が来るのを待っていた。
ぼんやりとした夕焼け空に見とれて立っていた横井は、フッと隣で気配を感じ目を向けると、ニッコリと微笑む着物姿の老婆が何時の間にか横井の隣に立っていた。
老婆は夕日に染まる横井の顔をじっと見つめながら、優しく語りかけた。
「あんた旦那さんに会いに行かれるんじゃなぁ。まぁ長い人生、辛れぇことばぁ~じゃねぇから、しっかり先を見て歩いていきんさいよぉ」というと優しく頬を緩めて頷いた。
「…………」
横井は、突然行く先を見透かしたように話しかける老婆に対し、愛想笑いを浮かべながら頷き、誰だろうと思ったが、すぐに東山行きの路面電車が到着し横井の前で大きな音を立ててドアが開いた為、一瞬そちらに目をやった。そして老婆に先を譲ろうと思い「お先にどうぞ」といって横を向いた時、さっきまでいたはずの老婆の姿は何処にも見当たらない。不思議に思い辺りを見渡したが、何度見ても腰の曲がった着物姿の老婆の姿は何処にも見当たらなかった。
横井は首を傾げながら電車に乗り込み、横一線に並ぶシートに腰かけ「何だったんだろう……」と一人呟きながら夕日に染まる無人の電車乗り場を見詰め返した。
路面電車はパンタグラフから青い稲妻のような火花を散らし、ガタガタと音をたて揺れながら走りだした。
車両の中で横井は、この通い慣れた路面電車からの街並みを見るのも、これで最後かと思いながら夕まずめの街並みを懐かしむ様に眺めた。
東山の終点で路面電車を降りた時、そのままUターンして岡山駅前へ向かう路面電車の到着を、大勢のセーラー服を着た山陽女子高校の女子生徒達が待っていた為、横井はその間を縫うようにして歩道に出た。
「ふぅ~、しかし何時もながら凄い女の子の数だなぁ」とぼやきながら振り返り、セーラー服姿の女子生徒達を見詰め頬を緩め、今にも熔け落ちそうな夕日の赤を背にして、横井は通い慣れた緩やかな傾斜の坂道を進んで行く。道の端にある本屋の前を通り掛かった時、ふっと中に目をやると、店内の奥まった処に、古びた椅子にもたれかかる様に腰かけた白髪に真っ白な口髭を蓄えた老人が新聞を広げて、何時来るとも判らぬ客の来店を待っていた。
ここで横井はよく閉店前まで、仕事で遅くなった新之助の帰ってくるまでの時間をつぶしたのだった。
新之助の部屋の愛鍵は持っていたのだが、男の部屋で一人孤独に帰りを待つ事に抵抗があった横井は、夜の八時までは店を開けていたこの本屋で時間一杯まで粘って、店が閉まると渋々新之助の部屋へいき、一人淋しく新之助の帰りを待っていた事が懐かしく感じられた。
そしてタバコ屋の角を曲がり細い路地を少し進むと、新之助の住むアパートが見えて来る。木造二階建て築四十年以上はゆうに経っていようかと思われるアパートで、建屋に入る前に錆びついた門扉があり、そこを開ける度に響く「ギィ~」っという音をたてながら中庭にはいると、アルミの取っ手の付いた観音開きの共同玄関を開く、入って直ぐ両際に共同の下駄箱、そして何人もの人が何度となく通り、擦り減って角の取れた上がりかまちを過ぎると、すぐ目の前に佇む黒い光沢のある木造の階段がニ階へと続く。
新之助の部屋は二階の薄暗い廊下を行った一番奥の左側の部屋だが、横井が階段を登ろうとした時、ニ階から幼い女の子の声が聞こえてきた。
「ママァ~お兄ちゃんのカバンはユッコが持っておりとくけんよぉ」
「はいはい、階段に気ぃ付けて降りんと行けんよぉ」
「は~い」と言う声が聞こえてくると、ニ階から三歳位の長い髪を三つ網にし、白いブラウスの上に水色のカーディガンをはおり、チェック柄のミニスカートに白いタイツを履いた女の子が階段を座るようにして一段一段降りて来た。
