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退職した、髪を伸ばした、一人称が変わった【日記】

 髪を伸ばした。中性的な服を着るようになった。一人称を「私」に固定にした——それが今の「私」だ。note記事で用いている一人称も、いつしか「僕」から「私」に変化している。

 性転換願望があるわけではないし、ジェンダーレス男子を目指しているわけでもない。ただ、このスタイルが何となくしっくり来るので続けている。何となく、か……強いて言語化するなら、男性的ジェンダーからの逃避、フラットな視点で物事を見る、「あ〜こんな自分でもいいんだな〜」と自己肯定が増す。そんな理由からだろうか。

 このスタイルに定着するに至った経緯を遡ると、心身不調で退職した2年前に辿り着く。
 増え続けるイシュー。円滑なコミュニケーションの欠如・認識の齟齬で、業務ミスが多発。取引先からクレームが鳴り止まない。クレームへの対処に追われる、それが原因で既存の業務が遅れ、さらにクレーム増える——プロジェクト全体が、そんな負の連鎖に陥っていた。人材不足でマネジメントできる社員もおらず、プロジェクトは倒壊に向かっていた……

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(以下、画像はぱくたそさんから)

 新入社員の自分がどうにかできる問題ではなかった。それでも、自分のミスが原因で迷惑をかけてしまうことはあったし、オフィスに連日漂うピリピリとした空気、取引先から浴びせられるキツい言葉の数々は、元よりあまり心が強くない自分には耐えがたかった。新しい後輩や外部関係者が次々と増えたことに対するプレッシャーもあった。

 いつからか、げっぷやオナラが多発するようになった。お腹が減っているはずなのに、空腹感がない。おかしい、と思った。自覚症状で調べた。


 呑気症(空気嚥下症)。緊張で空気を呑み込み、胃腸にガスが溜まってしまう。原因はストレス——病名が判明したことで、はっきりと理解できた。心だけではなく、身体すら壊れかけていることに。

 それでも、この先輩のためなら頑張れる——そんな風にとても尊敬していた、頼りにしていた先輩が突然、離職を告げた。私は笑った。どの作品だったか、シェイクスピアが「どん底に落ちた人間は笑うしかない」という風なことを書いていた。まさにその心境だった。私は何もかも、失ってしまった。
 未だに鮮明に記憶に残っている。心が"ぼきっ"と折れる感覚。ばきっ、ぱきっ、という軽い音ではない。心の中にあるコンクリート状の固くて太い芯が折れる——その音、その感覚が、私の胸の内には未だに残っている。

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 先輩が離職を告げた翌朝——慢性的な食欲不振による肉体的疲労も原因だったのだろう——私はベッドから起き上がれなくなっていた。スマホを持つことすらできないほどの疲労が突然襲いかかった。心が折れるとはそういうことだ。文字通り、立ち上がることができなくなる。

 2ヶ月間休職し、復職。周りからはこう言われた。「灰猫くんは気にしすぎだよ。考えすぎだよ」——それは呪いの言葉だった。
 そうか。自分は気にしすぎなのか。じゃあ明るく振る舞おう。もう大丈夫なつもりでいた。しかし、私は私でしかなかった。他人のようにはなれなかった。気にしないことを気にしすぎる、そんな矛盾した状態に陥った。

挫折によって、たえまなく相貌を変えさせられる生活。
「生誕の厄災」p.68 E.M.シオラン,  出口裕弘訳

 私はまた壊れた。2ヶ月後、再休職し、間もなく退職に至った。

 医者からは「ストレス性の心身不調」と診断された。しかし、私が抱えていたものは、病名が判明すればすぐに対処できるような、科学的・論理的・即物的なものでは解決できない、実存的な悩みだったように思う。

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 自分とは何か。なぜこうなってしまったのか。どう生きていけばいいのか。

 それと必死に向き合った結果。あの時に味わった絶望、挫折、孤独、他者との関係性、自分とは何か……色々な負の感情と問いかけ。それが、髪型、ファッション、一人称の変化をもたらした。

あらゆる思想は、損なわれた感情から生れる。
「生誕の厄災」p.106 E.M.シオラン,  出口裕弘訳

 自分は男性的な、ツンツンとした感じじゃなくていいんだ。こういう柔らかい自分がいてもいいんだ。もうちょっとわがままでいんだ。髪型やファッションなど、身に付けるものを変えれば、考え方すら変わることを知った。生まれて初めて、自分を好きになることができた。
 家族や他人との会話は、以前より弾むようになった。現職では、悩みを抱えている上司に寄り添うこともあった——あの時、辛い思いを味わったからこそ、他人の悩みにより共感できるようになった。

 そんな風に、自分という存在を受容できるようなったから、今でも髪は伸びている。が……結局、私はいずれ髪を切ることになるだろう。男性である以上、よほど美形でないと、よほど美容に気を遣っていないと、長髪は似合わなくなってしまう。

 それに、「社会性」という巨大な現実の前に屈服するだろう。「髪の長い男性は気味が悪い」という理由で、バイトの面接に2度落ちたことがある(ちゃんと清潔感のある身なりだったし、相手も遠回しな言い方ではあったが)。当時はかなり憤りを感じた——

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「髪が長い、たかだかそんな理由で!? 言うても肩にかすめる程度だぞ。なぜ他人と少しだけ違うことを許容できない? その程度に狭量なのか、この現代社会は。ばかばかしい。何が多様性だ、ジェンダーレスだ。これが現実じゃないか……」

 しかし、今ではその現実も少しだけ受け入れることができた。「自由」とはそういうものだ、と。

 思想は決して純潔ではありえない。なぜかといえば、思想とはそもそも仮借なきものであり、攻撃的行為であり、私たちの枷を跳ね飛ばしてくれるものであるからだ。思想が抱えている悪しきもの、あえていえば悪魔的なものを除去してみたまえ。私たちは、解放の概念さえ放棄しなければならなくなるだろう。
「生誕の厄災」p.23 E.M.シオラン,  出口裕弘訳
 ひとつの社会は、狭量を押し通すだけの力を持てなくなったとき、死の宣告を受ける。寛い心など持ったら最後、どうして自由の暴虐から、その致命的な危険から、身を守ることができるだろう。
「生誕の厄災」p.175 E.M.シオラン,  出口裕弘訳

 寛容さは時に自滅を招く。ならば、社会とは狭量さがあって当然だ。私が髪を伸ばすだけで、誰かの価値観を否定し、攻撃しているのだ。
 それでも自分なりに多様性を大切にしたいなら、自分を否定するものをある程度受け入れなければならない。もちろん、自分の都合だけではなく、他人を敬うためにも。自分だけじゃない、他の誰かだって、同じように息を詰まらせながら生きているのだから。

 今の私は、しがないフリーターだ。いつまでもこの生活を続けられるわけではない。ただ、あの時味わった絶望を、今の自分の在り方を、自分と社会の関係性を整理しながら、少しずつ前に進み続けたい。

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 ここまで読んでくださり、ありがとうございます。今年もよろしくお願いします。丑(うし)年が終わって、今年は演(とら)年ですね。検索してみましたが、虎社員の画像はありませんでした。