"Teacher"ではなく"Sensei"として――先生について【ブルーアーカイブ】
往年の「野獣先輩〇〇説」を思い出しますね。現在最も強力なミームと化しているのは「田中角栄説」。他にも真面目なやつでいうと――(※以下、最終編およびその他のメインシナリオのネタバレを含みます)
最終編4章のラストシーンを、新約聖書における「キリストの誕生」に重ねる考察があります。お遊びしかり、真面目な考察しかり、先生を何かしらのモチーフに結びつけるという行為はやはり多いようです。
私は王道を征く「メタモン説」ですかね……と、あれを持ち出したら話が終わってしまうので、もうちょっと真面目に語ってみます。私は何となくギリシア神話のシーシュポス、フランスの実存主義哲学者ジャン=ポール・サルトルを先生に重ねています。
先生とシーシュポス——徒労と反抗
シーシュポスは神をも恐れぬ情熱的な男であった。ホメロスの叙事詩によれば、川の神アソポスの娘アイギナが最高神ゼウスに誘拐された時、事情を知っていたシーシュポスはアソポスに「ここに川を作ってくれたら娘のことを教えるやで~❗😁」と交渉。そんなことをすれば誘拐した張本人であるゼウスの怒りを買うことは間違いないのだが、シーシュポスは裁きの雷を恐れず、水の恵みを勝ち得た。
またある説によれば、死後地獄に落ちた彼は、冥府の神から許しを得て一時的に地上に戻ったのだが、約束を反故にしてずっと地上に居残り続けた。ガキが、舐めてると潰すぞ💢――そんなわけでシーシュポスは地獄に連れ戻されて、ある刑罰を受けることになった。
この刑罰こそが「シーシュポスの岩」と呼ばれる有名なエピソード。彼は巨大な岩を山頂まで運ぶよう命じられる。しかし、山頂まで運ぶとその岩は山の麓に転がり落ちる。それをまた山頂に運ぶ、また転がり落ちる、また運ぶ……それをただひたすら繰り返さなければならない。まさに「徒労」を体現したような刑罰。日本で言えば賽の河原の石積みが近いでしょうか。
あの時、黒服から見た先生はまさにそうだったのでしょう。どうあがこうとも岩は転がり落ちる。それなのになぜあえてまた岩を運ぶのか。「理解できない」と口にしていました。vanitas vanitatum, et omnia vanitas
しかし、アルベール・カミュというフランスの文筆家は、徒労以上の意味をそこに見出しました。曰く、シーシュポスからすれば、たとえこの刑罰が神様からもたされた悲劇であろうと、んなことは知ったこっちゃないのである。これは俺だけのものだ。自分だけが自分の日々の支配者だ。この岩は俺自身の持ち物だ。そんな風に考えて神様を置いてけぼりにする。そう、シーシュポスはただただ無益な労苦を背負わされているのではない、みずから悦びを見出しているのだ――
同じ状況で、同じ選択を。黒服の問いに対する先生の回答は「でも明るい未来があるかもしれないから」ではなく、あくまでも「大人としての責任を果たすため」でした。私たちが辿り着いたのは幸いにもあまねく奇跡の始発点だったけれど――もし捻じれた歪んだ終着点が待ち受けていたとしても、目の前に悩み苦しんでいる生徒がいるのなら、先生は必ず手を伸ばす。山頂に岩を運ぶ。何度も。何度も。子どもが苦しむ世界などあってはならない、そう訴えるために。そうして無名の司祭たちを否定し、少女達は「忘れられた神々」ではなく「私の生徒」であると声高に主張する。
それは傍から見れば愚直で、滑稽ですらある。しかし、俯瞰すれば人間のあらゆる活動は「シーシュポスの岩」だ。趣味も労働も愛の営みも。全ては虚しい。永遠なんてどこにもない。不条理だけがある。いったい何の意味があるというのか――でも抵抗を止めるべきではない。そこに人間が見出した以上の意味があらずとも。やはり私たちにとって、アスファルトに咲く花は力強く、美しいのだから。