横井は可愛らしい子だなと、おもわず自分の子供があの時、無事に産まれていれば目の前に居るこの子位だなぁっと想いながら、階段の下でその子が無事に降りて来るのを見守る様にして待っていた。
(でも、何処の子だろう?ニ階にこんな子供いったけなぁ……)
すると二階から母親が「ユッコ一人で大丈夫?階段から落ちたらおえんよぉ」といいながら階段の上に現れた。下で娘の降りるのを見守ってくれている横井に申し訳なさそうに頭を下げた後も、娘が階段を降り終るまで後ろ姿を見待っている。
(誰だろうこの人、見かけた事のない人だなぁ……)
その女性はストレートの髪が腰くらいまであり、色白でほっそりとした容姿で寒がりなのか、もう春だと言うのに赤いとっくりセーターを着て、娘とそろいのチェック柄のスカートを穿き、品のある美人妻という感じの女性だった。
そして娘が下まで無事に降りるのを見届けると、その女性はまた階段の奥へと消えていった。
横井は階段を一段一段上がりながら見かけない親子だなと思い、階段を登りきり新之助の部屋の方を見た。
すると新之助の部屋のドアは開けてあり、中からゴソゴソと引越し準備をしている雰囲気が伝わって来た。
横井はドアの前まで行って中を覗き声を掛けようとした時、直ぐにさっきの女性の姿が目に入ってきた。女は部屋に入ってすぐ脇にある小さな台所の前で、部屋の奥に居るのであろう新之助と幸せそうに話している。
「しんちゃんこの皿はこの箱の中でええんかなぁ?」
「アアァ、いいよぉ、ついでにこれも入れといてよ」
「東京の部屋は、この部屋よりは広い部屋じゃし、日当たりもええから気持ええじゃろうなぁ」
「そうだな、それとユッコの保育園も直ぐに探さないとなぁ、忙しくなるぞぉ、早くかたずけて明日の朝一には出発しよう」
「ウン、そうじゃなぁ、そうしよう――」
幸せそうに話す女の姿は横井の目には映っているが、それに応える新之助の姿は部屋に奥に居て横井の視界には入らない。
勿論新之助の視界にも横井は入っていない。
人の気配にきずいたのか、女は横井の方へ目を向けると、ニッコリと作り笑いを浮かべ「どうも……」っと、訝しげな眼差しで声を掛けて来た。
ドアの前で声を掛けられた横井には言葉を返す余裕はなく、立って居る事すら危うい位に気が動転していた。
目の前に居る自分の知らない女の姿を見て、横井の頭の中は混乱し、どうしようもない程気が動転し、立っているのがやっとだった。
戸惑いながらもどうにかコックリと頭を下げると、何も言いだす事も出来ず踵を返した。
そしてその場を立ち去ろうと一歩足を踏み出そうとした時、自分の足が重い棒の様に感じられ、なかなか足を前に踏み出す事が出来なかった。
それでも横井は棒の様になった足を引きずる想いで歩き始めると、踏み出す一歩一歩が、新之助と過ごした幾つもの思い出、一つ一つと重りあい、一歩踏み出す度に大切な思い出が一つ、また一つと暗闇の中へと消えていく様な気がした。
そして堪らず小走りになりながら、新之助の部屋へ行くのに何度も上り下りしたこの黒光りする階段を駆け降りながら、もう二度とこの階段を上る事も降りる事も無いのだと思うと、横井の目に熱い物が湧きでてこぼれ落ちそうになる。
それを必死に堪えたが、鼻の奥がツーンとして鉄臭さを感じて一瞬堪えるのをゆるめた時、スーッと熱い物が頬を伝い落ちた。
それでも階段を小走りに降りていくと、上がりかまちの脇にポツンと突っ立っているさっきの少女が目に入った。
横井は不意に、なぜ私の子供はダメで、この子ならいいのだろう。私と新之助との間に宿り、儚く消えていった子の命と、この子の命がどこがどう違うのだろうと、階段を下りていく途中、誰かに尋ねるかの様に自分自身に問うたが答えは見つからず、やがて階段を降り切ると、少女が大切そうに両手に抱えた革のカバンが目に入った。
