人の人生とは十人十色、ですがどの人の人生にも少なからず出くわすのが別れ、その別れをあなたはどんな風に受け止め、時間という名の川に流しましたか?それとも、流してしまうことができなくて抱えたままですか?    8/2  「ねずみ色の雨」

   ねずみ色の雨 
小雨降る夜、俺は暁美と離婚が成立し十年以上も続いた泥沼のいがみあいから解放された。その夜気晴らしに新宿歌舞伎町にある結婚生活同様に十年以上も勤しみ通う馴染みのスナックで、長年に亘って沁み付いた夫婦生活の垢を洗い流すが如く酒を飲んだ。
そして散々飲みあげ店を後にした時には、不思議と俺の心の中にあった暁美との結婚生活でこびりついた煩わしき瘡蓋は、綺麗サッパリ剥ぎ取られ何も残ってはいなかった。
しかし一つ心残りなのは、俺に懐いていた二人の子供達と離れ離れになってしまう事だったが、それもこのまま暁美と一緒に暮らし、子供達の目の前で毎日のように母親の阿鼻叫喚する様を見せ続け、これ以上両親の歪に歪んだ様を子供心に植え付けるよりはましだと思い諦めた。
同時に俺の心の中には家族との柵を捨てたことから、久しぶりに一人身になった身軽さからか、(これからどんな風に生きて行けばいいのかなぁ……)と一瞬不安を感じながら考えたが、意識が朦朧とする中、特に何も思い浮かばず、考えるのをやめる。
俺はふらふらとしながらまだ寒さが沁みる朝まずめを歩いていた。ビルの立ち並ぶ隙間から生温かく湿気て生臭い空気が、背後から覆い被さる様にして俺を囲った。
余りの空気にウッと酸っぱい液が込上げるが、それを堪えて先を急ごうと早歩きになった。しかし酒のせいで足取りが覚束無い。そればかりかゆらゆらと辺りが歪むように見える。(飲みすぎたなぁ、しかし何だ? この悪臭は……)
街は薄らと明るくなり始めてはいるが、昨夜降った雨で濡れた路面にネオンの明かりが反射して、昨夜の街の賑いの余韻が残っている。
そんな中街路の先へ歩を進めていくと、街路を覆った朝霧の向うからいきなり女の獣めいた悲鳴が聞え辺り一面に響き渡った。
その猛禽類に似た悲鳴は俺の停止しかけていた意識のスイッチをオンにし、一瞬にして素の状態に戻した。
俺は無意識の中に悲鳴の聞こえた方へ何かに導かれるように歩いて行った。
だが突然それを遮るかのように、大粒の雨がザッと音をたてて降り出し、俺の体にブスブスと突き刺さる様に降り落ちたが、俺はその雨に打たれながら悲鳴の聞こえた方へ恐る恐る近寄って行った。
すると其処には、血まみれで苦しみ悶える女が倒れている。俺は急いで女のもとへ走り寄り肩を抱きかかえ、女に声を掛けた。
「――何があったんだ? 大丈夫かぁ――」と大声で呼びかけたが、血塗になった女は白目を剥き体を痙攣させている。女の顔に浮かんだ表情ではとても喋れる感は無く、どうしようかと考えていると、女はいきなり咳き込み始め最後に「ゴボォ」と音をたて大量に吐血し、俺の顔に生温かい血を飛ばした後、女は何も答える事無く息絶えた。
俺の顔に飛び散った血は生温かくどろどろとして生臭かった。そして皮膚の奥深くまでじわじわと怨念の籠った血が沁み込んでいく様な気がし「ウッ……」とした。
思わず抱きかかえた女を手離たくなったが、人の死に初めて直面した俺の体は膠着してそれも出来なかった。
何か自分の廻りでウロウロとする獣のような気配を感じ怯えながらも、無我夢中で逝ってしまった女の亡骸に呼びかけ続けた。
すると大粒の雨が更に強く降り出し、辺り一面にザァーという音が響き渡り視界を阻んだ。すると雨で見ずらくなったビルとビルとの隙間から、上下黒ずくめにニット帽をかぶり、大きなマスクで顔を隠した男が走り去ろうとする姿が視界に飛び込んで来た。
その風貌は俺に身の危険を感じさせた。俺の中で「逃げろ――」と誰かが囁いた。
しかしその言葉を遮るかのように恐怖心が体を縛り付ける様に膠着させ、全く身動きができない状態に陥った。
男はそんな俺の存在に気付き、完全にニット帽とマスクで覆った顔の隙間から黒光りする眼球を俺に向け威圧し殺気を漲らす。
そして男はまるで黒豹が獲物を襲うかのような様に、ゆっくりと威圧しながらこっちへ向かって来た。その男の片手には血に染まりながらも鈍く赤光する大きなナイフが握られていた。
俺は刻々と迫りくる男の動きが一瞬、モノクロ映画のスローモーションを見ている様に感じられた。それと同時に自分に襲い掛かって来る恐怖が死を予感させた。
すると男は辺りに漂う朝霧を、切り裂く様な勢いで走り出し向って来た。8メートル程の距離まで男が迫って来た時、男が手にしているナイフは自分の腕の中で死んでいる女の血に染められた鋭利なサバイバルナイフだと判った。
男は距離が押し迫ると、刺し違えない様にしっかりと両手でサバイバルナイフのグリップを握り締め奇声を上げ向って来た。
俺は必死に膠着したからだで女の亡骸を手放し立ちあがると、そこへ丁度体の真ん中目掛けて血塗られたサバイバルナイフが突っ込んで来る。俺は体を咄嗟に左側へずらしかわそうとしたが、それも虚しく右半身の足の付け根辺りにズブッと、鈍い音をたて突き刺さった。同時に激しい激痛と右足全部が凍った様な冷たさに襲われたが、その後を追う様にしてボタボタと生温かい血が凍てつく感覚を掻き消すかのように流れ出た。だが時間が経つに連れ右足の感覚が薄れ消えて無くなった。
男は俺の脚の付け根に突き刺さったサバイバルナイフを力任せに引き抜いた。俺はその拍子に体が前のめりになり濡れたアスファルトの上に蹲った。
俺はゆっくりと顔を上げると、目の前にナイフを握り小さく震える男の姿があった。男は俺の顔を見て何故かブルブルと震えだし、さっきまでの獣の様な黒光りした目とは真逆の心の奥底から怯える様な視線に変わり、いきなり踵を返し逃げるように走り去って行った。
俺は予期せぬ出来事に遭遇し痛みと恐怖の中、何度も何度も今し方起こった出来事が脳裏で繰り返されたが、其処へ誰が呼んだかは分からないパトカーのサイレンの音が飛び込んで来て、一旦遠のき掛けた意識は戻って来た。
やがてサイレンの音は止み警察官が俺の周りを囲むと、何度となく俺の意識確認をした後、薄ら目で物言わぬ俺の体を抱き起こすと、駆け付けた救急隊員に「お願いします」とひと言つげる、俺は担架で救急車に運ばれ直ぐに病院へと向かったが、車内で救急隊員の呼びかけに答えた後、朦朧としていた俺の意識はスーっと消えていた。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?