ありがとう、先生。最終編4章の終幕、言葉を失い、ぼろぼろに涙を流していた私の脳内に浮かび上がったのは、やはり感謝の言葉でした。神様でも英雄でもない。ただひとりの人間として、愚直であり続けて、生徒たちが笑える世界を守り抜いた。人類が背負う運命をその身に受けて。本当に、本当に、いつもありがとう。先生。
先生とサルトル――実存主義と構造主義
哲学分野で「責任」といえばサルトルの実存主義です。世界に本質はない。人間は自分の本質をみずから作り上げる。しかし、それはいかなる価値や命令も自分の行動を正当化することができず、自分自身に全ての責任が伴うことを意味する。引用してみますと、
実存は本質に先立つ、生徒には無限の可能性がある。人間は投げ込まれた歴史的状況・社会的状況の中で責任を果たすことで自分の本質を作り上げていく(アンガージュマン)、責任を負うことは苦しむことではなく心の荷を解くこと。先生の思想はどこかサルトルに重なります。カヤの誘いをきっぱりと断って、ちゃんと社会的な責任を負おうとしたことはまさにその象徴であるように感じます。
人間に本質なんてない。自分の在り方は自分で決める。そうして責任を負う者になるのだ――何だか良いことばかり言っているように聞こえますが、
そんなサルトルの思想に終止符を打ったのがクロード・レヴィ=ストロース著『野生の思考』。サルトルはマルクス主義思想に色濃く影響を受けていたこともあって、歴史には必然性があり、人間はそれに基づいて自由の中から正しい行動をしなければならない、ということを強調していた。しかし、それは歴史をひとつの尺度として自分の客観的な正しさを証明しようとしているに過ぎず、あらゆる文明はそうして何らかの尺度を用いて自分たちが客観的であることを示そうとする。サルトルがやってることは所詮それとなんら変わりない、と指摘された。
さっきシーシュポスのところでカミュの名前を挙げましたけど、実はカミュ=サルトル論争というものがありまして。喧嘩したことがあるんですねこの二人は。で、サルトルはまさにカミュを歴史的責務を放棄した者と見なして「きみは変化することを恐れた」と糾弾した。私はカミュの文体がとっても好きなのでそれを知った時になんやねんこいつ偉そうにほんまええ加減にせえよあんたにカミュの何がわかるっていうのよ❗💢と憤ったもので……っていかんいかん、私怨が混じってきた。ええっと、つまり、サルトルの思想はこんな風に「それは思い上がりが過ぎるんちゃう?」的なことを言われるようになった。
この辺の構造主義(人間の思考は主体的なものではなく先行する社会システムによって規定されているとする思想)と実存主義の対立の話は、内田樹著『寝ながら学べる構造主義』を参考文献にしたものです。興味がある方はぜひそちらを。サルトルのことは嫌いじゃないしむしろ好きです。さておき、話を戻しますと、
国・文化・言語の違いによって個々人の思考の仕方は規定されるもの、というのは現代人からすると「まあそらそうやろな」って感じかと思います。そんなポスト構造主義の(=構造主義の考え方が当たり前になった)時代を、ブルアカは色濃く描いているのではないか。生徒の無限の可能性を信じる先生と、あくまでも記号的な存在として捉えようとする敵陣営の対立がまさにその象徴なのではないか。そんなことをふと考えたりします。ブルアカは懐かしいけれど"新しい"、そう感じられるのはこうした現代社会に通底するテーマが根底にあるからではないか。
ただ先生は歴史的必然性みたいな考え方をしないと思うので、マルクス主義思想から乖離した、サルトルとは違った先生独自の実存哲学があるような……?🤔 今後もうちょと深堀りして考えてみたいですね。近代哲学~構造主義哲学や批評理論はまだまだ勉強不足なので、少しずつ知識を身に付けて、今後の感想記事で活かしていきたいと思います。ブルアカのおかげで読書欲が再燃しています。感謝。
先生と"Sensei"――一般名詞と固有名詞