よく見るとその鞄は、新之助と横井が付き合いだした最初のクリスマスイブの夜に、自分が新之助にプレゼントしたものだった。カバンには二人が付き合ってきた年月が沁み付き草臥れて哀愁すら感じられた。
少女の横を通り過ぎる時、横井は(返して、その鞄……)っと、心の中で叫んだが少女には届く筈もなく、少女は横井を上目ずかいに見詰め何か言いたげな表情だったが、そんな少女を横目に走り去りながら、自分の体が何者かに背中を掴まれ、引き戻される様な気がしたが足を止める事など出来る筈も無く、そのまま無我夢中で玄関を飛び出すと、外は既に夕間暮れの空に変わり、夕星が輝いていた。
その後の事は何一つ覚えていない。アパートの錆びついた門を走り抜けた時、自分の名を呼ぶ男の声が聞こえた様な気もしたが定かではない。
新之助のアパートからは歩けば三十分以上は掛かる筈の道のりを、どうやって帰って来たのかも覚えていない。気付いた時、横井は自分の部屋のベッドの上で灯もつけず、どれだけの涙を流したのかは分からないが、泣き腫れた目で天井をじっと見詰めていた。

     *

その頃新之助は、引越しの準備を終えて中央町の二十ビルのはす向かいにある一休の住むマンションの下にいた。
「居るかなぁ~最後の挨拶だけはしとかないとなぁ」
「大切な人なん?」
「アア、随分とお世話になった人なんだァ……」
「ふぅ~ん……」
一休の部屋の前までいき新之助はインターホーンを押した。すると中から大きな声で「開いてるよぉ」っと、一言だけ帰って来た。
新之助は恐る恐るドアノブを回し「失礼します……」といって中へ入った。一呼吸遅れて一休が玄関先にあらわれた。
「おお、しんちゃんどうしたんでぇ……、もう発つんかぇ~」
「ハイ、明日の朝一で……」
「ホンマかぁ、淋しゅうなるのう。横井さんも元気なかったでぇ……」
「アァ……その事なんだけどぉ、実は俺ぇ……、転勤先で結婚する事にしたんだ……」
「エッ?」
「実は急に決まったんだけど、一年くらい前から良いなぁ、と思ってた人が居て、付き合ってたわけじゃないんだけど、お互い引かれてて……、その人と……」
「エェ~、どうゆう事でぇそりゃぁ――、横井さん以外の人とかぁ?」と言った後、一休は嫌な予感が的中してしまったと思わず深いため息を吐いてしまった。
「ウン、そう! 決めたんだ。アイツと別れてケジメつけようと思ってさぁ……」
「…………」
「オイ……、入れよぉ――」というとドアを開けて何時か見た女と子供が入って来た。
「……失礼します」と言いながら女とその娘が二人、外から恐る恐る中へ入って来た。
「…………」
挨拶された一休は戸惑いを隠す事が出来ず、新之助とその女の顔を交互に見ながら、どうにも遣り切れない想いが込上げて来るのを隠しきれなかった。
「一休さん、ゴメン……」
「ゴメンって……、なんじゃそりゃぁ?」っと、気の抜けた声で返すと、腹の底から湧きあがって来る怒りを抑える事が出来ず、一休は新之助の胸ぐらを両手でつかむと、揺さぶりながら「じゃぁ、横井さんはどうなるんじゃ、今までずっと待ってくれた横井さんは……、どうなるんじゃぁ!」
一休が新之助に怒鳴り散らすのを見て、一瞬の間を置き少女が新之助の手を引っ張りながら「やめて! お兄ちゃんを虐めないで!」と一休をじっと睨みつけ訴えかけて来た。
そして新之助の後ろに居た女が「すみません! 私達親子の事でご迷惑を掛けてしまって……」
「違うんだ。俺が決めた事なんだ。俺がそうしたいんだ。俺、今度こそ大切なものから逃げたくないんだ。失くしてしまった子供の……」と、まで言うと新之助は一休を見詰め何か言いたげな表情になったが、それを飲み込むと俯き項垂れた。