……と、このマシュマロをいただいてから「先生って何だろうな」と思いを馳せていました。そんな時、ふとグローバル版の4thPVを見たところ、今さらですがあることに気づきました。
格式ばった"Therefore"から、より口語的な"So"になってるの、必死の思いが行間から伝わってくるようでほんま切ないわ……うわああああああん会長おおおおおお……❗❗😭
すみません。取り乱しました。ご覧の通り"Sensei"と表記されています。シナリオは元が韓国語で書かれていて、それが日本語版テキストとして翻訳されているそうなので、そこからさらに翻訳されてグローバル版のこのテキストに至ったのでしょうか。具体的な過程は定かではありませんが、ともかく、グローバル版において、ブルアカの"先生"は"Teacher"(一般名詞)ではなく、"Sensei"(固有名詞)として扱われています。
まあ"Teacher"表記だと英文法としては"a Teacher"と"the Teacher"が区別できなくて紛らしいし、それに日本語ボイスだと"Sensei"って言われてるんだからそれをそのままキャラクター名として使おうよ、っていう実用的な理由なのかもしれませんが……へへへ、深読みしちゃうのがオタクの悪い癖で。キヴォトスの生徒が「先生」と呼びかける時、単なる一般名詞(Teacher)だけでは表現できない、「教師と生徒」という社会的・職業的性格だけではない、それを超えた「何か」が込められている。そんな気がしてなりません。それこそ私がシーシュポスやサルトルを重ねたように、何らかの哲学や人生観が込められているような。
この点、気になったので辞書を引いてみました。そもそも「先生」とは何か。最も網羅的にまとまっていたのは語源辞典の記述。引用してみますと、
はえ~日本では江戸時代の時点ですでに定着していた言葉なんですね。私なりに噛み砕いてまとめると、
これはすごく腑に落ちました。特に「④親しみやからかいを込めた呼び名」。確かに、私たちは学校の先生のことを「教師!✋」とは呼びかけなかった。からかいってのはあれですね、「やれやれ探偵さん、証拠もないのにそんな突拍子もないトリックを主張するなんて、想像力が豊かだな。小説家に向いてるぜ。先生と呼ばせてもらってもいいかい?」って時に使われるやつ。
「先生」と呼びかける時点で、尊敬や敬愛、皮肉として用いるといった”文脈”が介在している。色んなアニメで「先輩」が"Senpai"とそのまま翻訳されるように、その微妙なニュアンスの違いを伝えるなら、確かに"Sensei"とする方が良さそうです。
こうしたニュアンスを鑑みると、ブルアカの「先生」は、
大人なのにだらしないところがある、でもそこにちょっぴり親近感を覚えるしょうがない人であり、
辛い時、どうしようもない時、ひとりぼっちになった時、隣にいて、道を示してくれる人。先を生きる者。そんな風に生徒から認識されていることを実感できます。
たとえ「先生」という肩書き(Teacher)を剝がされて、力を失おうとも。先生はきっと"Sensei"であり続ける。夜空を照らす星のように。偽りの先生のように。職業や社会的立場だけを表す単語ではない、そうした精神性こそが「先生(Sensei)」という語にあてがわれているように思います。
スーパーアロナちゃんが書いてくれたこのとっても上手な似顔絵が、何だかより一層愛おしく感じられますね。TeacherではなくSenseiとして慕ってくれている証拠なんだなって。
以上、マシュマロの質問からはズレた回答になってしまいましたが、先生(Sensei)について語ってみました。考察というよりは好き勝手に結び付けてみただけですが、何かしら参考になれば幸いです。それではまたどこかで。
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