そんな新之助の後悔の念を悟った一休は、言葉を失い俯きながら新之助の胸ぐらをギュッと掴んだ両手の力を緩め解き放す。
そして一休は俯きながらに「しんちゃん――そりゃ違うで……」とだけ、口にすると誰にもぶつけられぬ想いを顔を歪めながら噛み殺した。
その後二人の間の会話は失われ、新之助は沈黙を破る様に女と娘を連れ寄り添う様にして一休の家を後にした。
その晩一休は、何ともやりきれない気持ちになり店を休もうかと思ったが横井の顔が頭に浮かび、何時もと同じように店に出た。
そして一休が出勤すると店の中はお客でごった返し、バーマンの利川が注文を受けたカクテルを作るのに、てんてこ舞しながらシェーカー振り続けていた。
店の中へ入って来た一休を見て利川は、苦笑いを浮かべてアイコンタクトで助けを求めて来た。気持が沈み切った一休ではあったが、渋々カウンターに入り利川のヘルプに回った。
その後閉店前まで忙しさは続き、一息ついた時には午前2時を回っていた。
そろそろ閉店にしようかとマネージャーの田中に話していた処に、ドアを開け、真直ぐに歩けない位に酔った横井が現れた。
「アッ、いらっしゃい……、どうしたんでぇ横井さん? こんなに酔っぱらってしもうてぇ」
一休は理由を知りながら、あえて何も知らない振りをした。とりあえず一休がカウンター席に座らせると、利川が気を効かせてグラスに水を入れて持って来てカウンターに塞ぎ込む横井に「どうぞ……」と一言だけ言うと、それに気が付き手を出す横井に手渡した。
横井は手に取ったグラスの水を一気に空にすると、隣に立っていた一休にしがみ付き泣きしだした。
一休は田中に目配せし、店を閉めさせスタッフ達を全部帰らせた。
「どうしたんでぇ横井さん……」と聞いた後、一休の頭の中に何時間か前の新之助達との出来事が重く、のしかかる様に蘇って来た。
真夜中の静まり返った店内、BGMも店の中の照明も消えカウンター脇の間接照明だけがぼんやりと灯されている。薄暗い店内でいろんな思いをかみ殺すように話す横井の声は小さく、今にも消え落ちそうな線香花火の様にぽつり、ぽつり、っと続いた。
話しの一部始終を聞いた一休は改めて新之助の身勝手さに怒りを感じながらも、新之助の言った「失くしてしまった子供の……」っという最後の言葉が胸の奥で一休に何かを訴えてくるのであった。
「つれぇ~なぁ横井さん、わかるでぇ……」
「こんなのって無いよね、あんまりじゃない。そんな相手がいるならいるで、早くいってくれればいいじゃない……」
「じゃぁなぁ、なにをしょぉんかのうアイツは……」
「……わたしね、判ってたんだぁ、新之助が私達の間に出来た子供が流れた事に責任を感じてたの……」
「…………」
「だけどねぇ、私はその気持ちを利用しようとしたんだ。早く一緒になりたくてさぁ……、アイツ煮え切らないから」
「…………」
「結局自分で気付かない中に新之助を遠ざける様な事をしちゃった……」
一休は横井の話しを聞いて、新之助の最後の言葉の意味がなんとなく判ったような気がしていた。
「アイツ、真面目じゃねぇ、馬鹿正直なんよ。ワシには出来ん、アイツは馬鹿じゃ……」
「…………」
「アイツ、家に来たんよ。たぶん横井さんがアイツの家へ行った後じゃと思うけど、三人で……」
「…………」
「アイツから大体の話は聞いんじゃけど、どうしてアイツが子連れの女とあぁなったんか、ワシ、サッパリ判らんかったんよぉ。せぇでワシ、アイツの胸ぐら掴んでぶん殴っちゃろうと思うたんじゃけど、間に女の子が入って来て、新之助を怒らないでって止めるんよぉ……」
「どうしたの?」
「殴れんかったわぁ、新之助の身勝手な話聞いてもワシ、新之助の事好きじゃったけん、アイツが決めて無理やり押し通そうとする事、止めれんかったわ……、すまん……」
「うん、一休さんと私、似た者同士ね。私も新之助が自分の部屋でね、私の知らない女と楽しそうに引越しの準備しながら話してるのを聞いた時、何故だか怒れなかった。そればかりか何も言わずに逃げて来ちゃって……」
「…………」
「馬鹿よねぇ、私達……」
「なんだか判らんけぇどぉ、憎み切れんのよなぁアイツ……」
「うん、そうだね……」
「おくるよ、家の近くまで、今日はもう飲むのおしめぇにしようや!」
「…………」
「はい、これ……」
一休が手渡したモノは新之助から預かった一通の手紙だった。その手紙には言い訳めいた謝罪の文が綴られていた。横井はサラッと読んで破った後、一休に手渡した。
「本当に男って勝ってよね。馬鹿だし……」
「…………」
一休はやさしく頬を緩め頷いた。
ふらつく横井に肩を貸しながら、真っ暗な街路にポツン、ポツンと照らす街灯、霧で霞んだ街の中を二人はトボトボと歩いていった。
一休はふらつく横井を抱えて横井のマンションの部屋の前までやって来ると、半分意識の無い横井から部屋の鍵を貰って玄関のドアを開け中に入り上り框に座らせる「ほんならなぁ、ゆっくり休めよ……」と呟くとゆっくりと踵を返した。
するとスーッと横井の手が一休の手に絡み付いて、背を向けた一休を真っ暗な部屋の中へと引っ張り込んだ。
何も見えない真っ暗な部屋の中で、すぐに二人は抱き合い互いの唇を吸いあった。絡まりあう舌、一休の厚い胸板にしがみ付くように横井の両手が背中を掴む、すると一休の唇が横井の耳朶に吸いつきながら優しく抱きしめ返した。横井の細い体がしっとりと濡れ、準備がととのうと、二人はベッドへと転がり込み、更に激しく互いを求めあった。
横井はここで全てを吐きだし忘れようとするが如く、激しく一休の体に絡まって行った。一休の掌が横井の乳房をもみしがきながら乳首を吸い上げると、横井は体を弓の様に逸らしながら喘ぎ声を上げた。そして何度も何度も一休は、横井の体を貪るように抱いた。持てる力の全てを出し切り何度も何度も、やがて二人は力尽き絶えた。
横井は深い闇の中へと意識が消えかかっていく途中、何時か奉観町の電車乗り場で出会った老婆の姿が脳裏に浮かんできた。優しく微笑み頷きながら薄らぐ意識と共にゆっくりと消えていった。
朝、窓から差し込む日差しと、昨夜飲み過ぎた酒の痛みとで目が覚めた横井が思い出したように隣を見た時、既に一休の姿は無かった。
横井を気使い、目が覚める前に横井の部屋を後にしていたのである。
横井はベッドの上で一人膝を抱えて座ると香ってくる一休の匂いを嗅、一休の顔を思い出し微笑んだ。
あれから一か月余りが過ぎたが、横井は店には現れなかった。その代わりに一通の手紙が届いた。


佐島一休様へ、お元気ですか、今私は会社を辞め実家で両親と一緒に久しぶりの家族団欒の日々を送っています。
そちらに居た頃は随分とお世話になったにも拘わらず、何の挨拶もせず岡山を離れた事をお許し下さい。
学生時代からずっと一緒だった新之助に捨てられ、行き先を見失った私に、生きる希を与えてくれ、これからの人生の大きな重荷になるはずだった新之助との事を良き思い出に変えてくれた一休さんには本当に感謝しています。
 それから、ごめんね! 一休さん……、ありがとう。

                 了

                    

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